こみみかわら版バックナンバー

はい!社長です-スナック ZAN


スナック ZAN 干場 千絵(ほしば ちえ)さん 41才

中島に嫁ぎ15年、お店を出して10年です。
接客業として日々常連さんや初めてのお客様と接しますが、
毎日初心を忘れず新鮮な気持ちでお店を開けます。

女の子一人一人が主役になって働ける環境を整えています。
今までに二人の女の子がお客様と結婚しました
家族に支えられてのお店なので感謝しかありません。

将来は娘と一緒に仕事がしたいです(笑)

住 所:七尾市中島町中島
お電話:0767-66-6777


北陸銀行七尾支店


北陸銀行七尾支店 長嶋 利治(ながしま としはる)さん 30才

札幌支店から七尾支店に配属になり半年が経ちました。
産業構造が大きく変化する第四次産業革命に備えて、新時代の銀行の役割をしっかりと自覚して、
来るべき時代に通じる銀行マンになるよう自己研鑽しなければと思っています。
七尾にいる間に能登の素晴らしさを満喫できればと思います。
今は休日に趣味のゴルフで能登島カントリーを回ることが楽しみです。

住所:七尾市一本杉町118
お電話:0767-53-2200


第51回 「輝け!郷土の星」サッカーの 島田 凌くん (鵬学園3年)


第98回全国高校サッカー選手権大会出場!

鵬学園サッカー部、強豪星稜高校を破り3年ぶり2回目の全国大会出場。
各地から選手が集まり現在部員は80名を超える。ベンチ入りする20名の中で七尾出身は島田凌くん1人だ。副キャプテンでポジションはミッドフィルダー。攻守の要としてチームを支えている。

県大会では小松高校に13―0、
石川高専に3―1、
準々決勝の金沢高校とは0-0でPK戦となり7-6で競り勝ち、
準決勝の遊学館とは2-2のPK戦で10-9と接戦を制した。
星稜との決勝は延長戦の末に2-1で勝利した。

PK戦は緊張するが、絶対に勝つと精神統一、ボールを蹴るペナルティーマークから7歩下がって、深呼吸を3回、コースを決めて狙う。絶対に決めるという自信があった。そして合宿で鍛えてきた最後まで走りきる力。この粘り強さこそが他校に優り今大会の勝因だったと話す凌くん。

サッカー少年

天神山小3年の時に七尾サッカー少年団に入った。七尾東部中学時代はセブン能登に所属し活躍。中3の時、高校県大会決勝を応援に行った。鵬学園初優勝を目の当たりにし感激したが、全国大会では初戦敗退。よし!鵬に進学してリベンジを果たそう!と決意して迷わず鵬学園に入学。しかし1年の県大会で初戦敗退、2年の大会では2回戦敗退だった。

練習の厳しさよりチームが結果を出せないことが辛い。小中では中心選手としてプレーしてきたが、高校で応援する側になったとき初めてメンバー外の気持ちが分かった。そして一生懸命応援するが、心のどこかで出場できない悔しさがあった。

凌くんがレギュラーに起用されたのは2年の新人大会からだ。残り1年、午後4時半から6時半まで、学校のグランド、和倉サッカー場、能登島サッカー場と赤地監督の指導のもと時間を惜しんでチーム一丸となって練習に励んだ。



赤地監督を胴上げ!!

鵬学園サッカー部

3年生がチームに足りないものは何かを考えスローガンにする。課題を明確にしチームで取り組む。各地から集まる部員はサッカーへの情熱はあるが個性も強く時にバラバラになる。凌くん自身も小中では目立ちたいとスタンドプレーをした。

今年のスローガンは「団結力と戦う姿勢を勝つ力に変える!」だ。実は凌くん、高2の終わりにある出来事で1週間の練習禁止処分を受けた。モヤモヤする気分で嫌気が差した時、中1の時に亡くなった父の事を思い出す。父は凌くんがサッカーをしている姿を何より楽しみにしてビデオに撮っていた。その父がこんな姿を喜ぶはずがないと心を入れ替え、自分の事よりチームのために行動しようと決めた。

