こみみかわら版バックナンバー

第223回 七尾市泉南台


在所名の由来

ここは石崎と奥原の一部を平成八年から平成二十年にかけて区画整理して出来た新しい町なんだ。
和倉温泉の南の高台に位置することから、温泉の泉、和倉の南、高台の台で、泉南台と名付けたらしいよ。

昔の在所

昔と言っても新しい町なんで歴史は浅いからね。

平成二十一年十月二十五日に第一回の総会が開かれているんだけど、その時で二十数軒とアパート三棟が建っていたらしいよ。十一年前に私が求めた街区には一軒も建っていなかったので区画はどこでもより取り見取り好きな所を選べたよ。それでも七十二軒目だったんだ。

近隣の田鶴浜や能登島、石崎を中心に県外からも移り住んでいるよ。二十代、三十代、四十代が大半で六十五歳以上の高齢化率は約六パーセントで街中は子供だらけだよ。

最初の頃にはゴミはお隣のひばり町内会へ出させてもらっていたんだ。初代町内会長が坂誠一さんで五年間、二代目が私で九年目になったよ。

現在の在所

毎年人が増え続けて百四十世帯になっているけどまだまだ増えそうだよ。
いろんな所から移り住んでくるけど泉南台に生まれた子供たちはここが故郷になるんだ。
だから今を暮らす人たちで歴史を育んでいかなければね。

神社がないので伝統的な祭りは出来ないけど、親世代は実家故郷の祭りがそれぞれの祭りなんだ。
そういう環境もあるので新しい町には、まず暮らす人が顔を合わせて交流していくことがより現実的なんだよ。
コロナ禍が収束したので令和三年に完成したばかりの泉南台集会所で八月にバーベキュー大会を行ったけど、お楽しみ抽選会や線香花火など親子で楽しみ賑わって良かったよ。

また「楽しもうよ泉南台」というグループも立ち上がっていて、十二月にクリスマス会をやろうということでクリスマスの絵本の読み聞かせ、マジックショー、レクリエーションゲーム、ビンゴ大会などを企画しているんだ。
ここはどんどん子供が増えているけど石崎小学校と和倉小学校へ通う児童に分かれるので町内で子供同士の交流や親睦も深められればと初の試みなんだよ。

将来的には子供会が発足してくれればと願っているんだ。町内で趣味など気の合う仲間同士で集会所をどんどん活用してもらって元気で楽しい町にみんなでしていきたいね。

あきこの一言

踏み入れば、街並みに響く子供の声。
歴史をつくる楽しみな在所。


第222回 七尾市上府中町


在所名の由来

昔の府中村の一部でね、ここは本府中でその中が通称上出、中出、山王出と分かれていて、ここは中出と呼ばれていた地域なんだ。

昭和二十五年に七尾市が新町名に変更するときに、港の方に府中町があるのでこちらは港に近い中出を上府中町とし、上出を本府中町にして、山王出は山王町としているんだよ。

昔の在所

姓の在所だよ。田んぼはほとんど本府中にあって、在所の中には苗代田くらいだったね。

昔は長福寺から南側が百姓町で北側が商人町だったんだ。子供の頃は町方と百姓方の大きな壁を感じていたよ。町方に近寄り難いコンプレックスを感じていたね。

町方で子供にザイゴが移るから川原町の交差点を越えてあっちにいったらだめだと言っていた人もいたよ。弁当も町方はウインナーに海苔とか垢抜けているし、こっちは玉ねぎ炒めなど野菜中心の弁当で羨ましかったよ。文化が違っていたんだ。

在所を流れる神戸川で土用の丑の日にドジョウを捕って缶に入れて銀座の魚屋へ持って行って小遣い稼ぎしたもんだよ。

川原町交差点が出来たら賑やかな通りになったんだ。東往来に面して舟木タバコ、モウリ書房、矢田建材、田中電機、草津湯、武田たまご、原田家具、肉の扇屋、武田産婦人科、錦川接骨院、スナック雅苑、西野駄菓子、末吉ふとん、ワシオ電気、小料理とき亭とお店が並んだんだ。

小さな在所だけど独立自尊の気概があって大きな矢田郷村の村長に二人も輩出しているんだよ。

現在の在所

百姓コンプレックスも時代が変わると、その田畑のおかげで土地持ちに力が付き自信が持てるようになったんだ。しかし、今また時代が変わり街の真ん中なのに限界集落になっているんだよ。

青壮年会は巴町と合体して頑張っているけど、祇園祭に奉燈が去年も今年も参加していないんだ。お囃子の子供が一人もいないし、担ぎ手がいないのでどうにもならないんだよ。私が小学校2年の時に獅子舞が中止になったんだ。

祭りは青壮年会も町内もまとまる唯一の力があるし続けたいと思うけど難しい問題だよ。
こじんまりした在所だけど団結力があり物事がすぐ決まるこんな住みやすい町はないと思っているんだ。

あきこの一言

城下の外れ、道が通り栄し在所。
見えない壁、懐かしむ。


第221回 田鶴浜 馬場


在所名の由来

平成元年に新しくできた在所でね、田鶴浜下東町から分れたんだ。
その時に新町名を投票したら一位が馬場、二位が平成町、三位が馬場新町だったんだよ。

元々ここは通称馬場と呼ばれていた場所で昔は馬を調教していた場所だと聞いているけど、
田鶴浜に織田信長から鹿島半郡五十九ヶ村、三万一千石を与えられた長連龍が居たので馬も沢山いたんだと思うよ。

昔の在所

昭和三十年代は赤坂が二軒と馬場、濱崎、倉田の五軒しかなく、周りは全部田んぼで国道が丸見え状態。
田んぼの中の細い道は歩けないほど強い風が吹きつける場所だったんだ。

海には桟橋があって輪島の海女さんが荷物を揚げて、赤坂さんと倉田さんの蔵に預けてそこからかごを担いで行商に回っていたらしいよ。
海もきれいな砂浜でね、泳いだり、アサリや蛸を獲ったりしていたんだ。

井戸水は塩分を含んで飲めなかったので昭和三十年頃に水道が付いたんだけど、ちょろちょろとしか出て来なくて甕(かめ)にためて使っていたそうだよ。

バス停と駅に近いので円山さんが宅地造成したら申込多数だったので、そのあと田鶴浜町も第二期、第三期と造成して一気に世帯数が増えたんだね。
世帯数が四十軒を超えた頃に下東から分かれ「笑顔で伸びゆく馬場」というスローガンを作ってスタートしたんだ。

