こみみかわら版バックナンバー

温故知新 第9回 野鳥保護


時国公政さん(79歳)

今年7×9で63歳ですよと豪快に笑う時国さん、元気の源は野鳥保護というライフワークを50年以上も続けているからか、御年79歳にはとても見えません。

今回は環境省希少野生動植物種保存推進員で石川県希少生物研究会の代表を務める田鶴浜大津の時国さんにお話を伺いました。

能登に棲む猛禽類の現状を知ることで能登の自然の素晴らしさを知り、能登で暮らす人々が今まで以上に故郷の自然を大切に守っていかなければならないと訴えます。

冒険家

幼少の頃から山野を駆け巡り遊んでいた時国さんは高校卒業後、航空自衛隊自衛官として全国各地に勤務しました。大自然に触れたいと網走のレーダーサイトに志願し任務の傍ら知床の大自然の中でヒグマと遭遇したり、オオハクチョウを観察したり、時には流氷に乗れず陸に取り残された子供のアザラシを背負い数百メートルも引きずりながら海まで運ぶなど野生動物と関わってきました。

またヒマラヤ、アンデス、チベット、南アフリカでの山岳登山にも出かけており、世界中を冒険し続けた植村直己さんのような冒険家の一面もあります。そんな時国さんも長男ということで故郷へ戻ることになり役場に勤務します。

そこで目にしたのは七尾西湾でカモなどの渡り鳥が鉄砲で撃たれている光景です。シベリアと東南アジア結ぶ重要な中継地として能登半島には希少な渡り鳥も飛来します。そこへ県外から狩猟を楽しむ人たちが和倉温泉に泊まり込んで鉄砲を撃ちまくる姿に、「ふるさとの生き物に何をしてくれる ! 」という怒りが込み上げました。

野鳥の会vs猟友会

七尾西湾におとりのカモの模型を浮かべ集まったカモを撃って楽しむことを止めてもらいたいと申し入れ衝突します。相手は一時役場にまで押しかけ来て「時国をだせ!」と喧嘩腰にまでなりましたが、話し合いを重ね猟友会七尾鹿島支部の協力も得て平成10年に七尾西湾鳥獣保護区を設定することが出来ました。

また野鳥公園の建設を石川県に提唱しました。当初設計にはブランコや滑り台が配置されていましたがこれでは野鳥が安心して飛来できない旨を告げ、イギリスの世界的野鳥研究家ニール・モースさんと、アメリカ人のバード・サットン教授に観察小屋の屋根に草花を植えることなどアドバイスを頂き出来たのが現在の野鳥公園です。

平成10年11月3日に行われた落成式に急きょ谷本知事が見えられたちょうどその時、日本では珍しいハイイロペリカンがすぐ近くに飛来して驚きました。まるで野鳥公園のお祝いに来てくれたようでした。



絶滅の危機

能登を故郷として繁殖しているオオタカ、ハヤブサ、サシバ、ハチクマなど猛禽類が近年著しく減少しており、時国さんは大変心配しています。

コイやボラなどを捕食し里山里海に姿を見せる準絶滅危惧種のミサゴの巣は能登全体で280あったものが現在40にまで、七尾市と中能登町では97から11にまで減っています。

原因の一つは松くい虫防除の農薬散布ヘリコプターによる風圧で巣上のヒナや卵が吹き飛ばされてしまうからです。かつては関係市町と日本鳥類保護連盟石川県支部と綿密に打ち合わせをして飛行を選定していましたが、現在は県が空散範囲を営巣地に精通していない業者に任せきりにしているため被害が続出していると言います。

能登にいた朱鷺もいなくなりました。失われた命は作ることは出来ません。このままでは能登半島からまたひとつ希少な鳥がいなくなります。開発と生態系保全、今この故郷に住む人がどう考えるか問われています。



ミサゴ


温故知新(第8回)しょうぶ湯は女のまつり


塚林康治さん(72歳)