部では、礼義礼節、感謝の気持ちを持つ、戦う集団になる、と社会に通ずる人間形成の目標を掲げている。掃除も勉強も当たり前の事を当たり前にやり、人のやりたがらない事を率先師範した。

遊学館との準決勝、思いがけずロングシュートが決まった。やるべき事をやっているとこうなるのか…。心底サッカーをやっていて良かったと感じた瞬間だった。努力したら報われ、人間性も養われるんです。とスポーツの素晴らしさを語る凌くん。 稀に見る好青年だ。



1月2日京都橘戦 頑張るぞー!


七尾国家石油ガス備蓄基地


三室町に平成17年7月に完成。液化石油ガスが備蓄されています。
ほとんど輸入に頼る日本は湾岸戦争を機に、備蓄施設の建設が始まりました。
高さ45m、直径60m、容量5万トンの低温タンクが5基建設されています。
全国で1番最初に建設された基地です。


第176回 七尾市小池川原


在所名の由来

「こいけかわら」という人もいるけど、在所では昔から「おいけがわら」と呼んどるよ。
ここは大谷川と庄津川に挟まれた川原だったんだ。埋蔵文化財の調査で3m掘ったら大きな松や
杉の根が出てきたんだ。大谷川の氾濫で堆積していったんだね。

そして能越道の下になったけどキレイな湧き水の小池があったんだ。畠山城主の茶会にこの水を
使ったと伝わっているよ。そんなことから小池のある川原の在所が由来だと察するよ。

昔の在所

埋蔵文化財の発掘調査でベルトの金属製バックルが二個発掘されたことから、千二百年くらい前の
国分寺の長官、今で言えば県知事みたい人の屋敷跡ではないかと言われているんだ。
神社の裏山に畠山時代の大きな砦跡があるんだ。加賀方面からの敵を意識して築いた丸山砦で、
一ノ曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪と並び、櫓が建てられ、土塁が築かれていて、相当の武将が
配置されていたと思うね。当時のものと思われる立派な鎧兜が残されているんだよ。

元和(げんな)年間というから約四百年前には源左衛門という人が畑を田んぼに開墾したと
伝えられているんだ。土地が狭いので徐々に近隣の村にも田んぼを持つようになって、
昭和三十年代の米の出荷量は七百三十俵と矢田郷で一番だったよ。とにかく働き者の在所でね、
苦労するから小池川原に娘をやるなと言われていたそうだよ(笑)。
そんな在所なので今でも耕作放棄地が無いことが自慢なんだよ。
勤勉な遺伝子が引き継がれているんだろうね。奥能登で行なっている「田の神様」の神事も
ここでは親の代まで行なわれていたんだ。

現在の在所

昔は古府の山奥で在所が一家族みたいもんで、それぞれが「よぼし子」の縁を結んでいたんだ。
普段は付かず離れずの距離感で暮していても、何かあったらお互いに助け合う関係だったんだね。
冠婚葬祭は在所全員で行なっていたよ。

若い人も遠くに出て行かず近隣に住んでいる人が案外多くて、やる気のある人がいっぱいいるから
新しい形で在所を盛り立てていってもらいたいと思っているんだ。十一月に臼と杵で餅つき大会を
やって世代間の親睦を深めたけど、何かしないと町内が分散していくからね。

まなかのひと言

小さな在所に、いっぱいの歴史。
地元のこと、知らないことばかり。


能登島やきもの教室


50年ほど前から続く教室で、現在12名います。
先輩が先生になり後輩を指導し、実用品から置物まで・作りたい物を自由に作っています。

土の配合や釉薬の違いで、全く別物に仕上がるので、
奥が深く釜を開けて取り出す瞬間にワクワクします。

年に2~3回、焼き物展や美術展に出かけ、鑑賞後は食事を楽しんでいます。


はい!社長です-玲瓏餃子


玲瓏餃子 遠藤 玲奈(えんどう れな)さん 41才

残留孤児だった祖母が鳥屋町へ帰国していたのですが母の祖母を想う気持が募り
14年前に家族で日本へ移り住みました。
吉林省の実家が餃子屋でしたので日本でも本場の餃子屋を開くのが夢でした。

