こみみかわら版バックナンバー

温故知新 この人に聞く(第1回)能登よさこい祭り 田尻 正志さん


今年、第20回を迎えた能登よさこい祭り、和倉の街に県内外から64チーム、2000人が集まった。宿泊客も1200人を超え、地元七尾から17チームが参加し盛り上がりを見せた。よさこいは高知県が本場である。なぜ和倉によさこい祭り始まったのか、20年の節目、能登よさこい祭りを立ち上げた田尻虎蔵商店の田尻正志さんにお話を伺った。

和倉かいかい祭り

温泉街の賑わい創出として50年前に立ち上げたイベント祭である。30年間続いたが、神が宿る祭りではない。住民の祭りなのか、観光の祭りなのか、常に議論があった。ちょうちん行列、和倉音頭、珠洲実高のブラスバンドなど。
オープンカーにミス丸亀を乗せて町内を回った時、沿道は100人にも満たなかった。

これではと当時和倉温泉観光協会の小田禎彦会長から「もっと盛り上がる祭りにしてほしい」と指示が出た。田尻さんは全国の祭り、イベントを調べた。これは面白いと直感したのが、高知のよさこい祭りだった。高知市が不景気を吹き飛ばし、市民を元気づけようと、1954年にお座敷の「よさこい踊り」を街踊りに改良したのが始まりだという。
そして踊り子派遣や指導など「よさこい出前事業」を始めていた。「よさこい」が全国的に広がる兆しが出始めた頃である。高知市の支援を得るため、出前事業の申請書を作成し高知まで出向くと担当者が驚いた。
全国から多くの申請があるが、わざわざ出向いて来たのはあなたが初めてだ。田尻さんの熱意で和倉が採択された。
高知市は500万円の年間予算から100万円を支援した。それも2年間続けてだ。本場高知の支援があって、今があることを忘れてはならない。



能登yosakoiかいかい祭in和倉

テレビビデオを持って各種団体を回った。和倉音頭をアップテンポに編曲し、高知の踊りを見せて説明するが、なかなか理解が得られない。
まず参加チームを作る事に苦労した。加賀屋の小田社長が、「田尻、お前いったい何をやるつもりだ。若い連中がモタモタになっとるがい!」と言われるので、「今回だけ、とにかく参加してくれませんか」と頼み込んだ。市役所青年部も乗る気がない中「田尻心配するな、一本釣りで何とかするわい」と商工観光課長の向田さんが言ってくれた。
そして、のとしん、和倉商人連、和倉保育園、七尾剣道教室、御宿連、東町町内会、高知学生チーム、カンガルーキッズ、10チーム、400人が参加することになった。

高知から法被を借り、鳴子の持ち方、振り付けを指導してもらい、源泉前から小泉酒店まで地方(じかた)車を前進させ、踊りが終わるとバックで戻り、次のチームが踊った。わくわく広場もまだ土盛りのステージだった。こうして日本海側で初のよさこい祭りが開催された。

能登よさこい祭り



「よさこいは、決まり事は少なく、衣装、踊り方、選曲、自由度が高いことが魅力なんだ」と田尻さん。
暮らす人も観光客も楽しめる、そんな能登よさこい祭りを末永く続けるため、現在は連絡協議会が 作られ石崎町の赤坂会長を中心に多くのスタッフが面倒を見てくれている。
「でっかい祭りになった」と感慨深く海を見つめる田尻さん。街を興すとき、若者か、よそ者か、バカ者の力が必要だと言われるが、当時40代の田尻さんは若者でもない。和倉に生まれ育ち住んでいる。
ただ故郷を想う心が人一倍熱い、バカ者だったに違いない。
田尻さんのような筋金入りの「バカ者」が、今まで以上に必要な時代に入っている。