七尾の習俗を40年間に渡り500人以上から聞き取り調査研究してきた塚林さん、この度「しょうぶ湯は女のまつり」と題しシリーズ3冊目が発刊されました。

私たちが暮らす故郷に昔から伝っている年中行事を初め、衣食住、信仰、伝説、方言などが時代と共にその姿が変わりやがて消滅していくことを危惧し、後世に伝え残すための記録としてしたためました。

囲炉裏に足を入れると田んぼにカラスが入るぞ

農家で育ち学校から帰ると家の縁側で祖父母から、在所に残る言い伝えや道徳的なことなどを何回も聞かされ、いつしか地域の歴史に興味を持つようになった塚林さん。

小中学校の教員として旧市内各地に赴いたとき、その土地の風習に興味を持ち生徒の祖父母から話を聞かせてもらいメモを取りました。同じ年中行事でも地域によって違いがあることが分かり興味が募ります。

真剣に調べ始めたのは33歳の時、昭和45年から6年間勤務した石崎小学校時代です。子どもたちと郷土クラブを作り毎日のようにお年寄りを訪ねて聞いて回りました。毎日が楽しくてしょうがなかったと振り返る塚林さん。ついには「かつぎ」のおばあちゃんを2年間密着取材し行商先の能登部までついて行きました。

立山が見えれば、翌日は春なら晴れ、秋なら雨

風の動き、潮の流れ、波の形、太陽、月、それらを勘案する石崎漁師の気象予知も凄く、イソライトの煙突からでる煙のたなびきで急変する天候を予知します。

現代はスマホで天気予報を調べ魚群探知機で漁場を探し便利になりました。ただ便利になった分だけ人間の能力が退化していると思います。同じように地域に伝わる年中行事も利便性を求めた生活様式に変化していく中で多くが簡素化され割愛されています。

歴史とは古文書に書かれてあることだけではありません。今を生きている人々から、先祖が伝えてきた事を聞き取り、そこから当時の人々が何を考え、どう暮らしてきたか、その心情面までを探ることも民俗学的アプローチによる歴史なのです。


集落という共同体がなくなる時代

自分は自分、人は人。人工知能やモノのインターネットが急速に普及しついていけないくらい便利な世の中になってきました。しかしどこか寂しい気がします。人と人の会話が無くなり、敬虔な気持ちが無くなり殺伐とした時代になるのではないでしょうか。

様々な年中行事にはすべて意味がありますが、今はその意味が分からないまま形だけ行なわれていることも多いです。
昔、元日は寝正月と言って、動かんもん、働かんもん、鍋釜使わず、掃除のほうきを使うと福の神が逃げていく。出歩くと、一年中出歩く癖がつく、お金も出て行くといったことが各地に伝えられています。これは門松を立て、しめ飾りを吊るしてお迎えし、その家を一年間守ってくれる年神様に慎みを持つために、仕事を休んで神社やお寺参り以外は出歩かないようにとの戒めです。

また田植えの前日は稲様三束を神棚にお供えし、翌日に田んぼの水口にその三束を植え祝詞を上げてから田植えを始めました。稲刈りが終わると最後の稲三株を床の間に飾って感謝を捧げています。農薬も肥料もない時代、豊作は神仏に祈るしかなかったのです。しかし便利な世の中になっていつしか信仰心が薄れていったことは否めません。

祈りは感謝の心を育みます。決まった日に、決まった所作で、決まった食物で、各地で様々な年中行事が執り行われてきました。その意味を知り、時代が変わってもその本質は伝えていかなければならない正念場にきていると思います。


温故知新 第7回 伝統のバスケットボール


柿島誠一さん(71歳)

県内で一目置かれてきた七尾のバスケットボール。
一昨年には七尾中学女子が、昨年は七尾中学男子が全国大会へ出場し、鵬学園も今年インターハイに出場した。今まで多くの選手や指導者が伝統を築き守って来ていることを市民としても誇りに思う。そんな中の指導者の一人、鵬学園女子バスケットボール部コーチの柿島誠一さんにお話を伺った。

情熱

「バスケの柿島先生」、名前は存じていたが驚いた。中島高校に10年、七尾商業に16年、両校を全国区に導いた監督なのに165cmと以外にも小柄だ。しかしバイタリティー溢れる情熱は半端でない。ここまで突き動かすものは何か。