日本語を覚え七尾自動車学校で講習指導員をして生活も落着いたので
今年10月に念願のお店を出しました。
発酵させた、ふわふわの本場の味を味わって下さい。

住 所:七尾市藤橋町申53
お電話:080-6127-6505


あずまー植物工場株式会社


あずまー植物工場株式会社 下出 聖菜(しもで せな)さん 26才

地元中島で生まれ育ち自然が大好きだった事もあり、野菜を作る工場に就職しました。
植物工場では農薬を使わない水耕栽培で新鮮な野菜を丹精込めて育てています。
野菜のみずみずしさと食感の良さを地域の皆様にぜひ味わって頂きたいです。
仕事以外では西岸消防団に所属して頑張っています。
はやく家庭を持って地元を盛り上げていければと思います。

住所:志賀町若葉台63番地2
お電話:076-738-1381


海門寺(大田町)


鎌倉以前からの古刹で天台宗、臨済宗曹洞宗と移り変わりました。
畠山五代藩主の次男が住職を務めた時もあります。
上杉の侵攻で廃尽に期しますが幸いにも秘宝の千手観音だけが
戦禍を免れ国指定重要文化財になっています。
前田利家の祈願所でもありました。


第106回 私の仕事は『漁師』です。


賭場と化す漁場に挑む

仕事歴56年 岩政 武光さん 75歳

海との出会い

「この自然を大事に漁を続けて下さい」とスウェーデンのグスタム国王から言葉をかけて頂きました。
平成九年に国王夫妻が能登島を訪れたとき、シルビア王妃が釣りを楽しみたいということで
水先案内をした時のことです。水族館沖で夜中に仕掛けたはえ縄を上げてもらいました。
大きなコチがかかっていたのでホッとしました。

私は大阪に生まれました。
父が戦地に出兵中、母が私を抱いて空襲の合間をぬって命からがら能登島通の実家に戻りました。
戦争が終わり父も帰還、家族は能登島で暮らすことになりました。
そんな時、通の在所に一隻の川舟が流れ着き在所で話し合った結果、失業中の父に
漁師でもやって見ればと船がもたらされました。その船で父が櫓を私が櫂を漕ぎ
ハチメやキスを釣って作事町の魚問屋へ出して暮らしを立てました。私が五才の時です。

パン職人を目指すも

漁の手伝いをしながら西島中学校に二年間通いましたが、将来の事を考えて
中島のパン屋さんへ丁稚に入り中島中学校へ転校しました。
パンの箱を十二段積んだ自転車で砂利道を走り配達を終えてから登校しました。
四年間お世話になりましたが本当にパン屋としてやれるだろうかと疑問になり
能登島へ戻り櫓舟を買いました。十九歳の時です。

その時父が瀬嵐の沢田造船でヤンマーのエンジンを積んだ新造船を作り光進丸と名付けました。
父と漁をしながらこの時私はエンジンをバラし、掃除して、組み立ててと、
エンジンの構造を覚えました。そして二十三歳の時に、妻ふみ子と結婚します。

海を覚える

妻と二人三脚の漁が始まります。在所では同年代二十軒の内十五軒が漁師でした。
私は張り切って七尾湾はもとより富山から小木の端まで漁をしました。
空模様を見て他の人が出漁しない時でも、このくらいなら大丈夫だと海に出るのですが、
嵐になりエンジンの中に水が入り突風の中エンジンをバラして修理して命からがら
帰って来たことが何度もありました。
あの頃は無鉄砲で台風も恐ろしいとは思わなかったです(笑)。