在所の三引川沿いに柴田真次翁記念碑が建っているけど、田鶴浜の宮大工の棟梁なんだ。
安政四年に生まれ十二歳で京都に弟子入りして修行中に、父親で棟梁の新平が田鶴浜住吉神社の建立途中で亡くなったので帰郷し、その後を引き継いで完成させているんだ。
それがなんと十六歳の時なんだよ。
総持寺の山門や東本願寺山門、能登各地の神社仏閣を手掛け、昭和十五年に八十四歳で亡くなった名工なんだよ。

現在の在所

以前はどこどこに子供が生まれたとか、猫の数までわかるくらいだったけど、最近は普段付き合いが薄くなっているように感じるんだ。
ただ小中高と子供たちが多い在所なので、コロナで中止していた馬場フェスティバルを再開し、バーベキューやカラオケ、くじ引きなどをやって交流を深めたいね。

湾岸道路が付いて野鳥公園が出来て色んな人が通るようになったけど住む人が馬場を故郷として誇りに思えるような町にしていきたいね。

まなかの一言

由緒ある田鶴浜に、
歴史を重ねる馬場。


第220回 中島町代本


在所名の由来

解らないんだよ。誰に聞いても由来は聞いていないと言うからね。
ここは地勢的にも早くから発達した地域で文化的にも栄えた場所だったので中心地という意味で元となっていた所だと思われるんだ。
「世の元」といったら大げさかな(笑)。

在所の今昔

万葉集、大伴家持の能登国の歌三首に、「梯立の熊木酒屋にまぬらる奴わしさすひ立て率いて来なましをまぬらぬ奴わし」とあり、熊木の酒屋で怒鳴られているドジな奴、できることなら誘い出して連れて来てやればよかったと詠まれているから、奈良時代から酒屋が並んでいたんだね。

在所の殿山(とんやま)は城跡で鎌倉初期に長谷部信連が能登の地頭になった時に最初にここに住んでそれから穴水に移ったといわれているんだ。
南北朝時代に熊木左近将監(くまきさこんしょうげん)が城主となって熊木荘を支配していくんだ。この熊木左近将監が禅宗を好み京都の東福寺から月浦宗暹(げっぽそうせん)という僧侶を招き開基したのが在所の古刹、臨済宗定林寺なんだよ。定林寺には七尾市指定文化財の仏像や絵画があるよ。

江戸時代に大阪と北海道を結ぶ北前船が日本海を航行するようになると富来福浦港で揚げた荷物が運ばれ、熊木川から七尾西湾に出て各地を結ぶ水上交通の要衝となり、宿場としても発展していくんだ。

昭和五年の商店街の大火災は五月二十四日午後零時半頃出火して折からの強風にあおられ板葺き屋根に一気に火が広がったんだ。百二十五棟が焼けて代本も数軒を残しほぼ全焼しているんだ。商店街で道路幅が広くなっているところが大火の区域なんだよ。
この大火にも燃えなかった大きなタブの木にしめ縄をして保存しているけど不思議にこの木から桜の花が咲くんだ。
その横のお舘の水は生活用水でみんな汲みに来ていたけど、渡辺のジュースの素や春日井のシトロンソーダを溶かして飲んだもんだよ。

宿場の名残で石川亭、水月、藤吉、かんべ、そうすけ、てがら、ゆがみなどの料理屋、茶屋、置屋が並んでいたし、映画館や銭湯もあって水銀灯が並び七尾の大手町みたいに賑やかだったよ。
鉄道や車の時代になり中島駅も国道も近くに誘致したけど結局離れて出来てしまい商店街は衰退していったんだね。

激動する環境でこの先の事は分からないけど、今を生きている人が協力して、今に感謝して暮らしていかないとね。

まなかの一言

小さな在所に悠久の歴史、
これからも続く人の営み。


第219回 和倉町和泉


在所名の由来

和倉東町の世帯が増えてばっかいできなくなったので、町を分けようという事になってね、平成七年に新しい町として誕生したんだ。

その時に町名をどうするかという話し合いで、東新町とかいくつか案が出ていたんだけど、新しい町の役員で長老の古川正俊さんが和倉の和、温泉の泉、をとって和泉(いずみ)を提案したらみんな賛同して和倉町和泉に決まったんだよ。

昔の在所

お祭り会館と湯っ足りパークと和倉小学校に囲まれ、温泉街の中心から少し離れた場所なので古くから和倉に住み着いていた家は少ないんだ。

小学校グランド横の高台が和倉団地として開発されたので私の親の代からの人が多いんだよ。主に旅館関係で働く板前さんやマッサージさん、接待さんなど近隣と奥能登や全国各地から集まってきて家を構えたんだ。

町が出来て二十九年目なので歴史的なことや伝統的なことは特にないけど、新しい町を盛り上げようという心意気があったから、まとまりのある町内会だよ。

初代町会長の平沢さんが十年やって、二代目が森本さんで二年、三代目の野崎さんが六年、四代目が私で十一年目になるんだ。

和泉誕生五周年には茶碗を配って祝ったり、二十周年記念には「町民の集い」と銘打ってカラオケ大会や流しそうめんなどやったよ。新幹線開業の年はバスで金沢駅まで行って、富山まで新幹線に乗って、そこからまたバスで観光しながら帰ってきたんだ。

かつては道沿いにある菖蒲田では菖蒲湯の菖蒲を栽培していて各旅館に配っていたんだ。

現在の在所

町内行事は主に和倉コミセン(公民館)主体の行事に参加することと、年二回の大掃除なんだけど、高齢者中心にだいたい参加してきちっとやるんだよ。道路わきの草木を切ったら軽トラ八台も出てリサイクルセンターへ運んだんだ。

敬老の日の招待客は和倉では和泉が一番多く高齢化率が高いのだけど、七尾市の統計では低いんだ。それは加賀屋さんの男子寮と女子寮があるので住民の平均年齢を押し下げているんだね。

実際は古くからのアパートでは一人暮らしの高齢者が増えてきているんだ。民生委員がお世話してくれているので本当に感謝ですよ。みんなで支え合いながら高齢化社会を乗り越えて行きたいと思います。

まなかの一言

古くて新しい町に、
温泉街の歴史を感じる。


第218回 七尾市 百海


在所名の由来

奈良時代頃の話なんだけどね、海に白い鳥が息絶え絶えで流れ着いていたのを、この地に来ていた百歳の翁が、その白い鳥を「いかけ」という竹で編んだ籠ですくい揚げたら薬師如来観音が現れたというんだ。