これまでの戦績だが、山王小ミニバスで埼玉の全国大会出場。これが七尾のミニバスの走りとなる。
定時制の城北高校では県体、北信越大会で二連覇、そして30歳のとき中島高校に着任するもバスケ部が無い。部員を集めるところからのスタートとなる。

地元中学の有望選手はインターハイを目指し金城高校へ進む時代だ。3年経って総体決勝でその金城高校に延長フリースロー1本で負ける。2年後リベンジし、ウインターカップでは県体と北陸三県で優勝し全国大会出場。その後もインターハイベスト4、山梨国体3位と戦績が続く。更に長野県の実業団を破り全日本選手権に出場、インカレ5位の中京大に7点差で敗れるも部員11名「さわやかイレブン」と取材され全国に名を馳せる。

その後七尾商業に着任、7名の部員の前で、明日から頑張ろうと言った翌日に3名が辞める。1年生を勧誘し8名となり7ヶ月間の練習で県新人戦優勝。ここでもウインターカップで北陸三県優勝し全国大会へ。
会場は青山学院大学体育館だった。ベンチに8人で待機するも審判員から早く全員ベンチに入って下さいと言われる。ベンチには15席あるがそもそも8人しかいない。平成3年の石川国体では5位入賞。

短期間で少数精鋭に鍛え上げる柿島マジック。そんな指導力が認められシドニー、アトランタのオリンピック強化委員に。今年8年目を迎えた鵬学園では3度インターハイへ導いた。

全日本大学選手権のパンフレットには出身高が記されるが年々鵬学園の名前が増えている。今、地元出身者が大学、実業団で活躍しているが、これは七尾市内のミニバスと中学校での熱心な指導により裾野を維持し伝統を繋いでいるからに他ならない。



鵬学園メンバーのメンタル目標

知恩報恩

中高とバスケをやっていたが家の事情で就職を決めた。その時恩師の中浜耕三先生が親身になり日体大へ進学できた。しかし後悔するのに三日とかからなかった。当時はインターハイ出場者が集まる天下の日体大、そのメンバーでさえも3軍なのにお前何しに来たのだと蚊帳の外に。プレーは教えてもらえず第三陸上部と揶揄され練習は走るだけ。寮生活は地獄で毎晩トイレか屋上で泣いた。辞めて行く同期も多い。何度も逃げ出したいと思ったが中浜先生のご恩を思うと辞めるわけにはいかなかった。選手になれないが指導者になると覚悟を決め耐えた。

都内ベスト16の高校でコーチを始めるが公式戦勝利は1回だけ。そこから本格的に勉強を始めた。強いと聞けば違うスポーツでも足を運び指導法を学び、遠征先の指導者とは10円玉と百円玉を用意し5円玉をボールに明け方4時までシミュレーションし、理論が分かれば学生と一緒にプレーして感覚を掴んでいった。

今もバスケットは進化し戦術の質も変化しているので学びは止められない。迷った時には旧知の実業団監督に電話する。恩師中浜先生のご恩に報いるためだけにバスケを続け、多くのブレーンのお陰でバスケット人生を歩んでこられたと感謝する。 指導者は技術より情熱が勝らなければならない。


第6回 温故知新 郷土史研究


唐川 明史さん(72歳)

年寄りが一人亡くなれば図書館が一つ無くなると言われるんですよ。
昔は爺ちゃん、婆ちゃんが、家の事、地域の事を孫に語ると三世代で100年、その孫が年寄りになって自分の孫に語るとまた100年、計200年間は伝承できたのです。
現代は学校を卒業すると家を出て帰らない子どもが多いので20年間しか繋がらない世の中となって、郷土の歴史が一年一年と失われていく危機に焦っているんですよ。と語る唐川さんです。

きっかけ

時折メディアに登場する唐川さんは中島町を中心に能登の歴史や風俗など幅広い知識を元に様々な活動を行なっています。日本考古学協会に所属し、地元では中島ささゆり短歌会と中島町植物の会の会長を務め、朱鷺棲む里山釶内クラブを主宰しています。

