こみみかわら版バックナンバー

第207回 七原


在所名の由来

在所では「しつわら」と呼んでいるよ。
赤蔵山系と眉丈山系の狭間の小さい盆地で、そこを流れる吉田川を挟んで拓いた田んぼが唯一の平地なんだけど、七つもの野原があるようなところではないので、なんで七原となったか正直わからないんだよ。

昔の在所

人里離れた山間に田畑で暮らしを立ててきた在所でね。私が子どもの頃は田んぼも土水路でドジョウやタニシがいたし、吉田川にはきれいな水が流れヤマメやナマズ、コイにフナ、ゴリなど沢山いたよ。

タニシはゆでておやつ代わりに食べていたくらいだけど、ここのタニシは先端が白いのが特徴なんだ。昔この辺りに十劫坊というお寺があって、たくさんの坊舎が建ち並んでいたことからか、在所では僧の生霊と言い伝えられているよ。

私の苗字は家の前が採石場だったから大石で、屋号は「ほこさ」と言うけど、長尾景虎の六人衆の一人で鉾持ちだったからだと伝わっているんだ。志賀町方面からの敵を防ぐのにここに家を構えたと聞いているよ。六人衆の系図ははっきりしていて、今でも事があれば吉田の長尾家を中心に集まるんだよ。

現在の在所

この時期、吉田川から田んぼ、山の麓にかけて沢山のホタルが飛ぶけど幻想的でとてもきれいだよ。

近年、水もきれいで自然が豊かだからと移住して自然農法を営む若い人もいてくれてね。こちらはもう在所の人として迎えて色々と交流しながら助け合っているんだ。

小さな在所ゆえみんな素朴で人が良く、草刈りも、苗植えも収穫もみんなで手伝って、毎週土曜日にはどこかの家にみんな集まって一杯やっているよ(笑)。八世帯しかないのに川の草刈りには十五人も出てくるんだ。在所の外に住んでいても七原に畑をしている人たちが草刈機を持って集まってくれてね。

若い仲間も増え昨年は二十一年ぶりに秋祭りに旗を立てたし、今年は神輿を出そうと話しているんだ。なんと五十年以上ぶりだよ。何をやるにしても協力しなければならないし、在所中ラインでつないでもうみんな親戚づきあいなんだ。

最終的には人と人のつながりが一番大切だと思うんだよ。いがみ合うより、助け合って、美味しいもの食べて、楽しく過ごす。そういう環境を子や孫の代にも残していけたらと願っているんだ。

あきこの一言

絆を大切にして、自然を満喫。
思いやりのある暮らし、素敵な在所。


第206回 東三階


在所名の由来

元々の三階村が江戸時代に二宮川を挟んで東が前田領、西が長領となったんだ。その後明治期に三階村が東三階、西三階に分村したんだね。三階村の由来まではよくわからないけどね。

昔の在所

室町時代、東三階を中心に開墾が始まっていったんだ。そんな歴史のなかで近年までずっと農業を中心に営んできた農村だよ。大正時代には在所出身の郡会議員が中心となって一反、三百坪の耕地整理をいち早く行っているんだ。

農閑期の夜は近所のお母さんが三人、四人集まって囲炉裏を囲んで筵(むしろ)を作る縄を編んでいたよ。子供は学校から帰ったら縄にする藁(わら)を叩いてほぐすのが仕事でね、勉強しろと言われたことが一回も無かったよ(笑)。

どこの家も五人、六人と子供がいて、私の実家も遊び場になっていて缶蹴りやメンコで遊んだよ。田んぼでソフトボールしたり、祭りになると野師(やし)が家の前で店を広げ小遣いをもらった子供たちが集まって本当に楽しかったなぁ。

部屋に畳でなく「こもしろ」を敷いていたような生活が昭和三十年を過ぎて「あんか」も「おじ」も金の卵と言われて都会へ出ていくようになって時代が変わったようだね。

現在の在所

昔は春と秋の祭りには神輿と獅子舞が在所を廻りどこの家も親戚を呼んで十人、二十人と集まっていたけど、今は空家と一人暮らしか二人ボッチの家が多く、秋の祭りに集会所の前に神輿を出すだけになったよ。

東三階の神社は標高六十八mの険しい山の上に建立されて江戸時代までは五社大権現と呼ばれ石動山の伊須流岐比古神社と同じ虚空蔵(こくぞう)菩薩・十一面観世音・将軍地蔵・俱利伽羅不動尊・聖観音を祭っていたんだ。明治の神仏分離、廃仏毀釈で佛様を祭られなくなったけど、その山一帯を虚空蔵菩薩の漢字を変えて国造(こくぞう)山と呼んでいるんだ。

宮は伊弉諾(いざなぎ)神社として麓に移転しているけど八月二十日の国造山祭はしっかりやっているよ。

大正時代に整備した田んぼを新たに広くする圃場整備事業が来年から始まる予定だけど、町会と生産組合、アグリ東三階が協力して取り組んでいくよ。

アグリ東三階はため池や土手の草刈りなど年に三回は行っているけど沢山の人が草刈機持参で和気あいあいと作業するんだ。作業を通じ強い絆で在所を守っていかないとね。

あきこの一言

垣間見る日本の原風景
田舎暮らしを楽しむ在所


第205回 七尾市八田


在所名の由来

矢田郷から分かれた村で八田(やた)と書いて(はった)となったとか、八田三助という郷士がいたとか、八幡町から出た人がここで田んぼを開いたとか所説あるようだけど本当の由来はわからないんだ。

昭和二十八年、平城京跡の発掘調査で能登郡八田郷と書かれた木簡が出てきたんだ。木簡とは地方から奈良の都に税として物品を輸送する際の荷札のことだけど奈良時代にはすでに八田という地名があったことは確かなんだよ。

昔の在所

江戸時代後期、水不足が深刻で二百九年前に山の奥に三ヶ村池という二段構えの池を作ったんだ。八田と国下、中挾の三村共同で二年間に六千七百五十人の人足が出たと記録があるよ。

この池の土地が江曽地内だったことから八田の乗龍寺にあった自慢の大太鼓を江曽村に譲り渡すことになったんだ。その太鼓は今も江曽の妙楽寺にあって戦前までは正午の時を告げていたらしいよ。

太鼓の話がもう一つあるよ。三ヶ村池から流れ出る水が笠師川となってその中流に滝つぼの蛇池があるんだ。昔ここで七日間に及ぶ雨乞いを飯川村光善寺第二十五世住職の観常にお願いして執り行ったんだ。

