一本杉通りの北島屋
電話三番、なかなかいいですね
ちなみに七尾の電話番号
1番、ミヤコ音楽堂
2番、今は損保ジャパン日本興亜 能登支社
3番、北島屋
4番、林屋のお茶屋さんだった
5番、春木屋
なんです。
色あせてはいるが紅柄色(べんがらいろ)の格子戸が残る昭和8年創業のお茶屋さんだ。
この建物は平成16年に、能登で初めての登録有形文化財に指定されている。
これで薬草を磨り潰して薬を作っていた、それで薬研(やげん)という。
昔、お茶は薬だった。
薬研でお茶の葉を擦って、飲んでいたという。
それで、薬もお茶も、一服飲むと言う。
栄西禅師が中国からお茶の実とお茶道具とこの薬研を持ち帰る。
そこから日本にお茶が普及する。
お茶には、煎茶、玉露、抹茶がある。
私は、それらがどんな工程で出来るか知らなかった。
北島屋の店主、北林昌之さんに教えて頂いた。
お茶を作る工程は、
①葉摘み、②蒸す、 ③揉み ④乾燥
これで煎茶が出来る
玉露は、お茶の木に、覆いをして、日光を当てない葉を使用する。
そうすると、甘くてトロッとしたお茶になる。
但し、50℃のお湯でなければならない。
抹茶は、乾燥したお茶っ葉から、小枝や葉脈を取り除き、それを石臼で粉にすると、抹茶ができる。
ヨーロッパは粉の文化だったので、石臼が発達した。
ローマ時代にはすでに石臼があった。
日本では、戦国時代に伝わったとされる。
1543年、種子島に鉄砲が伝わる。
火縄銃に入れる火薬を作るため、石臼が急速に普及する。
臼には、お餅をつく臼と粉を挽く臼がある。
元来、日本は米文化なので、杵で臼をついていた。
ヨーロッパは粉の文化だったので、挽く臼が発達した。
それが、日本に伝わったのだという。
石臼と言っているが、本来は石磨(いしま)という。
石で磨くからだ。
でも、今では石臼が一般的になった。
加賀藩は五箇山で火薬を作らせていた。
硝酸がとれたからだ。硫黄は地獄谷から運んだ。
加賀藩が百万石と言われた力の源泉は、米だけでなく、この火薬を持ったていたからかもしれない。
話が変わるが、今有名になった氷見うどんは、もともと輪島で作られていた。と多くの輪島の人が言っている。
輪島の人が、氷見に伝えたのだろう。それでは、何で輪島が先だと言えるのか?
半島だから、先に石臼が持ち込まれた可能性が高い。
うどんも、粉にしなければ、うどんにならないからだ。