郷土の歴史に詳しい唐川さんですが子供の頃から知らず知らずに興味を抱いたと言います。それもそのはず父親が「加能民族の会」に所属し民俗学を中心に地域の歴史を書いており、家では寝ころがって手を伸ばせば父の書物に手が触れる環境だったとのこと。
そして鹿北商工会に勤務し地域の皆さんと世代を超えてふれあう中で様々な事を知り、疑問に思ったことは図書館で調べ、そんな積み重ねで造詣が深まったと言います。

歴史研究

歴史研究の方法は文献史学と考古学があり、文献史学は書類に書いたものを読み解いて歴史を解釈していきます。考古学は事物を対象にして、いつ頃のものか、材質は何か、何に使われていたか、どのように使っていたかを調べていきます。歴史上の書類には偽物もあり、たとえば紙に墨で書かれた文献が見た目ではその時代の内容に合致していても、そこに考古学でアプローチし紙と墨を分析するとその時代と文章の内容が合わないことがあります。

このことからも歴史は塗り替えられていくことがあると思われます。また民俗学では気候風土の違いで風俗や生活様式などが異なりますが、同じ土地でも時代の移り変わりの中でそれらも変化していくことが分かります。

さしずめ現代なら車がモデルチェンジしていくとか、流行のヘアースタイルが変化していくような感じです。
このような様々なアプローチで歴史が補完されていき、長い年月の積み重ねで今日の段階でこんなことが分かった。ということが歴史研究であり終わりはないと話します。



伝え残す大切さ

唐川さんは経験から活字で残す、写真で残す、絵で残すことが大切だと言います。
人間は生きた事実があっても、記録を残さず死ぬということは、生きた証を残せないと考えるからです。少子高齢化が進みどの在所も連帯感が薄れ、共助の力が弱まり、歴史を語り継げない現実をどうしていけば良いのか…。

結論は伝統の「祭り」にヒントがある。人が少なくなっても「祭り」は実施した方が良い。神輿や枠旗が出せないなら代わりうるものを考える。
たとえば高さ1.8mの赤い旗を各家が持ち出し鉦太鼓を鳴らし参列する。日常に感謝し、神と人が一体となり、心を合わせることの出来る最後の砦が「祭り」だと言います。失われつつある故郷の歴史を少しでも後世に残したいと活動を続ける唐川さん。

今、中島町の各地区を訪れ、集落内の通称名、家の屋号、門徒寺の聞き取り調査を進め、またお年寄りからは人生の経験、知識を伝承してもらうべく話を聞き出して記録している。
唐川さんの活動は失われる歴史を留めるだけでなく、お年寄りにとっても生きた証を確認し、人生を振り返る貴重な時間となっている。 「生きてきて良かった」と。


温故知新 第5回 能登上布


発祥は古代と推定される能登上布。能登部地区を中心に昭和3年には25万8千反の生産量を誇っていましたが、合成繊維の登場で昭和35年頃には1万2千反にまで減ってしまいました。
石川県の無形文化財にも指定され生活の必需品から伝統工芸となりましたが、能登上布はその技の追及や道具の開発など先人の苦労によって築かれてきた稀有なる織物です。

その技を伝承し、絶やさないためにと地元の女性十数名が能登上布会館で昔ながらの技法で手織りしています。そして上布の販売や作業の見学、機織り体験のお世話もしています。その中の一人、花澤久子さんにお話を伺いました。

好きだからこそ

大正生まれの花澤さんは子どもの頃から能登上布と共に人生を歩んで来た第一人者です。
昭和15年頃は仕事が無い時代で、能登部地区を中心に後山、矢駄、木津辺りまで、多くの農家が内職で機織りをしており、織元から男衆が自転車で各家まで糸を届けたそうです。家では朝の4時、5時から織っていたと言います。
子どもは学校へ出かける前に管巻きの手伝いをしました。