その時打ち続けた太鼓が今も光善寺にあるけどこの太鼓は中島町西岸の室木助左衛門(明治の館)が百八十三年前に光善寺に寄付したものなんだ。

室木家と光善寺の繋がりが不明だけど、八田にも室木家と同じく廻船業の八田助五郎という人がいたので縁を取り持ったのかもしれんね。

現在の在所

近年八田の棚田米が全国の品質審査大会で数々の賞を貰っているので嬉しいね。

担い手の高齢化が進み跡取りがいないのが気にかかるけど、標高二百メートルの棚田は寒暖差があり石動山系からの湧水なので美味しいんだよ。
棚田は農機を入れにくいし労力をかけても採算が合わないという苦労もあって耕作放棄地になりやすいんだけど、八田の農家はその保全に価値を見出そうと頑張ってくれているんだ。

毎年東雲高校の生徒も来て田植えから稲刈りまで全部手作業で米作りを体験しているけど、昨年はその米が全国農業高校お米甲子園で最高金賞を受賞したんだよ。

若い人が居ないと在所が活性化しないので、妙案はないけど農業を楽しめる環境を作って次世代に何としても引き継いでもらいたいとみんなで願っているんだ。

あきこの一言

棚田あり、水あり、人あり 
自然を活かす八田の在所


第204回 七尾市竹町


在所名の由来

室町時代ここは畠山城下でその家臣の館(やかた)があったことから、館(たて)町と呼ばれそれがいつしか転化して竹町になったという説があります。
江戸時代から明治二十二年までは竹町村と呼ばれていたと記されています。

昔の在所

城山の麓で山仕事や畑仕事で生活してきた在所です。昔は用水不足で近隣の在所と紛争が絶えなかったという歴史があります。

そんなことから嘉永年間(江戸時代)に二枚田に竹町、府中、藤橋、所口、天神川原、古府、国分の七か村で共同のため池を作りました。「シチカムラの池」と呼ばれ三百五町歩の田んぼを潤したといいます。この池は遠浅の部分もあり小学生の頃は海水浴のように泳いだり、池にせり出した木の上から飛び込んだりして遊びました。

この池も昭和四十七年ごろから不燃物ゴミ処理場として埋め立てられ、今は市立二枚田運動場(ソフトボール場)となっています。

等伯の達磨図を所蔵する山の寺の龍門寺は最初竹町にありました。上杉謙信が攻めてきたとき一時能登島の閨に移転し、その後山の寺に再建されたそうです。在所には龍門寺という小字が残っていて付近の田んぼから五輪塔の石が見つかっています。大天神山の外れには処刑場があったと伝わっています。

現在の在所

本家筋で十六代、十七代と続いている家が七軒残っている古い在所ですが、かつては山の麓の竹町の場所を教えるのが難しかったです(笑)。今は農免道路と城山線が整備され城山交差点が出来て場所が分かりやすくなりました。

能越道が開通し城山インターへの通り道になってから交通量が格段に多くなり、交差点に信号機が付くまでは本当に事故が多かったです。

小学生の頃は春と秋の祭りは神輿が出ていましたが今は松尾天神社でお参りするだけになりました。新しい人も入ってきて人口も年々増えてきましたが、顔を合わす機会が少なく道路と河川の愛護デーで顔を合わせるくらいです。

古いしきたりやしがらみがないので新しい人も案外生活はしやすいのではないかと思います。田んぼも広がり空気も良く、学校や商業施設も近く便利で住みやすい場所になりました。

いずれにしろ住む人みんなが公平で平和に暮らしていける町であり続けたいと願っています。

あきこの一言

七尾城の麓、歴史が漂う在所
田舎の都会、ゆったり暮らす


第203回 七尾市桜町


在所名の由来

昭和四十年に桜川河口右岸を埋立て出来た土地でね、それにちなんで桜町だそうだよ。

桜川の拡幅工事で立ち退きになった人の代替地としたり、七尾市が宅地として分譲してできた町なんだ。

昔の在所

子供の頃いかだを作って遊んでいた海が埋め立てられ、気がついたら家が建っていたよ(笑)。当時は人口増の時代で小島町など近隣の町内の人たちが宅地を求めたんだね。

埋立したばかりの時は地面がまだ軟弱で買った人が地盛りをしてから家を建てていたんだ。能登沖地震では電柱の根元が液状化していたよ。

昭和四十年に秋元さん世帯が第一号の住人となって、第二号は立山堂パンの若林さん、昭和四十四年には六十三世帯と一挙に家が建っていったんだ。海辺には造船所や鉄工所、製材所なども進出したんだね。

初代町会長は河元さんだったよ。神社はないけど昭和五十四年に奉燈を新調して西のおすずみで町内の結束を図ってきたんだ。子供もいっぱいいて五年生にならないと笛太鼓は出来ないと言っていたんだ。

町内のメイン道路で水入れリレーの練習をして御祓地区の運動会に参加していたけど、若い人が多かったので綱引きは強かったなぁ。今では六十歳以上の熟年玉入れも普通の玉入れもメンバーは同じなんだよ(笑)。近年は最下位かブービーだけど参加することに意義があるんだよ。

現在の在所

皆で積み立てをして平成十一年に二軒長屋を買って会館が出来たんだ。平成二十六年から月に一回、高齢者の寄り合い場として会館に集まり、お菓子やお弁当を食べて歌やゲームをしているよ。

二月の餅つき大会と六月に多根の山びこ壮へ日帰りで行くふれあいの集いで楽しんできたけど、今年は新行事として夏にサマーフェスティバルを計画したんだよ。

桜町青壮年会会則では年齢制限があって四十五歳までだけど、今は会長が一番若くて五十歳、六十代、七十代の会員二十四名が気持ちだけは青壮年で頑張っているんだ(笑)。

恵寿総合病院があるので災害訓練のトリアージに参加して防災意識を高めているけど、高齢化が益々進むので自助、共助で支え合っていかなければと思っているんだよ。

あきこの一言

新しい町も はや半世紀
触れ合いを大事にする在所


第202回 七尾市湊町一丁目


在所名の由来

七尾港に面して幕末から回船業者も多く港町として栄えていたから湊町じゃないかな。

元は東地子(ひがしじし)町だったのが、明治五年に湊町一丁目と二丁目、それと今町に別れたんだ。地子町とは殿様の所有地で職人を集めて住まわせた場所でね富岡町と魚町あたりが西地子町だったようだよ。