翁が着いたところを百海と称し、鳥をすくい揚げたところを白鳥と名付け、その薬師如来を伊掛山の上に寺を建てて安置したという伝説なんだよ。

それで隣在所が白鳥で、ここが百海になったんだね。

昔の在所

半農半漁なんだけど、海の恩恵に預かってきた在所だよ。

今は岸端定置網組合の定置網としてやっているけどね。昔は十一月に網を設置して三月頃までのブリ漁だったんだ。春から秋は畑や田んぼをしていたんだ。網の岡仕事で夏場にコルタールを塗ったり、おもりの代わりに土のうに砂利を詰めたりする仕事があって若い衆や婦人会が小遣い稼ぎをしていたもんだよ。

定置網の合間にモッタリや車エビの刺網をして、タコ、サザエ、サヨリ、イカ釣りもしてたよ。モッタリとは個人でやる小さな定置網のことで網を守るからモッタリというらしいね。

その昔はタラもいっぱいとれたんだよ。十数人でつくるタラ刺網組合があって組合員が一日おきに交互に漁に出ていたんだ。母ちゃんたちがタラを背中にかついで山道を歩いて七尾へ行商に出かけていたなぁ。

漁場がいいのも山からミネラルが流れてくるからなんだ。だから山も大事なんだよ、伊掛山のお蔭だね。

今の在所

伊掛山山腹に建つ伊影山神社の銀杏は県の天然記念物で幹回り十メートル以上あり県内最大なんだよ。神社までは千枚田に負けないくらいの段々の田んぼだったんだ。耕作放棄地にならんように田んぼや畑の他に菜の花やコスモスを植えたりしてきたんだ。

集会所は旧庵小学校の理科室を移築し講堂の舞台も運んでね。演劇や子供の踊りをして文化祭みたい事をしたり、五つの班対抗の運動会をしたり、冠婚葬祭は在所中で行うし、結婚式は一週間も招待客を呼んでやっていたね。最後の招待客は地元壮年会でね。

婦人会とは別に嫁さんたちの婦女会もあって何をするにも勢いがあったけど、今は六十代が若い衆だよ(笑)。

祭りは獅子舞も神輿も出さずに宮参りだけになったけど、自然の中、一年を通して山と海の恵みの中で暮らせるので豊かな在所だと思うよ。子供から年寄りまで参加する行事をして横のつながりを大事にしていきたいね。

あきこの一言

灘浦海岸に立山連峰
山海の幸に恵まれし在所


第217回 中能登町 西馬場


在所名の由来

古文書に能登国鹿島郡馬庭(ばんば)村と書いてあってね、能登の国造りをしていた役人の馬駆け場があったことに由来すると言われているよ。
馬庭が馬場になり、その後、東と西に分かれたんだ。漢字は「にしばば」だけど昔から「にしばんば」っていっているよ。

雨の宮古墳群

「雨の宮古墳群」のある雷ヶ峰は山にもかかわらず宅地の字である西馬場モ部の地番がふられ、宅地同様に大事にされているんだ。

大小三十六基の古墳のなかでも一号墳は六十四メートルの前方後方墳、二号墳は六十五メートルの前方後円墳で、能登最初の国王かこの地域を支配した首長の墓だと考えられているんだよ。

平成四年からの発掘調査と復元整備で県内外から観光客が訪れているよ。

以前は山の天辺に土俵があって相撲大会が行われていたんだけど、そこが一号墳だったもんだから復元と同時に土俵がなくなったんだ。

一号墳に鎮座していた天日陰比咩(あめひかげひめ)神社は総雨乞いの宮であったことから「雨の宮」とも呼ばれたんだ。
古墳の上に建物が建てられないとの指導で本殿は一号墳の裾に、拝殿は二号墳の裾に遷宮されたよ。

大正十三年八月二十日より始まった雨乞いは、一号墳と二号墳の上に旗を立て太鼓を打って、二十数名が断食を三日三晩続けて、四日目の昼過ぎに念願の雨が雷鳴と共に降り注いだと伝わっているよ。心願成就に曳山を引出し在所挙げて喜んだんだ。

在所の今昔

辻には地蔵や神様が何カ所も安置され年に十数回の祭事があるんだ。
能登部神社の男神が西馬場の愛宕神社の女神を夜な夜な迎えにきて連れ出し一夜の逢瀬を楽しむ「ばっこ祭り」は町無形民俗文化財に指定された奇祭なんだ。

本土寺は小丸山公園に建っている日像上人が西暦千三百年に建立した古刹でね。
日像が石動山に登り法義を説いたら迫害されて西馬場へ逃げてきたんだ。
その時に加賀太郎と北太郎の兄弟が日像をかくまい石動山衆徒と戦って討死したのでその七回忌に建てられたんだ。

昭和四十年頃までは農業を中心に「エエ」(結)といって労働力の相互扶助での共同社会だったが今は専業農家が数軒になってしまったよ。
鹿西の端っこの在所が合併で真ん中になって中学校や新興住宅地「ゆりが丘」とアパートが建ち若い世代が増えたので頼もしいよ。

コロナ禍で祭事や行事が縮小されていたけど、復活させ新しい人と共に西馬場の伝統を守り続けていかねばと思っているんだ。

あきこの一言

神仏に囲まれ歴史がいっぱい。眉丈の麓から風薫る良き在所。


第216回 七尾市 古屋敷


町名の由来

室町時代に能登の守護になった畠山満慶から何代もの城主が築いてきた七尾城の麓で家臣団の館や政務を執った役所のあった城下屋敷に由来すると伝えられているようだよ。

昔の在所

上杉謙信に攻められて天正五年に七尾城が落城した後、前田利家が天正十一年から小丸山築城に着手し城下町が海辺に変わったので古屋敷が荒廃していくんだ。江戸時代の初めに田んぼや畑が開墾され農家が立ち並んで「元七尾」と言われたらしいよ。

ディサービスの「あっとほーむ」を建設する時に埋蔵文化財の発掘をしたら焼きおにぎりや火起こし道具、井戸、兜など昔を偲ぶものがたくさん出てきたんだ。在所の外れには処刑場だった場所もあるんだ。能越自動車道が横を走っているけどお祓いをしてから工事を始めたよ。