能登上布はとても手の込んだ下仕事を要します。麻糸を糸繰りし、緯糸と経糸を整経し、染め、乾燥、蒸しなどなんと20もの工程を経てやっと手織りにかかれます。それらの工程を織元の親方が采配し皆で分担します。親方は工程の担当者が休んだ時は代役に必ず花澤さんを指名したそうです。
いきなり言われて「そんなん出来ん」と言うと、「人がやれていること、なんで出来ん!」と言われながらも「手の皮が剥れ、手がカチャカチャになるほど、なんもかも習った」と述懐する花澤さん。

そうして全部の下仕事を経験して来た花澤さんは、「ひとつ、ひとつ覚えさせてもらった、それがご縁やった。親方が見込んで、仕込んでくれたお陰で今がある」と話します。そんな花澤さんの「能登上布はそんなに容易いものでは無いんや」という言葉にズシリと重みを感じます。それでもここまで続けて来たのは「やっぱり能登上布が好きやったんやね」と笑顔で話してくれました。



凄技

上布とは麻織物の中でも特に上質なものです。肌ざわりが良く夏の着物として重宝され、お盆には旦那様や奥様は上布の着物でお墓参りをしたと言います。
内職をしている家では、くず糸を拾って普段着用に織りましたが縞(しま)しか出来ません。絣(かすり)は柄(図案)が決まっているので、生地になった時にその柄になるように前もって糸を染めて織るのです。

花澤さんは、絣は伸びない糸を使っているが、どうかすると緩みがきてその調整が難しく、今はもう大きい柄の上布を織れる人はいないと言います。花澤さんがかつて仕上げたそんな逸品が能登上布会館に展示してあります。
その技の凄さは地元の織物工場の経営者が、「上布は凄い技や!ちょっと考えられん、ものすごく高度な技術なんだ」「我々に今からそれをやれと言ったら、宇宙に行けというくらいの事なんだよ」と話します。

伝承

上布を織る人がいなくなった今、大昔から続いている織物を絶やしたくないとの思いで集まる女性たち。
織りは柄さえ合わせられれば出来るようになるが、下仕事はどれも容易いことではない。弟子たちにその道理を教えなければと上布会館に足を運ぶ花澤さん。

高齢の師を仰ぎ休憩時間には和気藹々と、仕事中は黙々と手織りする女性たち。
織り姫となり、語り部となり、能登上布を繋いでいる。



温故知新 第4回 ちょんこ山物語


宮下 三郎さん(56歳)

気多本宮曳山奉幣祭、本宮さんの春祭り、4月七尾の街に春を告げる。5月に日本一大きいでか山があり、その前月に行われることと、子ども達が引き廻し、ちょんこ山と呼ばれているので、でか山の前座だと思っている人も多いのではないだろうか。しかし、ちょんこ山の歴史は古く、かつては盛大で賑やかな祭りだった。今その運行さえも危ぶまれていく中、ちょんこ山を未来に繋ぐために9年前保存会が立ち上がり、しゃぎりの復活、伝統の継承、歴史を記す取り組みが始まった。ちょんこ山の事を網羅した文献が無かったため、保存会ではその歴史を調べる事にし、その執筆に抜擢されたのが宮下さんだった。

祭りと故郷を愛す

「それだったら宮下三郎さんに聞いたらいいよ」今までこみみの取材中に何度も耳にしたフレーズだ。4人兄弟の末っ子として一本杉に生まれた宮下さん、小1から祭りに参加しているが、当時は芋の子を洗うほど子供が多く、中々山車に乗せてもらえなかったと言う。しゃぎりの練習開始が待ち切れず二時間も前にまだ誰もいない部屋に行ったり、山車の人形の横に立ち晴れがましい気持ちで電線避けの棒を持ったことなどちょんこ山の思い出が多い。

そんな宮下さんは故郷を愛する思いも人一倍だ。畝源三郎のハンドルネームで自身のホームページを立ち上げ、一本杉、七尾、能登の歴史を詳しく紹介している。それを見ると、ちょんこ山の歴史を調べるのに宮下さんをおいて他にはいないことが頷ける。