昔の在所

天然の良港で海運業が発達したから回船業やそれに伴う業種が混在して、通りにもいろんなお店が軒を連ねていたんだ。

昭和二十年には八百人くらいが住んで賑わっていたそうだね。昭和三十年代頃までは荷上場に砂利や薪、杉皮や炭などが積んであったよ。能登島から移住した人も多く、七尾の祭りには縁者が遊びに来て、墓参りには能登島へ行ってと交流が深かったんだ。

加賀藩主、前田斉泰(なりやす)が嘉永六年(一八五三年)四月四日に七百人の家来を連れて能登巡見の旅に出て、四月二十日に七尾で宿泊した、ちょうどその日に東地子町から出火して三百七十二軒が焼失したんだ。藩主の目をはばかり簀(すのこ)を張って一行を通したと記録があるよ。

大火の恐怖から中心地に防火池を作り夜回りの詰所を建てて番床(ばんどこ)と呼んでいたようだよ。私が子供の頃に番床は駄菓子屋の松野商店になっていたけど、大人も子供も駄菓子屋を「ばんどこ」と呼んでいたね。当時は子供も多く、「ばんどこ」は子供たちの楽しみな居場所で、よく五円のくじを引いていたなぁ。

現在の在所

袖ケ江も人口減少が進んでいるけど、ここはまだ人が残っている方だと思うよ。お涼みの祇園祭には湊町一丁目と二丁目の境の通称西浜に仮宮が建つので町内も活気が出るんだ。

山王神社の境内には湊町一丁目の金刀比羅神社があるんだけど、元はこの西浜あたりに建っていたんじゃないかとも思われているんだ。金毘羅は海の仕事に携わる人々がよく信仰する神様だから海運業で栄えた湊町の祭神にしたのかもしれんね。いろんな所から人が集まって出来た町で、それぞれが命を懸けて暮らしを立てていくとき、在所の宮が心の支えとなっていたと思うよ。

一昨年、金刀比羅神社の修繕をして気持ちもスッキリしたけど、将来的に金刀比羅神社を町内に戻せないかという声もあるんだ。ともあれ何事も結束して支え合って暮らしていくことが大事な時代になったようだね。

あきこの一言

港町七尾、その源流ここにあり
心意気が残る在所


第201回 中能登町下後山


在所の由来

ここは旧鹿西町の中心地、能登部の在所に隣接しているんだ。その能登部の後の山だから後山と呼ばれたんだね。

元は後山一村だったようだけど、江戸時代中期に能登部下の枝村となって能登部下村後山分(わけ)と呼ばれ、その後、下後山村となったようだね。

能登部が能登部上と能登部下の在所に分かれているので、後山も上後山と下後山に分かれたんだね。

昔の在所

在所の島田さんの先祖が平家の落人でここを拓いたと伝わっているんだ。

島田さんの娘さんによると家の前の四枚の田んぼを四枚田(しまいだ)と呼んでいたから、苗字を名乗る時に島田としたらしいよ。その島田さんが後山の山持ちだったんだね。

林業が盛んな頃は氷見から木挽きを集めて住み込みさせて山仕事をしていたようだよ。在所の神明神社も元は島田家の守り神でね、そんな人がいたから小さな在所に真宗の西照寺が建立されたんだよ。

後山はころ柿の里として有名だけど、かつては在所中でころ柿を生産していたんだ。
元祖ころ柿の原木が西照寺の裏山にあってね、大きな柿の木だよ。近隣の在所からも接木にする枝を分けてもらうのに小豆や米をもってたくさんの人が来ていたそうだよ。ころ柿の品種は最勝柿、お寺が西照寺。なんか関係あるかもしれんね(笑)。

現在の在所

人口が五十年前の三分の一以下だよ。上棚矢駄インターも近くて交通の便も良く、暮らせば静かで良い所なんだけどね。

ここは星がとってもきれいに見えるんだ。特に冬の星座なんて本当に美しくてね、星が降りて来るようだよ。昔は金沢大学天文同好会が西照寺によく合宿に来ていたんだ。西照寺の山号は星洞山だから、昔から星の綺麗な土地なんだよ。

ころ柿の担い手が少なくなったけど伝承していきたいね。柿をとってきて、皮を手で剥いて、紐で縛って吊るして、手揉みでほぐすんだ。扇風機とストーブを使って除湿と換気をしながら乾燥させるけど揉めば揉むほど乾くね。二、三日おきに3回は揉むんだよ。出荷までに二十六日くらいかな。飴色の綺麗なころ柿に仕上がるんだ。

ころ柿のことを干柿とも言うけど、「星と干柿の里」として村おこし出来ないかなぁ(笑)。そのためにもまずは自分たちが故郷を愛して誇りを持っていかないとね。

あきこの一言

お寺の鐘を聴き、仰ぐ空。
お星さまがいっぱい、素敵な在所。


第200回 和倉中町


在所名の由来

温泉が湧く浦ということで古くは湧浦と呼ばれていたそうだよ。江戸時代に和倉に改めたらしいね。

和倉には現在七町会あるけど、元町、中町、東町が元々の和倉なんだ。元町は旅館や商店が多く、中町はお寺や神社が在り、東町は住宅が多いよ。中町の由来は元町と東町の間に挟まれているから中町だと思うね。

昔の在所

和倉で最初に温泉が発見されたのは平安初期で薬師岳の湯谷(ゆのたに)なんだ。ホテルなおきの社員寮があった裏山あたりでね。それが二百年程したら湯脈が海中に変わって海から温泉が湧くようになったと言われているんだよ。

明治四十二年、大正天皇が皇太子のとき七尾に行啓されたときに休憩所として建てられた御便殿が青林寺と信行寺に分けて移築されたんだ。青林寺のは京都二条城と同じ二重織り上げ天井で栃の木で作られ、廊下は秋田杉、柱は木曽の檜で、全部一流の材料で凄いよ。

子供の頃には路地裏の千鳥横丁もおでん屋や居酒屋、スナック、映画館まであって賑わっていたけど今は一軒もなくなったよ。

現在の在所

和倉七福神や御便殿があり観光客も散策するので中町の道路は緑色に舗装してもらったんだ。山裾の町内なので落ち着くかなと思ってね。

元町と東町と山に挟まれた町内だから住宅地が広がらないんだ。だから住民は昔からの顔なじみばかりでね。六十五歳以上の高齢化率は四十五パーセントに達しているんだよ。みんなの憩いの場が必要という事で旧和倉保育園の跡地に和倉中町公園を作ってもらってそこを町会で管理しているんだ。