国の登録有形文化財で旧飯田家の懐古館と昭和三十八年建設の七尾城史資料館が並んでいるけど、当初資料館の建設予定地が小丸山公園だというので飯田さんが土地を提供して地元に建ててもらったんだ。今となれば大正解だったと思うね。戦後の昭和二十六年に老人ホーム「城山園」が開設したけど戦争で頼る身寄りがない高齢者が増えたことも影響したんだろうね。

現在の在所

昨年四月、城山園跡に七尾城登山口駐車場が整備され、本丸まで往復百五十分の大手道コースにたくさんの人が訪れているよ。ただ登城口が狭いので案内板があるけど分かりにくいのか道を間違える人が多くてね。在所の人がたびたび案内してるから何とかしないとなぁ。

コロナ禍で中断していた伝統行事の仏慈講も四年ぶりに行うよ。在所の法要でお寺さんに来て頂き懐古館でお参りをしてから、資料館横のお地蔵様にもお参りするんだ。このお地蔵様は田んぼに埋まっていたのをここに安置したんだよ。最初は城山園のお年寄りでお世話をして頂いたけど、今は隣の飯田悦子さんにお願いしているんだ。飯田さんがお水をかえたり、お花を添えたり、手作りの帽子、えりまきなどを揃えて一生懸命にお世話しているから、在所も守られているのだと思うよ。これからは共助を大切に新しい街づくりをしていきたいね。

ディサービスセンターとも一緒に三世代交流などで花いっぱいの在所にして、古屋敷のモットー「仲良く・明るく・新しく」を実践していきたいですね。

あきこの一言

近くに城山と教育施設、七尾の歴史と文教の在所。


第215回 七尾市 銀座


町名の由来

全国に何々銀座という商店街がたくさんあるけど賑やかな商店街になるよう東京の銀座にあやかって名付けたんだと思うよ。

ここにお店が集まったのは昭和二十五年なんだ。戦後復興の時代でね、関東大震災や戦火を受けて復興した東京の銀座のように七尾の街も復興して発展していくぞと、そんな気概で名付けたんじゃないかと思うね。

昔の在所

大手町の一部なんだけど銀座町として町内会があるんだよ。

生い立ちは戦後の闇市が原点なんだ。御祓川沿いに並んでいた闇市の十軒ほどがここへ移るときに声掛けしてお店を誘致したそうだよ。

当時は惣菜屋、雑貨屋、八百屋、魚屋に肉屋、小間物屋、駄菓子屋、呉服屋、食べ物屋などが並んでいたんだ。駅前という立地と、青果市場も魚市場も街の中にあった時代だから本当に人通りが多くとても賑わった通りだったんだ。

買物は銀座で何でも揃ったし、中華、ステーキ、鮨、割烹、居酒屋もあってね、銀座で昼食べて、夜また銀座で飲んでみたい人も沢山いたよ(笑)。

昭和三十年代は住民もみんな若いし町内会行事も力が入っていて、運動会や野球大会にはみんなで応援に出かけたし、海水浴にはバス一杯になって行っていたんだ。この頃はまだお昼の店が多く、越路屋さんにジャンボ宝くじが販売された時は銀座通りを一周する行列ができてビックリしたよ。

昭和四十八年頃にビルに建て替えてね、一階が店舗で二階が住居になったんだ。この頃からスナックなどが増えてね、銀座で一番多い時で五十軒以上のお店があったんだよ。
そんな時代に七尾では十番街と銀座が夜の街として賑わって行くんだね。

現在の在所

車社会になって人の流れが変わったけど、それでもまだ二十五軒のお店があるからね。

今までもオイル、繊維、バブル、コロナと不況はあったけど、こんな場所は無くしちゃいけないんだよ。パチンコに勝ったと飲み、負けたと言って飲む。酔っぱらいの喧嘩の仲裁もあったし、スナックのお客が鮨、ウナギ、焼き鳥、ラーメンを食べたいといえばママが近所の店に注文する。

ごちゃごちゃした昭和ノスタルジーの街としてこの雰囲気は残していきたいね。空き店舗も十五軒あるから盛り上げてくれる人大歓迎ですよ。

近年は若い人や観光客も訪れているし、これからも老若男女楽しめる町にしたいね。

あきこの一言

苦楽ある人生、銀座はオアシス。


第214回 七尾市町屋


在所の由来

畠山の重臣、温井氏が高階を拠点にして隣の満仁町の舘山(たちやま)に館を構えたことで、ここにも武士の住む町屋造りの家が数軒あったからだという説と、もう一つは御用取次役人がいて人を待つ茶屋があったからだという説とあるようだよ。

昔の在所

昔は田鶴浜から鳥屋への幹線道路が在所の真ん中を通っていたんだ。
二ノ宮川流域の平坦地に農業中心に暮らしを立ててきた在所でね、「からむし」という上布の原料となる多年草を栽培して能登部に出荷していたらしいよ。

明治期には町屋小学校が開校され、役場や駐在所も置かれ高階村の中心地だったようだよ。

大正十年には高階の三百三十三軒の家に電灯がついたんだ。町屋の大地主の荒谷内宅に北陸電力の前身となる能登電気株式会社高階村代理店が置かれ電気工事技術者も集まって事業が行われたんだ。おかげで小学校に文化活動写真を見る会(映画)が行われると講堂一杯に村民が集まったらしいよ。

戦前戦後は町屋出身の実業家が東京から戻って養豚養鶏組合を作り農村の副業を創出しているんだ。

私が子どものころは雑貨屋、豆腐屋、呉服屋に建具屋など商店もあったし、川にはウナギ、スッポン、ナマズ、フナ、アユ、ウグイ、サケもいたんだ。家の縁の下から「やす」を持ち出しそれでサケを突き刺して捕ったけど、腹からイクラをポタポタ落としながら家へ持って帰ったこともあったなぁ。

現在の在所

明治より世帯が五軒増え人口は六十二人減っているんだ。在所の中で新宅していた時代は子供も沢山いたし、私も九人家族で同級生が七人もいたんだ。

少子化と高齢化がこの先どうなるかと思うけど、私の息子も金沢で家を建てたし、これが現実だよ。空家の利活用も行政を含めて考えていく時代に入ったね。

移住者が多い高階だけど町屋にも四人いるんだ。職人や芸術家など地域の人と交流してくれて良い感じだよ。

ここは過疎でも過密でもない、適疎(てきそ)だと思っているんだ。
ただコンビニがあればもっと良いんだけど誰か出してくれないかなぁ(笑)。

小さな在所だけど色々な行事はみんなの協力を頂き、仲良く続けて行きたいと思っているんだよ。

あきこの一言

故郷を愛し、もてなす心を育む、
川と平野の恵みある在所。


第213回 田鶴浜 吉田


在所名の由来

田鶴浜町史によると、古くから水田耕作が営まれ、良質米が収穫されることから「吉き田」が由来と推定しているようだね。確かに吉田川が流れ水も豊かで鎌倉時代には吉田保として稲作が盛んだったようだよ。