広い海域で漁を追い、岩場で舵や船底を傷めながら海を覚えて行きました。
お陰でなまこ漁では人の倍以上の水揚げが出来るようになり、
みんなにどこかで養殖をしているのかと言われました(笑)。



第七光進丸

日本初

トラフグ漁は当時半日で何十万円の水揚げが出来たので海には百隻以上のはえ縄船が並びました。
混乱を避けるためスタートの位置と時刻を決め無線で「全船スタート!」と号令をかけますが
その役を担いました。はえ縄は五百mの幹縄に五十本から六十本の枝縄に針をつけ一皿となります。
餌をつけながら海にはいていくのですが、十皿なら五㎞、二十皿なら十㎞となります。
同じ道具で同じ餌でも何十匹も釣る船もあれば一匹も釣れない船もあります。
一匹が五万円、六万円になりますから、みんな形相を変えて漁をしていました。

ある時、オスばかり釣れたのでひょっとしてこの辺りに産卵場所があるのではと漁師の勘が働き、
水産試験場に応援してもらい考案した網で春先に週三回ほど砂をすくっては卵を探しました。
三年目に卵が見つかり日本で初めてトラフグの産卵場所発見となりました。
今、七尾湾の魚貝は減少しています。
放流や養殖などを通じて天然物も育て海への恩返しをしたいと思っています。



2人3脚、おかげさま♥

能登島通町 岩政
☎0767-85-2051


第175回 中能登町大槻


町名の由来

二つ伝わっていてね。
この辺は邑知潟へ続いた沼地帯で八幡様の入り口あたりに船着場があって多くの船が着いたことから
「おおつき」と呼ばれたという説と、地勢的に西往来から奥能登へ、眉丈山麓から外浦への交通の要衝で
二宮川左岸の丘陵地に土塁跡が見られるように、この辺りには多くの砦が築かれていて中でも大きな砦、
大きな要塞が大塞(おおつき)砦と呼ばれ、その砦の名前が在所名になったという説があるんだよ。

昔の在所

四六六年前、上杉謙信と武田信玄が川中島で戦っていた頃、ここに両軍合わせて一万人以上で戦った
大槻合戦といわれる大きな戦があったんだよ。
遊佐続光と温井総貞、七尾城の重臣同士が対立したんだね。一五五三年十二月二十七日、
田鶴浜に布陣して進撃してくる遊佐軍を温井軍が飯川から大槻まで広がる末広野で迎え撃んだ。
結果は温井軍の勝利、翌日の羽咋一ノ宮の戦いで遊佐軍は壊滅したということだよ。

この在所は眉丈山系に抱かれた台地に位置してきれいな水が湧くことから
中能登町の水源が二つあるんだ。
それで美味しいお米が採れるので昔はほとんどが農家だったね。
平成二十三年の宮中新嘗祭でお供えするお米は大槻の斉田で作って奉納しているんだよ。

現在の在所

大槻の神社は大日霊女(おおひろめ)神社で女の神様を祀ってあるんだ。
そんなわけかどうか分からんけど女性が多い在所でね。昔は七対三くらいの割で女性が多かったよ。
それで槻和会という婿さんの会が作られていて多い時で二十五人もいたようだよ。
五十年の歴史があったけど人数が減ったので今年解散したんだ。

神輿は菊の御紋でね。明治時代に作られているけど、当時は菊花紋使用が厳禁の時代なのに
どうしてそんなことが出来たのか、どんないわれがあるのか今となってはわからないんだ。
神仏に篤い在所で毎年六月二十日に「田休みまいり」が営まれ西の宮で
阿弥陀如来(光)、大日如来(命)、不動明王(風雨)に
秋の豊作を祈る伝統行事があるけど子どもが少なくなってどう伝えていくかだし、
同じように猪対策で電気柵の予算をもらっても人がいないからどうにもならんのだよ。