年一回の花見をみんなで楽しんできたけど、もっと顔を合わせる機会があったほうが良いと思っていたら、家内が介護予防のグループデイ「なごまんかいね」を発足してくれてね。会員は町内を中心に二十名ほどいて週二回集まって折り紙やゲーム、カラオケに体操、地域行事に参加したりして楽しんでいるよ。ほとんどの高齢者が集まってくれるので元気度合いが分かり、町会としても助かるよ。

今年十周年を迎えたので先日和倉のコミセンで和倉地区社会福祉協議会の小田禎彦会長を招いて「残された時間を楽しく過ごすために」と記念講演をしてもらって式典を行ったところなんだ。高齢化はしょうがないけどみんな顔なじみで人情味があって良い人ばかりだから、この繋がりを大切に続けていくことが中町としては何より大事ことだと思うね。

あきこの一言

湯の街に、和んで暮らし
絆を大切にする在所あり


第199回 中能登町尾崎


在所名の由来

海に向かって突き出ている陸の先端のことを崎というけど、地形的にここは山手の小竹、水白の在所から邑知潟に突き出た陸地だったというから、「おさき」と呼ばれたであろうと在所では認識しているんだ。
一六七九年の古文書にはすでに尾崎村と記されているようだね。

昔の在所

田畑で暮らしを立ててきた在所だけど、水に苦労してきたんだ。小竹、水白、久江の山手の在所から水を貰わなければ生活が成り立たないから、それらの在所に従わないとならなかったんだ。だから余計な事を言わずにコツコツ働くしかなかったんだね。

「働け、働けチキチキホイ! 働く家には福が来る♪」と唄って朝早くからみんな働いていたんだよ。おかげで目立たないけどコツコツ型の真面目な人が多く、賭け事で破産した家は一軒もないよ。

昭和四十年に在所で二カ所鑿泉し、平成二十年からの圃場整備で気兼ねなく水が手に入るようになったんだよ。

在所の明泉寺に昭和二十年四月から十月まで大阪の滝井小学校から六十七人の子供が疎開してきたのでみんなでお世話したんだよ。

その明泉寺境内で私が高校に入る頃まで相撲大会をしていたんだ。中学生が主催者で土俵を作り世話をするんだけど、これは昭和二十年代に少年団が出来てからの伝統だったよ。当時の子供たちは相撲大会の景品を買うのに、野菜を作り、すんば(杉の葉)や薪を拾い、孟宗竹の皮を集めて売っていたんだ。

現在の在所

上班と下班があるけどそれぞれに火の用心をずっと続けているんだ。昔は子供たちでやっていたけど今は順番で家ごとに回るんだよ。

尾崎と小竹と水白は全国でも珍しいほど互いの飛地が入り組んでいる場所でね。圃場整備で田んぼの飛地は解消したけど在所の中は複雑なんだよ。

将来を思って火葬場跡を慰霊の小公園に整備したんだ。人口減少が進むから負担が少なくコンパクト運営が出来る在所に今から取り組んでいく必要があると思うんだよ。

先月尾崎獅子舞の囃子や舞い方の調査研究の依頼があったので鉦太鼓を聞いて三十年ぶりに踊ったけど、懐かしくも楽しく、しばしの祭り気分を味わったね(笑)。コロナ禍で祭りも行事も中止してきたけど今年は感染予防しながら区民餅つき大会をやる予定なんだ。

区のお知らせも月に1回、2回とプリントして、声掛けしてもらいながら配布しているけど戸数、人数が丁度のまとまりの良い在所だと思っているんだ。

あきこの一言

田園の中にたたずむ在所
古刹明泉寺に集う民


第198回 七尾市旭町


在所の由来

旭町は池崎と東三階の山林五十町歩を開拓して昭和二十九年にできた町なんだよ。命名の由来は分からないけど、新しい町なので、朝日が昇るように輝かしく、希望に満ちた将来をイメージしてつけたのではないかと思えるね。

昔の在所

昭和十九年、温井の多村重二さんが最初の入植者なんだよ。私の祖父も多村さんに付いて一緒に入植しているのだけど、最初は三世帯で開墾を始めたらしいね。
第二次世界大戦の敗戦で一時中止され、昭和二十一年から再び十七戸が入植して開拓が始まったんだ。

ジャガイモやトマト、スイカなどのいろんな野菜を栽培していたようだね。
私の家は葉タバコの栽培もやっていたけど大変な作業だったよ。種から一本一本の苗を作り、畑に植えて、マルチを張って霜の無い時期にマルチを外すんだ。ただここは霜が強い場所で当時は五月でも霜が降りたからね。葉タバコは熱帯性植物なので霜には弱いからマルチを外しても月が高くて気温が下がってきたら「まずいなぁー」と言って夜中でもマルチを張りに出かけていたよ。
葉タバコはものすごく苦いので畑の中には蛇はいないけど、青虫がつくんだよ。葉のヤニで手は真っ黒になるしね(笑)。

当時は葉タバコを乾燥させるのに専用の土蔵があったんだ。蔵の中に縄を張って葉をいっぱいに吊るして、三日三晩、蔵に泊まり込んで床下で薪を焚くんだ。乾燥した葉を家で選別して矢田新の専売公社の検査場へ持って行くんだけど、一等級、二等級は良い値がつくのだけどなかなか取れないんだよ。
父がコンパクトな電気乾燥機を購入して一年目に病気になってね。それで昭和五十九年を最後に旭町から専業農家がいなくなったんだ。

現在の在所

住んでいる人は全員入植した家の人たちなんだ。昭和四十三年くらいにほとんど勤めに出るようになって、今では自家菜園を楽しんでいる感じだね。開墾した畑の多くに杉を植林してまた山に戻ってしまったよ。

みんなで力を合わせて山を拓いてきた歴史があるから在所ごとはみんな協力的だよ。
今年も神社と集会所の屋根を直したんだ。昭和四十五年五月二十二日に宮が落慶したのでその日が春祭りなんだ。奉燈も二十年くらい前まで曳いていたけど、今は六十代以上の世帯ばかりになって花見と夏まつりで一杯飲むようにしているんだ。