昔の在所

在所の裏山にある吉田経塚古墳を五十年前に発掘調査したんだ。そしたら子供を含めて十七人が埋葬された土墳が発見されたんだよ。それは弥生式墳墓でね、千八百年くらい前にはもう人が住み着いて暮らしていたんだね。

志賀町と境界の尾根に立つと外浦と七尾湾の両方が眺められるんだ。そこに沖に来る渤海の船を見張るのに仲哀天皇が砦を築かせていたんだ。その後、戦国時代には七尾城の西の守りとしてより強固な山城として畿保比城(きほいじょう)が整備されていくんだよ。

今から四四六年前の天正五年七月、越後上杉勢が能登国に攻めて来た時に畠山方の加治主殿が越後方の唐人式部らと吉田坂にて決戦したと古文書に書かれているそうだよ。

そんな影響もあるのかどうかわからんけど、子供の頃は親分を決めて西軍と東軍に分かれて城山を走り回ってチャンバラごっこして遊んだもんだよ。

現在の在所

千五百メートル直線の吉田川が県道末吉七尾線と並行して流れているけど、百年前の耕地整理で曲がっていた道と川を真っすぐにしているんだ。先人に感謝しないとね。

おかげで吉田川をホタルロードとして住民が一丸となって草刈りや木の手入れなど保全管理しているんだよ。その吉田川沿いに桜の木を百五十本と運動公園に五十本植えたけど、その桜が大きくなってね、春になると見事な桜並木となってみんなを楽しませてくれるんだ。近年は桜の名所として多くの人が訪れているよ。

四十年前に私がUターンした時は百四十軒の在所だったけど、今は百軒に減っているんだ。少子高齢化はブレーキがかからないのでどうしようもないよ。高齢者が多いけど農業で頑張りながら、運動公園でグランドゴルフをしたり、会館で卓球などして絆を深めているんだ。

人情も温かく困ったことがあればお互いに支え合っているので居心地の良い在所だよ。私もいろんな人のお世話になってきているので、少しでも在所に恩返しができればと思っているんだ。

あきこの一言

花咲き蛍舞う吉田川、恵みを運ぶ
民穏やかに暮らす、歴史ある在所


第212回 中島町奥吉田


在所名の由来

日用川下流域に位置しヨシ原を開拓したので吉田となって、後に鹿島半郡(かしまはんごうり)を治めた長氏の領内に田鶴浜の吉田があるのでこれと区別するために奥吉田になったと伝え聞いているよ。

昔の在所

開村したのは隣の笠師村の豪農四位兵衛(盛田家)の三男伊左衛門が分家したのが始まりと伝えられているよ。そこはうちの本家でね、本家の裏山には当時分家した時に持ってきた石の地蔵さんが笠師の盛田さんの方角を向いて安置されているんだ。本家の敏信さんは母親から受け継ぎ朝コップ一杯の水をお供えしてお参りを続けているんだよ。

お地蔵さんと言えばもう一つあって「どどんまい」と呼んでいる田んぼのえがわから刀の鍔と一緒に出てきたんだ。祠(ほこら)を作って安置してあるけど、上杉勢が熊木城を攻めてきた時の戦場跡だったかもしれんね。

子供の頃、中島駅へ行くには河崎へ出ていくルートと、日用川に架かる鉄橋を命懸けで渡るルートがあったよ(笑)。まだ国道が整備されていなかったからね。

戦後の農地解放の時、親作から小作に田んぼが渡されたけど親作が耕作している田んぼは渡さなくてよいというので、親作が急に田んぼに肥やしを入れ出したんだ。でも小作も負けじとその田んぼを耕すもんだから親作は根負けして結局は小作の田んぼになったんだね。ただ戦争での未亡人や年寄世帯が多くあって、それで十五歳からの若い衆がみんなで田んぼの手伝いをしたそうだよ。

現在の在所

奥吉田から笠師まで千二百メートルの山道が殿様道なんだ。嘉永六年に静岡県浦賀にペリーの黒船艦隊が現れて徳川幕府が海防状況を全国に命じたんだ。それで加賀藩も十二代藩主前田斎泰(やすなり)が能登半島を視察し帰り道にここを通っているんだ。殿様が通るという事で当時の人たちがこの山道に日用川から石を運んで石畳にしているんだよ。

そんな道もいつしか土に埋もれていたんだけど、平成五年から豊川地区の実年会が埋まっている石を掘り出して磨いてきたんだ。おかげで今では観光名所になってるし、地区の人たちも毎年公民館行事として歩いているんだ。

目の前に広がる豊川平野は百四十町歩とこの辺りで最大の田園地帯だけど海抜ゼロメートルの湿田なので加賀平野の倍の労力がかかるんだよ。このままだと誰がやるにしても農地として守れなくなるから、将来に備えて給排水を整備して乾田化させておきたいね。

あきこの一言

平野を流れる日用川、
山から見渡し、晴れ晴れ。


第211回 中能登町坪川


在所名の由来

本当のところはわからないんだ。

地形的には石動山系と尾丈山系に挟まれた邑知潟地溝帯の湿地帯で葦(よし)が生い茂っていた場所でね、そこに二宮川や石塚川と大きい川が流れているけど、川は氾濫するし、田んぼも深いんだ。

淀みというか、溜まりというか石塚川の扇状地の端っこでこの辺りのツボとなる場所で坪川となったんじゃないかと話しているんだよ。

昔の在所

昭和三十年の耕地整理で弥生時代と古墳時代の土器や中世の珠洲焼が出土したけど、水に恵まれ昔から人が住みやすい場所だったと思うね。半面、石塚川は川の土砂が堆積し川底のほうが高い天井川で氾濫を繰り返し洪水との戦いの歴史を持つ在所だよ。

大雨で水量が増すと太鼓が鳴り響き大人が蓑笠姿で川土手へ走ったんだ。長い竹を崩れそうな土手に手当して、藁を積んだりと大変な苦労をしてきたけど、何回も何回も氾濫を繰り返しているんだ。