祭りや防災訓練の他にボランティアの集いという日を作ってみんなで集るけど、
老人社会の中で在所のあり方をどうしていったもんか思案しないとね。

あきこのひと言

古き里に大きな合戦、神仏に手を合わせる。


はい!社長です-俺たちのステーキ 堂口亭


俺たちのステーキ 堂口亭 堂口 輝雄(どうぐち てるお)さん 45才

高卒後、県外に永らく暮らしていましたが長男なので故郷へ戻りました。

個人的には魚も大好きなのですが、国産ロースをリーズナブルな価格で身近に
味わって頂きたいと思いステーキのお店を昨年2月にオープンしました。
とにかくお米と肉にこだわっています。

1月に長男が生まれ、忙しい毎日ですが癒やされます。
店も家庭も頑張らなくてはと身が引締まります。

住 所:七尾市国分町ラ部20-1
お電話:0767-58-6080


恵寿総合病院


恵寿総合病院 鈴木 杏奈(すずき あんな)さん 23才

私の目標は食に関わる仕事をすることで、今年の4月に静岡県から移住してきました。
臨床栄養の雑誌で恵寿総合病院特集に魅力を感じ、病院の管理栄養士として就職しました。
見ず知らずの土地での生活は、文化や方言の違いに戸惑いもありましたが、
職場環境に恵まれ、地域の方々の優しさに支えられ充実した日々を過ごしてます。
成長のため勉強を頑張ります。

住所:七尾市富岡町94
お電話:0767-52-3211


第50回 「輝け!郷土の星」柔道の 水道 啓人くん (天神山小5年)


全国準優勝!

第16回全国小学生学年別柔道大会に出場した天神山小学校の水道啓人くん、見事に準優勝しました!この大会は各県で優勝した選手しか出場できません。
5年生と6年生の男女2階級あり石川県からも毎年男女8名の選手が出場していますが、1回戦突破が難しい大会です。

啓人くんは七尾幼稚園の時から体が大きく何かスポーツをということで2才上の兄と柔道を習い始めました。現在は中能登柔道教室で週3回の稽古を続けています。石川県大会では小1から負け知らずで優勝を続けてきた啓人くん。早く5年生になって全国大会へ出場したいとこの日を待ち続けて来ました。

初陣の全国大会

身長155cm、体重100kgの啓人くん、立派な体格です。しかし会場は全国大会、雰囲気が違います。

緊張の面持ちで1回戦に臨みます。相手は優勝候補の一人、千葉県の久保選手です。得意の払巻込で技ありを2回、合わせ一本で勝利しました。最初の難敵を倒したことで気持ちに少しゆとりがでました。
2回戦の相手は佐賀県の福田選手です。小外掛、払巻込で合わせ一本。
3回戦高知県の山中選手には後袈裟固で一本、
4回戦宮城県の太田選手とは3分間の激闘の末に判定勝ち、
5回戦いよいよ準決勝です。大阪府の松林選手に払巻込で技ありを取り、そのあと押さえ込んで袈裟固に入り10秒で合わせ一本。

さぁ、ついに決勝戦!相手は兵庫県の吉田征矢選手です。体重70kgの試合巧者で優勝候補です。実はこの顔合わせ初めてではありません。過去6回対戦してきました。しかし一度も勝った事のない相手なのです。いよいよ試合が始まり両親をはじめ50名以上の応援団も固唾を呑んで見守ります。啓人くんが引き手とつり手を取って組もうとしますが、吉田選手は大人びた試合運びで組ませてくれません。そうこうしている内に啓人くんに指導が入ります。

3分間の戦いは指導ひとつ受けた啓人くんの判定負けです。投げられたのなら諦めもつきますが、悔やんでも、悔やんでも、悔やみ切れない決勝戦となりました。試合が終わり控えに戻った啓人くん、柔道で初めての悔し涙を流しました。



日々精進!!