新しい町だけど我々にとってはここが愛すべき故郷なんだよ。

あきこの一言

閑静な通り、手入れされた菜園
穏やかな空気、旭の在所


第197回 田鶴浜西下


在所の由来

江戸時代には下村だったんだ。明治十一年に郡制が施行され行政区画としての鹿島郡が発足した時は今の七尾市も全部鹿島郡なんだよ。そうなると徳田地区の下村と二つの下村が存在するので、明治十七年にこっちの下村を西下村と改称したんだ。

その後明治二十二年に伊久留村、七原村、吉田村、西下村瀬戸村、花見月村の六村が合併して相馬村西下となり、昭和二十九年の町村合併で田鶴浜町西下となって、平成十六年の合併で七尾市西下町となったんだね。

昔の在所

明治二十二年の西下の戸数は三十三軒で、人口は百七十五人と記録されているけど、昔から四十軒ほどの在所なんだ。

二宮川、伊久留川、吉田川が合流して耕作に恵まれ、一軒平均一町歩の田んぼがあって、大正二年に耕地整理組合が結成されているんだよ。

子供の頃は二宮川で小さい子に泳ぎを教えながらみんなで遊んどったね。山の中を走ったり縄跳び、缶蹴りなど子供を集めて、上の子が下の子を親代わりで面倒見ていたんだ。隣在所が七尾市の満仁で、そこの子供たちと西下の岩武(いわたけ)神社でソフトボール試合で張り合っていたよ。

どの家も山と田んぼがあるので長男は大学行かないで家を守って百姓をしろという風潮だったけど、勤めるより田んぼの方が良かった時代もあったんだね。嫁に出すのも田んぼのない所にはやれないなんて言っていたなぁ(笑)

小さな在所だけど山や田んぼで財力があったせいか自尊心が高い人も多くて大きな声に流されることはなく、様々な意見を時間をかけてまとめていたみたいだよ。

現在の在所

岩武神社の御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)で熱田神宮から勧請したもので由緒があるんだよ。昔は活気があって獅子舞や奉燈も出していたけど、七年前から参拝だけの祭りになってしまったんだ。この前神社の草刈りをやったけど集まったのは六人だよ。若い人が帰ってこないから高齢化が一挙に進んだ感じだね。

私は大阪の会社に勤め全国を回ったけど、退職し戻って改めて故郷は安らぎのある良い所だと実感しているんだ。なにより昔からの仲間が財産だね。そんな仲間と五年先、十年先を見据えて地元愛をどう育んでいくか話し合っているところだよ。

あきこの一言

里に流れる大きな川、
大きな家並み、趣きある在所


第196回 七尾市細口


在所名の由来

本当のところはよく分からないんだよ。
江戸時代に細口村があったのは確かだけど、八幡から分村したとも聞いているんだ。
白馬に抜ける道の入り口があって細い道だったというから細口と呼ばれていたのかもしれんね。

昔の在所

能登中央自動車学校の場所を源田山というけど、昭和五十二年、敷地造成中に弥
生時代の遺跡や中世の館が発掘されているんだよ。古くから人が住んでいたんだね。

そこに霧谷の池があって水が湧き出ているんだ。長い徳田段丘の中で水が湧くのはここだけでね。
台地に上がる道は一カ所だけ、近くに鷹合川が流れ子供のころにはアユやウナギを捕って遊んだけど、
昔から人が暮らすのには持って来いの環境だったと思うね。
能登で一番最初に稲作が定着した場所だと言われているんだ。

在所の始まりは七軒だったと伝わっているよ。
一集落一門徒のような在所でほとんどが相生町の西休寺門徒だから古くからの家が多い在所だね。

こんこんと湧く霧谷の池でトマトやキュウリを洗って食べたけど、
水が良いので昔は池付近に清姫、鹿渡、山王の蔵元が酒を造っていたよ。

現在の在所

鷹合川改修の一次計画がようやく終わりが見えたよ。
細口交差点付近によく水が付いたけど平成七年に話があって二十五年以上の歳月が流れているんだ。

町内行事は祭りと慰安会だけど、獅子舞も親御さんが協力的なので有難いよ。
一人暮らしの家も多くこの先の高齢化が心配だね。
自助、共助と言っても若い人がいないとね。正直将来の町会が成立するのか心配するよ。
七尾市も合併してから二万人も減っているので七尾、能登全体で何とかしていかないと
在所の問題で片付けられないよ。

県道2号線(西往来)と県道七尾鳥屋線(のと蘭の国沿い)が通るので沿線に企業も多く
尽力頂いているけど、やはり働く場所、住む場所が無いと若い人も出て行くばかりだよ。

一次産業は各地域で、二次、三次産業は七尾で担うとか、山を造成して安い住宅地を作るとか、
いろんなプランを考えて何とかして、能登、七尾が浮上させないとね。

あきこの一言

時代が大きく変わる今、先を見据える。
ピンチはチャンス、七尾は宝の山。


第195回 中島町藤瀬


在所名の由来

由来は特に伝わってないけど、在所の藤津比古神社の資料には「本当は藤津という在所名が、草書で書かれた津を瀬と読み違えたことから藤瀬になってしまったこと、返す返すも口惜しき事に候」と書かれているそうだよ。

でも本当にそうなのか真意は分からないんだ。熊木川沿いに二キロも沿った在所だから川の瀬付近に藤の花が咲いていたのかもしれんしね。

昔の在所

室町時代に建立された藤津比古神社は釶打地区と富来の一部を氏子とする郷社で、本殿は国の重要文化財に指定されている格式ある神社なんだ。

新宮(しんごう)の祭りといってね、夏には「うすずみ」、秋には「枠旗祭」が行われるけど、八月十四日の「うすずみ」の奉燈は能登で唯一、バッテリーを使わないで、昔からのろうそくの灯りなんだよ。太鼓と鉦のお囃子に「やんさこ」を唄いながら、道中をゆらりゆらりと進む奉燈は何とも幻想的でね、毎年多くの常連が見に来ているよ。

在所の座主家も国指定重要文化財で、合掌かやぶき入母屋造で江戸時代のこの辺の一般的な農家でね。中島町でも数十年前なら、かやぶき屋根の家が何軒かあったけど、そのままの形で残っているのは座主家だけじゃないかなぁ。令和元年に傷んだ棟の修理をしたけど京都のかやぶきの里・美山町から専門業者が来てやったんだよ。

