弁慶の割り石、戦時中の砕石、デカ山の柱に使われていたエソ档、今も歴史が形として残る七尾市江曽町
昔、在所に沢山の子どもがいた頃、お祭りになると、小さな子ども達は神社にある、でこぼこした岩を登って遊んだ。この岩が、どんな理由で、ここに置かれたか今となっては、知る人はいない。七尾市江曽町、平安時代に駅が置かれた古い在所だ。在所の古老、山田さんに聞いたが、神社に石が置かれた理由は、わからないと言う。こんな岩なら、江曽の山には、いっぱい転がっていると言うので、その山へ案内をして頂いた。細い山道を車で進む。しばらくすると木が倒れ、道をふさいでいる。車から降りて歩く。そして山へ入った。江曽川、御祓川の源流だった。エソ档、デカ山の柱に使われていた。溶岩があった。200万年前のものだった。弁慶の割り石、徳田の民話にある石があった。砕石があった。戦時中に砕いて使用されないまま残されていた。しっかりした石垣が積まれていた。幻の七日城、飯川氏の家来が住んでいたのだろうか。地元に住んでいても、知らないことがいっぱいあると、あらためて思った。ついに発見! 弁慶の割り石。最近では、在所の人でも、簡単にたどり着けないようです。80歳を廻っても元気な在所の古老、山田さんのお陰です。
鳥居の横、でこぼこした石、小さい頃、登った思い出。なぜ、これが、ここにあるか、山田さんも、わからないと言う。
多根へ通じる山道。横を流れる、江曽川。御祓川の源流で、御祓中学校の生徒が、課外勉強によく来ています。
産物となった、エソ档(あて)。林業が栄えた江曽では多くの木挽きがいました。先人が長い年月をかけて品種改良したアテの木で、在所名から、エソアテと呼ばれています。その材質は優れ、江戸時代には、北前船の帆柱に、重宝されました。七尾でも、デカ山の柱や奉燈の角材に使われます。江曽山の傾斜、向き、土壌と、先人の努力の賜物です。
200万年前、火山が噴火した時の溶岩流が固まったものだと言われています。神社にある石は、この山から運ばれたのだと思われます。
徳田に民話に出てくる弁慶の割り石です。スパッと、真っ二つです。
片割れは、こちらです。山裾にあります。この石も、底はスパッと水平です。昔は、底が見えるように、丸太をかましてあったそうですが、隣を流れる江曽川の改修工事と、道路の舗装工事で、今は底が見えなくなってしまいました。う~ん、残念です。
戦時中、朝鮮人労働者が来て砕石し、運び出していたそうです。終戦になり、放置されたまま残っています。こんな山の中に、歴史が残っていました。
道路沿い、山の中、あちこちに、石積みがあります。江曽の山頂には、畠山城主を支えたこの地の領主である飯川氏の七日城と呼ばれる居城がありました。物見砦など5つの砦があったとされています。そんな当時の名残かもしれません。