河川改修で川底や堤から中世の石碑が沢山出てきたけど、被災の度に洪水を鎮める祈願をしていたんだね。先人の苦労が偲ばれるよ。その石碑を在所で大事に保存しようと今年八月に一カ所に移設したところなんだよ。

明治の神仏分離令で宮のご神体だった千手観音を在江の栄林寺に移設安置したら、日清か日露の戦争に出征した人の夢枕にその観音様が白装束で現れ「私を元の居場所に戻してくれ」とお告げがあったので、また神社に戻しているんだ。昭和十五年に神社の境内に観音堂を建立し、今は毎年八月十八日に観音祭としてお参りしているんだ。

神社に幾何学の問題を記した算額が奉納されてるけど、これは県内でも珍しいそうだよ。江戸時代に優秀な数学者が坪川にいたらしんだ。

現在の在所

ランドセルのように仏壇を担いで宿の家に運んだ「回りお講」も月に一回が、集会所で年に一回のお参りになったし、子供獅子も出せなくなって少子高齢化が進んだよ。

そんな中だけど、鹿島バイパスに出る幹線道路の整備が進んで通行が便利になったり、営農組合で田んぼを維持したり、緑の会で耕作放棄地やため池の周りの草刈りなど環境整備には努めているよ。

百楽会もグランドゴルフを楽しみ健康で活き活きしているからいいね。空家の管理など課題もあるけど、風景はのどかで、真面目で勤勉な人が多いので、まだまだ底力はあると思っているんだよ。

あきこの一言

人と神仏と暴れ川
長き歴史を今に繋ぐ在所。


第210回 田鶴浜新屋


在所名の由来

二宮川が運んできた土砂が堆積し出来た荒地を新しく拓いたことに由来すると聞いているよ。昔は荒屋とも書くことがあったようだね。

そんな場所だから江戸時代、明治時代と大氾濫に見舞われ大きな被害を受けたらしいんだ。昭和二十四年頃の河川改修で川幅が二十五メートルも広げられ、今は穏やかな川になっているよ。

昔の在所

移住してきたから昔の話はわかんけど、先輩方から聞いた話だと昭和十九年頃はまだ茅と藁ぶき屋根の農家が大半で、戦時中の主食はさつまいもや麦飯などだったそうだよ。

ここは隣在所の川尻にある荒石比古神社の氏子で祭りは川尻と一緒に行うし、生産組合や公民館活動は垣吉の在所と一緒なんだ。新屋では地蔵祭りが伝統行事で毎年八月十九日に近い土曜日に東嶺寺の住職に来て頂いてお参りと説法をしてもらい、終わればアイスを食べるのが恒例でね、子供たちはアイス目当てに集まるんだよ(笑)。

昔から新屋と垣吉が一緒に若衆報恩講をやっている縁で若い衆が新垣友和会を結成して、地域を盛り上げようといろんな行事をやってきたんだ。中でも盛大にやったのが夏の「二宮川フェスティバル」でね、新垣を自分たちで良くしようと頑張ったんだよ。手作りのイカダレース、釣り大会、しょうろう流しなどやって、春には二の宮川上空に百本のこいのぼりを泳がしたり、盆踊りには稲垣音頭を披露してたこともあったんだ。

現在の在所

つくづく友和の精神が育まれている在所だと感じるよ。

平成三年の石川国体で成年女子バスケット静岡県選手団を民泊で受け入れたけど三十年経った今でも交流が続いているんだ。コロナ禍前に再会したけどみんないいお母さんになっていたよ(笑)。初戦の相手が石川チームだったけどみんなで静岡チームを応援したんだよ。

こじんまりした在所でどんな課題もすぐ解決するんだ。全世帯がみなさんのお世話をしようじゃないかと町会長七十歳定年制を設けたんだ。町会長を辞めたら次は副町会長になって新しい町会長をサポートし、監査役をやった人が次の町会長になるんだよ。

私も旅から来て仲良くしてもらったけど、友和の精神を次世代に繋いで、在所を守り支える仕組みを大事していきたいね。 みんな仲よーしてやっていければいいんや!そんだけやろー(笑)。

あきこの一言

カワセミが飛ぶ二宮川
みんなで語り合う友和の在所


第209回 中島町菅原町会


在所名の由来

今年の四月一日に中島の要貝と大町が合併して誕生した新しい町なんだよ。

高齢化が進む中、何かと町会運営も難しくなってきていたので、前々から合併の話はあってね。まず壮年団が一本化して、今年になってようやく実現したよ。

既存の町会が合併するのは合併後の七尾市では初めてなんだ。双方の神社が同じ菅原神社なので祭りは一緒にやっているし、お互いの住人もみな親しい間柄だから違和感はまったくないね。町名はもちろん神社の名前からだよ。

昔の在所

昔は演劇堂の前の道路が川で、その川と熊木川に挟まれた場所だったので中島という地名が付いたんだ。中島の垣内の在所で代本・向出が白山組、中町・新町が愛宕組、要貝・大町が菅原組、山岸・岩崎・岡が熊野組としてそれぞれの神社で組を作っていたんだ。

要貝の名前の由来は貝田城(熊木城の別名)を守備する出先の要害の地だったからだと聞いているんだけどね。商工会の場所は加賀藩の年貢を保存するお蔵があったんだ。在所の屋号で「もんすけ」「ばんじゃ」があるけどお蔵を守っていた家系だと思われるよ。

中島は熊木川のおかげで商店街として発展したんだ。七尾や奥能登を結ぶ天神丸という船が航行していてね、熊木川を上がって天神橋に着いて、そこがバスの始発場で富来や穴水に向かっていたんだ。

輪島の海女さんも船で来て、要貝を前線基地にして宿に干物など商品をドサッと置いてかごを担いで行商に出かけていたよ。私の祖父が天神丸の船頭で家も海女さんの宿にもなっていたんだ。

記録によると中島地区は江戸時代から賑やかで明治期に電話が、大正元年自家発電で電灯がついて、大正三年に全国で三番目に上水道が敷設されているんだ。
各地から人が集まり歓楽街もあって全盛期には芸者さんが四十八人いたと先輩が言っていたよ(笑)。