その座主家の二代前の当主正盛さんが神経痛に悩んでいたところ、昭和五十四年四月二十八日の深夜、夢枕に月光観音が現れ裏山の水が効くとお告げがあったんだ。それを飲み続けたら本当に治ったことから「座主の水」として有名になってね。どれだけ置いていても腐らない水で遠くからも沢山の人が汲みに来ているよ。今では藤瀬霊水公園として綺麗になって管理されているよ。

現在の在所

平成三十年から田んぼの区画整理、ほ場整備事業が始まって、今、大きな田んぼを造成工事中だよ。

人口は昭和三十年には七十一世帯、三百五十五人だと記録があるから、それから半分に減ったんだね。そんな頃は田んぼや畑仕事を中心にどの家も大家族で暮らしていたけどね。

近年はほとんどが兼業農家で高齢化が進んでいるから、若い世代には出来るだけ在所で暮らしてほしいと思うよ。私の家に双子の孫が生まれたけど嬉しいもんだよ。

あきこの一言

田園を流れる熊木川
神仏と豊かな自然、里の在所


第194回 七尾市小島町三丁目


在所名の由来

在所にある妙観院は大正時代の終わりごろまでは山門の前に波が打ち寄せていて、
山号は小嶋山、寺号は海岸寺という真言宗のお寺で、その観音堂に登ればここが海に浮かぶ
小島だったことが想像できるよ。妙観院のある小島、それが由来なんだよ。

昔の在所

『月ともに波の小島へ寄る船は数の宝を積む心地して』
詠み人知らずの歌が妙観院に残されているけど、昔は幸せや宝物、
立派な人が海から七尾へ入って来たんだろうね。
京都からの風流人が七尾へ来ると観音堂で月見や歌会を催したようだけど、
当時は階段が無くて岩を四つん這いになって登ったり降りたりしたと聞いているよ。

前田利家が配置した二十九の山の寺寺院群は現在十六ヶ寺になったけど、
そのうち三ヶ寺が三丁目にあるんだ。

御祓中学校の所に七尾高等女学校があって、ベイモールの所は七尾海員学校があったけど、
海員学校は全寮制でお腹が空いた生徒が妙観院に来て、手でおむすびを握る真似をして催促すると、
女中さんがおむすびを握ってあげていたそうだよ。
それが海員学校の伝統となって続いていたんだ(笑)。

海員学校の校歌は美空ひばりや北島三郎など多くの演歌歌手の歌を手掛けた星野哲郎の作詞だけど、
星野自身も官立清水高等商船学校を卒業して遠洋漁業の乗組員をしていたからだよ。

唐崎神社は小島町全体の神社で、山王神社との関係が深く青柏祭の
始まりはここでのお水取り神事から始まるんだ。
小島の祭は神輿を湊町まで船に乗せてそこから山王神社へ担いでいったんだよ。

若い衆は山王神社の世話方の家に分かれて宿泊し、山王さんの若い衆と遅くまで飲み明かし、
翌日潮の流れを見計らって小島に戻っていったそうだよ。
そんなことで小島は袖ヶ江と縁結びが多かったみたいだね。

現在の在所

子どもの頃は唐崎神社の境内にみんな集まって遊んでいたけど、
今はそんな光景は見られないし、御祓中学校も無くなって少し寂しくなったね。
それでもゆりかごから墓場まで全部揃っているくらい便利な町になったと思うよ。

西湊保育園の園児の声も聞こえ、ベイモールで買い物ができ、恵寿病院も能登病院も近いし、
山の寺あり、海も近く、交通の便も良く、新しい七尾警察署も町内会になるんだ。

御祓中学校の跡地を地元の意見も聞いてもらいながら有効に活用できたらと思っているんだよ。

まなかの一言

新旧の街並みが交錯し
歴史と文化が漂う小島三丁目


第193回 七尾市光陽台


在所名の由来

ここは区画整理事業で出来た新しい町なんだよ。

昭和六十三年に光陽台と名付けられたんだけど、和倉と石崎の土地にまたがった場所だったので、
和倉町ひばりや石崎町香島のように和倉とも、石崎とも、冠をつけられなくて、すったもんだがあって、
それで市役所が光陽台を提案して皆が納得したという経緯があるんだ。

海抜九メートルの小高い場所で、太陽の光が燦燦と輝く台地というイメージじゃないかな。

昔の在所

区画整理した宅地に十六世帯が家を建て、住み始めた時はまだ町内会が設立されていなかったんだ。
だから七尾市広報も配布されず、市役所へ貰いに行くと郵送代を支払えば郵送すると言われ、
そうやって個人的に送ってもらう人もいたんだ。

和倉温泉の旅館から助成金を頂いて町会設立をしていくんだけど、当時の町会費も月に千円、
八百円、六百円の中から自分で払える金額を選んでもらったんだよ。

初代町会長に坂下さん、相談役に舟田さんに就いて頂いたけど、町会運営に必要な備品や道具など
町会長が自腹で用意してくれ本当に尽力されていたね。
二代目の林田さんは光陽台を知ってもらおうと市役所からソメイヨシノの苗木を四十本手配してもらい植えたんだ。
それが今、毎年見事な花を咲かせているよ。

当時は和倉小学校と石崎小学校、どっちの小学校へ入学するかが問題になってね。
結局、和倉と石崎の連合町会長の承諾印を貰えばどちらでも良いということになって、
それぞれの家庭の都合に合わせて入学できることになったんだ。
今は連合町会長のハンコが無くても自由に決められるけどね(笑)。

現在の在所

田舎の都会、不思議な空間だよ。

駅前から温泉街に通じる大きな道路が出来て、能登島大橋に通じる道路と交差して、
和倉温泉の入り口のような場所になってからはスーパーや飲食店が建ち並んで便利な所になり、
一歩入れば本当に静かな住宅街なんだ。

ここはほとんどが町外から移り住んだ人たちだけど、今でも近隣の町から若い世帯が移って来ているよ。
古い在所でないから、しきたりやしがらみが無く、それぞれが丁度よい距離感で暮らせていると思うね。
それでも五班体制で春秋の大掃除や防犯活動、雪すかしなどみんなで力を合わせる時は協力してやっているんだ。