ちょんこ山の変遷

神輿が巡幸する祭りとしては平安時代後期と考えられたりもするが、曳山そのものは江戸時代の享保2年(1717)、加賀藩士が書いた「能州記行」の記述で確認できる。当時は獅子頭を被った太鼓叩きを先頭に、小旗、賽銭箱、四神旗、台笠、金幡、立笠、鉾、槍、馬、神輿、籠などの百数十人の行列の最後に山車を曳いていた。それも米町の大国様、木町の恵比寿様の2台だけだったことがわかる。阿良町、一本杉、生駒町は毎年交代で歌舞伎を奉納していたという。

それではいつ、なぜ三町が歌舞伎を止め、山車を曳くようになったのか。宮下さんは30冊以上の文献を調べ文化5年(1808)に三町が一斉に曳山に変わったと読み解く。その訳を加賀藩政史との係わりから推測する宮下さん。文化文政期は江戸の庶民文化が最高潮に達した時代であったが、この時期、加賀藩では藩主が短い間に何人も亡くなったり、金沢に度重なる大火があったり、飢饉が起きたりと泣き面にハチの状況で、藩内に歌舞伎や狂言の禁止の通達を出していたことが影響したのではないかと言う。 また昭和33年頃までは御祓地区を巡幸した翌日には、袖ケ江地区も巡幸していたという。

宮下さんは全てを調べ尽くしたわけではないと言うが、「ちょんこ山物語」という一冊が出来上がった。保存会のメンバーも内容の深さに感心し初版20冊だったものが数百冊も増刷され図書館にも置かれた。今、宮下さんは保存会事務局長を務め、ここ数年は文化庁の文化芸術振興費補助金等を活用して車輪の整備を続けている。そして祭り前に一人、ポスターを持って近隣の幼保園を回り参加を促している。先棒を担ぎ走るタイプではないが、縁の下の力持ちとなって地道な活動を続ける宮下さん。 

さて、これから七尾のちょんこ山をどうしていくのか…。物語の続きは、今を生きる者で創らなければならない。



温故知新(第3回)でか山 人形師 安井吉成さん


かつて港の近くに七尾劇場があった。その舞台大工が祖父の安井武二郎、魚町の人形師だった。父、安井武次も人形師として活躍。一時期魚町、府中町、鍛冶町全ての舞台と人形を手がけた。当時、石川県で唯一の地域伝統芸能大賞受賞者だった。今、3代目として、安井吉成さんが魚町と鍛冶町の舞台を手がけている。

七尾でか山工房

昨年ユネスコ無形文化遺産に登録された青柏祭。今年は注目を集めるだろうから、誰もが知る出し物が良いと正月から案を練る。来年山王神社が1300年を迎え第二鳥居を建てるのに因み鍛冶町は義経千本桜、伏見稲荷鳥居前の場に、そして魚町は太閤記の本能寺の場を提案した。

2月山町が総会で決議、引渡しの儀を行った。ここから舞台と人形に全責任を負う。予算内で見栄えの良い舞台を作り上げることも人形師の腕前だ。組立図を作ると必要な部材が見えてくる。過去の部材も再活用するがまさに大工仕事だ。お姫様の生地とかんざしは京都に買出しに行く。父の代から付き合いある古着屋を3軒回って端切れや古着を調達してきた。それを裁断し着物を仕立てる。

今年は鎧兜も作った。郡町にあるでか山工房では張子さんと呼ばれる4名のお母さん方が舞台道具に下地の紙を張っていく。皆10年以上手伝うベテランだ。



父の言葉

山車は骨組みの段階を「地山」、むしろを巻いて「むしろ山」、飾り付けをして「でか山」となる。

父が「地山」の模型を作れと言った意味が今更ながら分かると言う。それは左右に突き出すとんがり棒と九段と言われる背の横棒を藤つるで縛ってあるが、その位置や縛り加減までも頭に入っていないと舞台が上手く納められず手直しが発生するからだ。

昔は山車を組むのは全て人力だった。今はクレーン車を使って組立てが進む。しかし出来た山車に違いがあることが舞台を作っていて分かるという。昔は数人の熟練した人達が組立てに時間をかけ、細かな加減を熟知して仕上げていたので地山の骨組みが頑丈だったという。その違いは微妙だが揺れに現れる。その微妙な揺れのため舞台の構造を変えなければならなくなった。