オリンピックを目指す

悔しかった!と一言、来年は絶対に優勝すると啓人くん、夢はオリンピックと歯切れが良い。憧れは金メダリストの井上康生日本代表監督と全日本優勝の原沢久喜選手だ。

練習は辛いと思ったことはない。と言うが、合宿での朝練習のランニングだけが苦手ですと笑う。今までは勝つ事でモチベーションを維持してきたが、今回負けたことで更なるモチベーションアップになったようだ。今回の戦績により12月と来年2月の日本柔道連盟による小学生の全国強化選手合宿に招聘されている。

強さだけでなく、礼儀礼節を教え一人前の社会人となることを目指す中能登柔道教室。北野監督はまだ小学生なので今は正統な柔道を学ぶことが選手として息が長くなると先を見据える。素質はあるので中高で体力と精神がどう成長するか努力次第だと期待を寄せる。大きなお茶碗で朝晩3杯のご飯を食べる啓人くん。大きく、大きく、羽ばたいてほしい!



監督・コーチのおかげです!


赤浦潟


昔は海の入り江でしたが、防湖水門が出来てから、
海水と淡水の汽水湖になり、今では完全な淡水湖です。
一周約4、4kmあり、毎年鯉の稚魚とワカサギの卵を放流します。
かつて赤浦の祭りでは真紅の旗を立て神輿船と囃子船で潟を回りました。


第174回 七尾市南藤橋


町名の由来

昭和二十五年に藤橋町から分町した町でね。
藤橋町の北に位置するのにどうして南藤橋なのかと言えば、分町する区域の中を更に区分けして
北、南、西と分けたからだよ。だから南藤橋の北に北藤橋町、西側に西藤橋町が誕生したんだね。

ちなみに藤橋は文禄四年、一五九五年に前田利家が小丸山城を作る時そこに住んでいた人を
こちら側に移して、城の外堀に藤の橋を架けたことが由来らしいね。

昔の在所

ここは昭和十年に鉄道公舎が建ってから住宅が増え続けてきたんだ。
それで分町することになったんだろうね。いわゆる新興住宅地で寄せ集まりの在所だったんだね。
若い世代が多いので、とにかく名前と顔を覚えようということでいろんな行事をやってきたんだ。
聖母幼稚園で盆踊り大会をしたり、鵜浦や千里浜へ海水浴に行ったり、町内全域で宝探し大会を
したけど、当時は子供でいっぱいだったからね。

それとこの町は政治家が育つ街かもしれんよ。
かつて市議、県議、国会議員と政治家が出ているからね(笑)

現在の在所

人口がこの十五年間で二百人も減っているんだ。小学生も百人以上いたけど今は三十人ほどだよ。
聖母幼稚園と近くに七尾中学、七尾高校があるので賑やかな感じはするけど六十五歳以上が
百三十八人と高齢化は否めないね。夏祭りにはここで育った二代目、三代目の若い人が帰省して
奉燈を担いでくれるので盛り上がっているよ。

鉄道の電化で奉燈が電線につっかえて三島町の仮宮まで行けなくなったので今は町内を隅々回る
ことにしているんだ。近年は恒例のバス旅行と平成二十九年より百歳体操を週一回行っているよ。
ここは従来からの班が十八、マンション、アパートの班が十五で合計三十三班あるけど、
外国人も多くごみの問題なども含めどう交流するか課題もあるんだ。

それともうひとつ大きな問題が能登唯一の開かずの踏切だね。
回送電車など駅構内での入替などもあり、何分間も踏切が上がらないことが日に数回もあるんだ。
町内の道路は狭いし、踏切を渡れば右折、左折と混み合い、そこに自転車と住民や高校生が並んで
本当に危ないんだ。駅前と駅裏を結ぶ陸橋を架けるか地下道を作ってほしいと町内では願っているんだ。

七尾の中心地をどう描くか今こそ行政と政治が一体となって力を発揮して頂きたいと思いますね。

あきこのひと言

新しい街、生まれて暮せば、
かけがえのない故郷。