コミュニケーションを大事にして、みんなが健康で幸せに暮らしていける町内でありたいと願っているんだよ。

まみの一言

歴代町会長の奉仕の精神が宿り、
「お蔭様」で結ばれる光陽台の在所。


第192回 七尾市亀山町


在所名の由来

最初は味噌屋町だったんだ。昔この町に亀や門という大きな味噌屋があって、それで味噌屋町と呼ばれたんじゃないかな。

それと郵便局前の橋は亀橋と呼ばれているけど、それもその亀や門が由来だそうだよ。

郵便局から小丸山公園下の花嫁のれん館までの通りが現在の亀山町だから、町名変更が行われた時に、亀橋の亀、小丸山の山をとって亀山町になったんじゃないかと想像しているんだ。

昔の在所

昔のガタガタ道がセメント道になった頃は子供たちが石けりやケンケンパーをして通りには一日中子供たちの歓声が聞こえていたね。どの家も玄関前を掃除して水を撒き、ゴザやムシロを広げていたよ。

小丸山公園の下に郡役所や郡会議事堂、愛宕山には七尾鹿島の公会堂があったんだ。相撲場の所ではサーカスがテントを張っていたけど、すり鉢状にしたため公園下の駐車場の所に移り、そこから府中の波止場に移ったんだ。

七尾駅を降りた七尾中学校、七尾女学校、七尾商業学校の生徒は学校ごとに駅前で整列してから集団登校していたね。通りにはカランコロンと下駄の足音が響いていたよ。本当に人通りが多く、偉いさんも通るので洋服屋が四軒もあったよ。

戦時中、光徳寺に暁部隊が駐屯して小丸山公園に三つの防空壕を掘ったと聞いているよ。

現在の在所

ちょんこ山の車輪と車軸を新調したけど、去年今年と運行が中止になって残念だよ。

亀山町が本宮神社のちょんこ山に参加したのは百六十五年前の安政三年と記録があるんだ。他の五町に比べて遅くに参加しているんだけど、これは味噌屋町の一部が印鑰神社の氏子であったことや、公園下にあった味噌屋町の鎮守の住吉神社が本宮神社に合祀されたなどの経緯があってのことだと聞いたね。

曳山の人形は「髭じっこ」の住吉明神だけど、親世代の人たちは竹内宿祢(すくね)だったと言っているのでいつどんな理由で変わったのか不思議なんだよ。

明治二十八年と三十八年の二度の大火に見舞われてから火の用心が続いているよ。各家順番で拍子木をカンカンと叩いて夜八時過ぎから町内を回るんだ。コロナ禍で催しごとが出来ないけど早く安全に安心して出来るようになってほしいね。

まなかの一言

城下の小さな在所、
時代の変遷を感じる歴史あり。


第191回 中能登町黒氏


在所名の由来

鹿島郡誌には小鳥のクロジが在所の流域に生息していたことが由来だと書かれているけど、鳥屋町史では平安時代ここは藤原頼長の所領地で一青荘園の一部に属していたが、保元の乱で後白河院の所領に変わり、更に石清水八幡宮宿院の寺領となった時に一青荘から分離され、この地の中心人物が九郎次という人だったことが由来だと書かれているよ。

戦国時代以降の古文書で「くろち村」が「黒地村」と変わり、いつしか「黒氏」に転化したんだろうね。

昔の在所

昔は木挽と大工が多く山仕事に石動山へ行って、越中へも大工仕事に沢山の人が行っていたようだね。それで氷見との縁組も多かったと聞いているよ。

昭和に入り酪農や養豚、養鶏が始まり、織物で栄えた時代もあったんだ。

黒氏は東西に長く鹿島バイパスと七尾線の間の集落を「在所」、西往来周辺を「深沢」(ふかそ)と呼んで二地区あるけど、ちょうどその中間に昭和四十三年から住宅団地の建設が始まり、現在七十七世帯の「黒氏新町」が出来て三地区となったんだ。それぞれに分館として町内会があり新町は平成十八年に地縁団体を設立して運営しているんだよ。

明治二十一年、お寺も含む十三世帯が焼失した大火事があり、在所の八幡神社で火事を絶対出さないと肝に銘じて毎年六月に火祭りを行っているんだ。

現在の在所

三地区が協力してやって来たけど、高齢化が進む中で今まで以上に結束して、次の世代に受け継いでいかないとね。

広い在所の絆は祭りが一番なんだ。黒氏には曳山が二基あって、一基はふるさと創修館に展示されているけど、祭りの心意気が強い在所だよ。今年、獅子頭と烏帽子、蚊帳、赤尾っぽを新調したけど、獅子舞は明治四十三年頃に氷見の吉岡村から習ったんだ。演目は六種あるけど大正十三年に獅子舞の奥義「獅子殺し」の指導を受けて現在の原点が出来上がったと伝えられているよ。

今、力を入れているのが防災組織の強化でね。いつ起きるか分からない災害に備えて、各地区に責任者を配置して実践さながらで各戸を回り人数確認して情報を本部に集める訓練をしたよ。移り行く時代に合わせてみんなで力を合わせていかないとね。

あきこの一言

古きを大切にし、新しきを活かす
懐深き黒氏の在所


第190回 中島町町屋


在所名の由来

虫ヶ峰山麓にはかつて真言宗の七堂伽藍を備えた本格的な寺院もあったとも言われ、
人家も密集していたそうで、そんなことから町屋と呼ばれるようになったという説があるようだね。

虫ヶ峰

町屋は今も昔も虫ヶ峰なしでは語れないんだよ。
標高約二九六メートル、虫ヶ峰の山頂に九尺四方の小さな社殿があるけど、
これは在所の白山神社の本殿、奥の院なんだ。その敷地の遺構や周囲の五輪塔、
板碑などを調べると南北朝から室町時代には虫ヶ峰山麓には寺院などの施設が
あったと推測できるようだよ。

戦国時代に上杉謙信の侵攻で焼き討ちに合ったけど、在所ではこの山を御前(ごぜん)と呼んで
山岳信仰の霊山として尊んできたんだね。春秋の村祭りは在所の白山神社の拝殿で行い、
田植え上がりの「こくぞう祭り」は虫ヶ峰山頂の本殿で盛大にやっているよ。
全戸の田植えが済んでから日が決まるんだ。前日には男が登山道と社殿、頂上広場の整備をして、
女性は御馳走づくりをするんだ。当日は家々の御馳走をお重に入れて一家そろって登るんだよ。