現在の在所

高齢化社会にどう向き合うか…。新しい町会なので今まで以上に絆を深めたいと思ってね、ネットを使って色んな情報がすぐに伝達できるように取り組んでいるところなんだよ。

これから独居老人も増えていくと思うので町会長、民生委員、親族も含めて効果的な協力体制を作っていかないとね。

それと若い人が結婚を機に七尾や中能登町へ出て行くので何とか地元に留まって欲しいところなんですよ。

あきこの一言

進出果敢な気質が今に伝わる在所


第208回 中能登町最勝講


在所名の由来

法華経、仁王経とともに国家鎮護の三部経とされる最勝王経(さいしょうおうきょう)のお講が営まれていたことに由来すると聞いているよ。

本当かどうかもわからないけど国分尼寺があったんではないかとか、毎月八日に寄り合った日があったとか聞いたこともあるけどね。

確かに在所の中には大塔河原、社の神、総堂、中門跡、権現田など神社仏閣にちなんだ呼び名が多いね。

昔の在所

度々合戦の地になっているようだよ。大きなところでは畠山軍と越中温井・三宅軍の合戦があってね、合戦が始まるという話が伝わると井田、徳前、芹川、馬場などに逃げ、終われば戻ってくるという事が何度もあって離散集合が繰り返されたらしいよ。石動山も近いし色んな合戦があったんだろうね。

石動山とは縁が深くてね、明治七年に石動山の行者堂を十九円で買って在所の天神社拝殿としていたけど昭和六十三年に拝殿を新しくした時に石動山に移築して行者堂に復元しているんだ。神輿も明治八年に石動山から二十六円五十三銭で買い取ったけど、江戸時代のものらしく貴重なものなんだよ。それで石動山資料館に展示させてほしいというので今は預けてあるんだ。

春秋の祭りには持ってくるという約束だけどもう六十年も祭りに神輿を出していないので預けっぱなしなんだよ(笑)。

現在の在所

「最勝講どんどん・おこどんどん・閑所(かんしょ)とかけて十三軒」という囃子言葉があるんだ。これは近隣の子供たちが最勝講が小さい在所だからとからかって言うので私の先輩たちはよくケンカしていたよ。閑所とは便所のことで便所まで数えて十三軒しかないというふうに思われているけど明治十六年で三十六軒の在所だったんだよ(笑)。

在所では、おこどんどんとは、右近殿がなまって、おこどんなんだ。百石持ちもいた在所で、おやっさまが十三軒もあったとか、間口十三間の家が並んでいたと伝わっているんだよ。

一昔前は良川駅へ向かう通学路で高校生がたくさん歩いていたけど今は静かな在所になったね。良川駅とアルプラと中能登中学に近く新しい人が十世帯入ってきているけど、少子高齢化が進んで人も田んぼも現状維持が精一杯ってとこだよ。

あきこの一言

古い通りを散策すれば
穏やかな空気、のどかな在所。


第207回 田鶴浜七原


在所名の由来

在所では「しつわら」と呼んでいるよ。
赤蔵山系と眉丈山系の狭間の小さい盆地で、そこを流れる吉田川を挟んで拓いた田んぼが唯一の平地なんだけど、七つもの野原があるようなところではないので、なんで七原となったか正直わからないんだよ。

昔の在所

人里離れた山間に田畑で暮らしを立ててきた在所でね。私が子どもの頃は田んぼも土水路でドジョウやタニシがいたし、吉田川にはきれいな水が流れヤマメやナマズ、コイにフナ、ゴリなど沢山いたよ。

タニシはゆでておやつ代わりに食べていたくらいだけど、ここのタニシは先端が白いのが特徴なんだ。昔この辺りに十劫坊というお寺があって、たくさんの坊舎が建ち並んでいたことからか、在所では僧の生霊と言い伝えられているよ。

私の苗字は家の前が採石場だったから大石で、屋号は「ほこさ」と言うけど、長尾景虎の六人衆の一人で鉾持ちだったからだと伝わっているんだ。志賀町方面からの敵を防ぐのにここに家を構えたと聞いているよ。六人衆の系図ははっきりしていて、今でも事があれば吉田の長尾家を中心に集まるんだよ。

現在の在所

この時期、吉田川から田んぼ、山の麓にかけて沢山のホタルが飛ぶけど幻想的でとてもきれいだよ。

近年、水もきれいで自然が豊かだからと移住して自然農法を営む若い人もいてくれてね。こちらはもう在所の人として迎えて色々と交流しながら助け合っているんだ。

小さな在所ゆえみんな素朴で人が良く、草刈りも、苗植えも収穫もみんなで手伝って、毎週土曜日にはどこかの家にみんな集まって一杯やっているよ(笑)。八世帯しかないのに川の草刈りには十五人も出てくるんだ。在所の外に住んでいても七原に畑をしている人たちが草刈機を持って集まってくれてね。

若い仲間も増え昨年は二十一年ぶりに秋祭りに旗を立てたし、今年は神輿を出そうと話しているんだ。なんと五十年以上ぶりだよ。何をやるにしても協力しなければならないし、在所中ラインでつないでもうみんな親戚づきあいなんだ。

最終的には人と人のつながりが一番大切だと思うんだよ。いがみ合うより、助け合って、美味しいもの食べて、楽しく過ごす。そういう環境を子や孫の代にも残していけたらと願っているんだ。

あきこの一言

絆を大切にして、自然を満喫。
思いやりのある暮らし、素敵な在所。


第206回 七尾市東三階


在所名の由来

元々の三階村が江戸時代に二宮川を挟んで東が前田領、西が長領となったんだ。その後明治期に三階村が東三階、西三階に分村したんだね。三階村の由来まではよくわからないけどね。

昔の在所

室町時代、東三階を中心に開墾が始まっていったんだ。そんな歴史のなかで近年までずっと農業を中心に営んできた農村だよ。大正時代には在所出身の郡会議員が中心となって一反、三百坪の耕地整理をいち早く行っているんだ。

農閑期の夜は近所のお母さんが三人、四人集まって囲炉裏を囲んで筵(むしろ)を作る縄を編んでいたよ。子供は学校から帰ったら縄にする藁(わら)を叩いてほぐすのが仕事でね、勉強しろと言われたことが一回も無かったよ(笑)。

どこの家も五人、六人と子供がいて、私の実家も遊び場になっていて缶蹴りやメンコで遊んだよ。田んぼでソフトボールしたり、祭りになると野師(やし)が家の前で店を広げ小遣いをもらった子供たちが集まって本当に楽しかったなぁ。