昔は地山と舞台が融合していたが、今は合体させている感じだと笑う。これも時の流れだと舞台づくりの方を改善している。



人形見

5月2日午後6時から人形のお披露目である。昔は婚礼や新築した家が人形宿を申し出て、見物に訪れた人に酒を振舞った時代もあったが、今はでか山連町が交替で宿を手当てする。
構想を練り、設計図を引き、大工仕事をし、着物を仕立てる。舞台を作り、人形を飾る。当日は見廻り、何かあれば修繕をする。これが人形師の仕事だ。

子どもの頃から父を手伝ってきて最近思うことがある。壮大な祭りの本当の技と心意気を持った人が少なくなった。青柏祭全体として技と心をどう継承すべきか、ユネスコに登録された今だからこそ危惧すると言う。

人形師とて同じだ。代々続く人形師、長男崇司さんも手伝っているが世襲制ではない。山町に認められた者が人形師となる。最近まで山の伝統を守らなければと思っていたが、今は、自分自身が山に守られ、山に育てられたと思える。そう語った人形師。いい顔で仕事をしていた。



温故知新(第2回)古代米アート 山田重隆さん


毎年9月初旬、藤橋町の1枚の田んぼに絵が現れる。新聞、雑誌、テレビと多くのメディアが集まり取材を受けるのは山田重隆さん。
単にアートではなく、本宮のもり幼保園の園児たちに種まき、田植え、草取り、お披露目、稲刈り、はざ掛け、脱穀、餅つきと、年間を通した体験学習である。18年目を迎える今年はどんな絵が現れるのだろうか。

本宮神社の神事

山田家は代々、3月21日の「おいで祭」、11月13日の「千座祭」、12月13日の「鵜祭」神事のお供え物の一つ「根付きの稲穂」を献上する役目がある。千座祭と鵜祭に献上した稲穂は神事の後、拝殿にて1年間吊るされる。

父から引継いだ時、山田さんはより青々とした稲穂を献上しようと思い、収穫を遅らせるため、田植えも遅らせた。だが稲は丈も短く貧相なものだった。何か方法はないかと聞き調べ古代米にたどり着く。栽培のマニュアルはなく、全て手探りだった。田んぼを波板トタンで仕切り、何種類もの種を植え、肥料の量も変えながら研究を続けてきた。

スタートは赤米、黒米の2種で日の丸のようなものが出来た。絵のテーマにあった色を出すため現在は7品種に増えた。それぞれの稲の色、実る時期、背丈を全て計算し、気候、発育状況などを見ながら手入れを重ねる。今でも経験と勘が頼りである。



藤橋早乙女会

古代には農薬など無かった。そこにこだわった山田さんは完全無農薬で栽培する。そんな姿を見ていた近所の農家のお母さん方が「あんちゃん、手伝おうか」と声を掛けてくれた。ボランティアの藤橋早乙女会が発足した。草が生え、藻が付き、浮草が覆う。草取りだけでも3回以上。どじょうが棲み、それを狙ったカモが来て稲を倒す。目が離せない。品種ごとに成長が違い肥料も難しい。

アートは曲線である、どの苗をどこに正しく植えるか、これは早乙女会でしか出来ない技となった。本当に大変な作業を続けてもらっている。古代米アートを通し強い絆で結ばれ、普通の田んぼでも助け合うようになった。結(ゆい)の復活である。



農に親しみ、恵みに感謝

野菜がスーパーに採れると言う子供がいると聞いた山田さん、古代米を通じて子供達に農に親しんで、土の暖かさを知ってもらおうと、今では市内6箇所の園児たちに脱穀や餅つきの体験学習に出向いている。

最初の頃は、稲刈り前日に少し稲を刈り、そこにベニヤ板を敷き、怪我をさせられないと気を使った。近年、本宮の園児たちは自分で種を蒔き、自分の苗を植える。そうすることで一段と意識が違った。裸足で田んぼに入り草を取る。鎌で稲を刈り、はざに掛け、石鎌で脱穀を体験する。この子たちが恵みに感謝することを知り、心豊かに成長してほしいと願う山田さん。そんな成長が楽しみで山田さんも早乙女会も頑張れるのである。