稲株を一つ一つ鎌で割って鍬でおこし、全て手作業で田植えをした時代を想うと、
感謝と豊作の祈願は切実だったと思うよ。神事が終わると車座になって宴が始まるんだ。
当番がお世話するけど昔は酒の一升瓶八本を竿に吊るして登ったんだ(笑)。
新緑の中で老若男女が語り、唄い、和気あいあいと時が過ぎていくと、当番が銚子二本を持って
車座の真ん中に出て「これでおつもりでございます」と挨拶するんだ。
最後のお酒を注いだら皆で「ごっつおさんでした」と挨拶をして後片付けして千鳥足で山を下りるんだ。
在所が一番結束する大事な行事なんだよ。

現在の在所

虫ヶ峰には平成十五年に風力発電の風車建設が始まり林道も整備され今では車で行けるんだ。
十基の風車も虫ヶ峰の風物として馴染んでいるようだね。ほ場整備も終わったけど高齢化で
担い手はなく農事組合法人なたうちと浜田の松田さんにお任せしているんだ。
おかげで年寄りは畑専門になって健康にもちょうど良いのか九十歳代の元気な人が多いんだよ。
空き家には田舎住まいが良いと二組が移住してきたし、四百メートルの間に全戸が連なる小さな在所で
歩いて安否確認も出来るし、仲良く団結心のある平和な在所だよ。

まなかの一言

畑とおしゃべり、穏やかな顔
素敵なおばあちゃんたちがいる在所。


第189回 中島町鹿島台


在所名の由来

終戦後に鹿島郡中島町の長浦地区と深浦地区の山林を開拓して出来た在所なので、
鹿島郡の台地、鹿島台と名付けたんかなと思うけどね。

昔の在所

終戦後すぐに政府の緊急開拓政策を受けて、当時の西岸農業協同組合が
中心になって引揚者の受け入れと地元の二男、三男の仕事の手当て、
それと地元農家の専業化対策の開発計画を立て、積極的に運動を展開した結果、
二町歩というから約二ヘクタールを十年間で開墾する権利と義務が与えられたんだよ。

当初五十二世帯が入植し頑張ったけど昭和三十年の検査で不合格になった人たちが
離脱して二十九世帯、百二十一人となったんだ。
広々とした台地は風が強かったけど、海が見え見晴らしも良く米以外の作物は
何でも作ったらしいよ。ただ時代と共に離農者が増え、養蚕、葉たばこ、酪農が定着したんだね。

砂利道で街灯もない寂しい場所だったけど、七尾教会の分教場があって牧師が七尾から来て
子供たちはそこでゲームしたりお菓子を貰ったりして遊んでいたと聞いているよ。
小さな宮を立て九月二十三日を在所の祭りと決めて神事の後に一杯飲んで交流を深め、
昭和三十七年に建てられた婦人ホームは集会所代わりにも使っていたようだよ。

現在の在所

広域農道が整備され、能登島への農道橋が架かり、近年は太陽光発電所も出来たね。
秀楽苑と寿老園も在所の一員として運営に協力してもらっているし、
交通アクセスも良くなったおかげで、若い人も移り住んでくるようになったよ。
開拓当初から住んでいるのは水谷さんと福岡さんの二軒だけど、移り変わりの中で
今暮らしている人は時々の先人に色々とお世話になって来たんだ。

来る人拒まず大歓迎してくれる伝統があるし、自然豊かで、周りを気にしないで生活でき、
みんな人柄が温かいし、住みやすい所だと私自身も実感していますね。
町会長は順番に回しているけど十世帯しかないから世帯主の全員が町会長経験者なんですよ(笑)。
今では祭りは行っていないけど春と秋に道路の除草と総会を開いて情報交換して、
程よい人間関係を保ちながら、それぞれが楽しく暮らしているので、これからもそうありたいですね。

まみの一言

小鳥の声、風の匂い、人の好さ。
お日様ぽかぽか、のびのび散策。


第188回 七尾市新保町


在所名の由来

新保の沖に天神礁という岩があるけど、昔そこから神様が上がったので天神社が祀られ、
それにちなんで神保となり後に新保に転化したという説もあるよ。

新保町は加賀、小松、能美、金沢、羽咋、能登町にもあり北陸に多い地名で、
多くは新しく開墾した土地を指すそうだよ。
石高を記した一六〇二年の古文書には新保は出てないけど一六五六年の記録には
新保が出てくるから江戸時代初期に名前がついたと推測できるね。

新保の田んぼは花園の池岡さんがお金を出して干拓したとも聞いているんだ。

昔の在所

紀元前三千年の頃に赤浦潟を望む大地に人が住みだし、紀元前千五百年頃に
そこから新保や万行などに移った人たちがいたんだね。
新保A遺跡からも縄文時代の石斧や矢じり、土器がたくさん出土してるよ。

私が子供の頃には遠浅の海水浴場があったんだ。
桟橋が三つ、飛込み台まであり、宮の境内に更衣室やシャワー室、
売店もあって市内の小学校からバスで来ていたよ。
男でもビキニのような三角の黒猫という海水パンツだったな(笑)。

米作りが命の在所で学校から帰ると納屋にどこどこの田んぼと張り紙がしてあり、
そこへ手伝いに行くんだ。タニシもいっぱいいて弁当のおかずになったよ。
粘土質と砂の土加減が良く水は湧水でおいしいお米が育つんだ。
昭和天皇が和倉温泉の銀水閣に来た時は新保のお米をお出ししたんだよ。
冬場は藁で筵とさんどらを作っていたけど、さんどらとは七輪コンロの梱包材だよ。

三区交進会といって新保、祖浜、松百が合同で祭や若衆報恩講をしてたんだ。
三町の神輿が各町内を回っていた時もあったけど三十年ほど前からやらなくなったんだ。

新保の虫送りは「うんか虫でてえけ!」ドンドンと太鼓を鳴らし田んぼを回り
最後に崖の上から古い太鼓を落として遠くまで転がったら豊作だと言っていたよ。

現在の在所

年一回の行事として五十年以上続く「歩こう会」ではおにぎりを持って健康と
親睦を兼ね、一月の村御講では前年亡くなった方の追善供養をしているんだ。

故郷を後世に繋ぐために自然を創る「シンボ」という団体をつくって
ホクリクサンショウウオなど希少生物の生息状況を調べたり桜を植えたり
草刈りをしたり自然保護活動を行っているよ。

小さな在所でまとまりがあるので、これからも思いやりのある在所でありたいね。

まなかの一言

自然と歴史、優しさいっぱい、新保の在所。