部屋に畳でなく「こもしろ」を敷いていたような生活が昭和三十年を過ぎて「あんか」も「おじ」も金の卵と言われて都会へ出ていくようになって時代が変わったようだね。

現在の在所

昔は春と秋の祭りには神輿と獅子舞が在所を廻りどこの家も親戚を呼んで十人、二十人と集まっていたけど、今は空家と一人暮らしか二人ボッチの家が多く、秋の祭りに集会所の前に神輿を出すだけになったよ。

東三階の神社は標高六十八mの険しい山の上に建立されて江戸時代までは五社大権現と呼ばれ石動山の伊須流岐比古神社と同じ虚空蔵(こくぞう)菩薩・十一面観世音・将軍地蔵・俱利伽羅不動尊・聖観音を祭っていたんだ。明治の神仏分離、廃仏毀釈で佛様を祭られなくなったけど、その山一帯を虚空蔵菩薩の漢字を変えて国造(こくぞう)山と呼んでいるんだ。

宮は伊弉諾(いざなぎ)神社として麓に移転しているけど八月二十日の国造山祭はしっかりやっているよ。

大正時代に整備した田んぼを新たに広くする圃場整備事業が来年から始まる予定だけど、町会と生産組合、アグリ東三階が協力して取り組んでいくよ。

アグリ東三階はため池や土手の草刈りなど年に三回は行っているけど沢山の人が草刈機持参で和気あいあいと作業するんだ。作業を通じ強い絆で在所を守っていかないとね。

あきこの一言

垣間見る日本の原風景
田舎暮らしを楽しむ在所


第205回 七尾市八田


在所名の由来

矢田郷から分かれた村で八田(やた)と書いて(はった)となったとか、八田三助という郷士がいたとか、八幡町から出た人がここで田んぼを開いたとか所説あるようだけど本当の由来はわからないんだ。

昭和二十八年、平城京跡の発掘調査で能登郡八田郷と書かれた木簡が出てきたんだ。木簡とは地方から奈良の都に税として物品を輸送する際の荷札のことだけど奈良時代にはすでに八田という地名があったことは確かなんだよ。

昔の在所

江戸時代後期、水不足が深刻で二百九年前に山の奥に三ヶ村池という二段構えの池を作ったんだ。八田と国下、中挾の三村共同で二年間に六千七百五十人の人足が出たと記録があるよ。

この池の土地が江曽地内だったことから八田の乗龍寺にあった自慢の大太鼓を江曽村に譲り渡すことになったんだ。その太鼓は今も江曽の妙楽寺にあって戦前までは正午の時を告げていたらしいよ。

太鼓の話がもう一つあるよ。三ヶ村池から流れ出る水が笠師川となってその中流に滝つぼの蛇池があるんだ。昔ここで七日間に及ぶ雨乞いを飯川村光善寺第二十五世住職の観常にお願いして執り行ったんだ。

その時打ち続けた太鼓が今も光善寺にあるけどこの太鼓は中島町西岸の室木助左衛門(明治の館)が百八十三年前に光善寺に寄付したものなんだ。

室木家と光善寺の繋がりが不明だけど、八田にも室木家と同じく廻船業の八田助五郎という人がいたので縁を取り持ったのかもしれんね。

現在の在所

近年八田の棚田米が全国の品質審査大会で数々の賞を貰っているので嬉しいね。

担い手の高齢化が進み跡取りがいないのが気にかかるけど、標高二百メートルの棚田は寒暖差があり石動山系からの湧水なので美味しいんだよ。
棚田は農機を入れにくいし労力をかけても採算が合わないという苦労もあって耕作放棄地になりやすいんだけど、八田の農家はその保全に価値を見出そうと頑張ってくれているんだ。

毎年東雲高校の生徒も来て田植えから稲刈りまで全部手作業で米作りを体験しているけど、昨年はその米が全国農業高校お米甲子園で最高金賞を受賞したんだよ。

若い人が居ないと在所が活性化しないので、妙案はないけど農業を楽しめる環境を作って次世代に何としても引き継いでもらいたいとみんなで願っているんだ。

あきこの一言

棚田あり、水あり、人あり 
自然を活かす八田の在所


第204回 七尾市竹町


在所名の由来

室町時代ここは畠山城下でその家臣の館(やかた)があったことから、館(たて)町と呼ばれそれがいつしか転化して竹町になったという説があります。
江戸時代から明治二十二年までは竹町村と呼ばれていたと記されています。

昔の在所

城山の麓で山仕事や畑仕事で生活してきた在所です。昔は用水不足で近隣の在所と紛争が絶えなかったという歴史があります。

そんなことから嘉永年間(江戸時代)に二枚田に竹町、府中、藤橋、所口、天神川原、古府、国分の七か村で共同のため池を作りました。「シチカムラの池」と呼ばれ三百五町歩の田んぼを潤したといいます。この池は遠浅の部分もあり小学生の頃は海水浴のように泳いだり、池にせり出した木の上から飛び込んだりして遊びました。

この池も昭和四十七年ごろから不燃物ゴミ処理場として埋め立てられ、今は市立二枚田運動場(ソフトボール場)となっています。

等伯の達磨図を所蔵する山の寺の龍門寺は最初竹町にありました。上杉謙信が攻めてきたとき一時能登島の閨に移転し、その後山の寺に再建されたそうです。在所には龍門寺という小字が残っていて付近の田んぼから五輪塔の石が見つかっています。大天神山の外れには処刑場があったと伝わっています。

現在の在所

本家筋で十六代、十七代と続いている家が七軒残っている古い在所ですが、かつては山の麓の竹町の場所を教えるのが難しかったです(笑)。今は農免道路と城山線が整備され城山交差点が出来て場所が分かりやすくなりました。

能越道が開通し城山インターへの通り道になってから交通量が格段に多くなり、交差点に信号機が付くまでは本当に事故が多かったです。

小学生の頃は春と秋の祭りは神輿が出ていましたが今は松尾天神社でお参りするだけになりました。新しい人も入ってきて人口も年々増えてきましたが、顔を合わす機会が少なく道路と河川の愛護デーで顔を合わせるくらいです。

古いしきたりやしがらみがないので新しい人も案外生活はしやすいのではないかと思います。田んぼも広がり空気も良く、学校や商業施設も近く便利で住みやすい場所になりました。

いずれにしろ住む人みんなが公平で平和に暮らしていける町であり続けたいと願っています。

あきこの一言

七尾城の麓、歴史が漂う在所
田舎の都会、ゆったり暮らす