「私も、早乙女も齢をとった。こんなバカな事をやる人はいないと思うけど、もし、いるんだったら全てを伝えたいと思う」そんな言葉を耳にして帰路につく。
七尾にこんな総合芸術があることを誇りに思い、目頭が熱くなった。 秋が待ち遠しい。



温故知新 この人に聞く(第1回)能登よさこい祭り 田尻 正志さん


今年、第20回を迎えた能登よさこい祭り、和倉の街に県内外から64チーム、2000人が集まった。宿泊客も1200人を超え、地元七尾から17チームが参加し盛り上がりを見せた。よさこいは高知県が本場である。なぜ和倉によさこい祭り始まったのか、20年の節目、能登よさこい祭りを立ち上げた田尻虎蔵商店の田尻正志さんにお話を伺った。

和倉かいかい祭り

温泉街の賑わい創出として50年前に立ち上げたイベント祭である。30年間続いたが、神が宿る祭りではない。住民の祭りなのか、観光の祭りなのか、常に議論があった。ちょうちん行列、和倉音頭、珠洲実高のブラスバンドなど。
オープンカーにミス丸亀を乗せて町内を回った時、沿道は100人にも満たなかった。

これではと当時和倉温泉観光協会の小田禎彦会長から「もっと盛り上がる祭りにしてほしい」と指示が出た。田尻さんは全国の祭り、イベントを調べた。これは面白いと直感したのが、高知のよさこい祭りだった。高知市が不景気を吹き飛ばし、市民を元気づけようと、1954年にお座敷の「よさこい踊り」を街踊りに改良したのが始まりだという。
そして踊り子派遣や指導など「よさこい出前事業」を始めていた。「よさこい」が全国的に広がる兆しが出始めた頃である。高知市の支援を得るため、出前事業の申請書を作成し高知まで出向くと担当者が驚いた。
全国から多くの申請があるが、わざわざ出向いて来たのはあなたが初めてだ。田尻さんの熱意で和倉が採択された。
高知市は500万円の年間予算から100万円を支援した。それも2年間続けてだ。本場高知の支援があって、今があることを忘れてはならない。



能登yosakoiかいかい祭in和倉

テレビビデオを持って各種団体を回った。和倉音頭をアップテンポに編曲し、高知の踊りを見せて説明するが、なかなか理解が得られない。
まず参加チームを作る事に苦労した。加賀屋の小田社長が、「田尻、お前いったい何をやるつもりだ。若い連中がモタモタになっとるがい!」と言われるので、「今回だけ、とにかく参加してくれませんか」と頼み込んだ。市役所青年部も乗る気がない中「田尻心配するな、一本釣りで何とかするわい」と商工観光課長の向田さんが言ってくれた。
そして、のとしん、和倉商人連、和倉保育園、七尾剣道教室、御宿連、東町町内会、高知学生チーム、カンガルーキッズ、10チーム、400人が参加することになった。

高知から法被を借り、鳴子の持ち方、振り付けを指導してもらい、源泉前から小泉酒店まで地方(じかた)車を前進させ、踊りが終わるとバックで戻り、次のチームが踊った。わくわく広場もまだ土盛りのステージだった。こうして日本海側で初のよさこい祭りが開催された。

能登よさこい祭り



「よさこいは、決まり事は少なく、衣装、踊り方、選曲、自由度が高いことが魅力なんだ」と田尻さん。
暮らす人も観光客も楽しめる、そんな能登よさこい祭りを末永く続けるため、現在は連絡協議会が 作られ石崎町の赤坂会長を中心に多くのスタッフが面倒を見てくれている。
「でっかい祭りになった」と感慨深く海を見つめる田尻さん。街を興すとき、若者か、よそ者か、バカ者の力が必要だと言われるが、当時40代の田尻さんは若者でもない。和倉に生まれ育ち住んでいる。
ただ故郷を想う心が人一倍熱い、バカ者だったに違いない。
田尻さんのような筋金入りの「バカ者」が、今まで以上に必要な時代に入っている。