こみみかわら版バックナンバー

第77回 七尾市中島町外

在所-中島町外-

「七尾市中島町外(そで)」

七尾北湾に面し、のと鉄道西岸駅、明治の館室木邸、旧西岸小学校がある、58世帯、188人が暮らす在所です。

在所名の由来

「外」と書いて「そで」と読むんだが、なんで外になったのか本当の所はよく分からないんだよ。古老の話では、在所の一番山奥に外谷内(そでやち)という場所があって、そこに住んでいた先祖が現在の場所に出て外となったと言っているよ。外谷内の由来もあってね、昔は隣の小牧も含めて、海岸ではなく山裾に在所があってその地区を長崎と呼んでいたんだ。上杉謙信が攻めてきたとき、長崎から山奥に逃れたんだね。それで長崎の外の場所へ、袂(たもと)を分けて、袖(そで)を分かつ山の奥地、そんなことからそこを外谷内と呼んでいったんではないかということだよ。

昔と今

林業と農業が中心の生活だったね。海に面しているけど漁師は一人もいなかったよ。20年前は36世帯が田んぼしていたけど、今は11世帯しかしていなくてね、やはり少子高齢化、担い手不足の影響が出ているよ。昔はどの家も3世代が同居して子どもは3人や5人いて賑やかだったけどね。昔と世帯数は変わらないけど、人口は半分近くになっとるよ。

明治の館は、庄屋の室木邸でね。回船問屋も営んだ有力者で、私が子供の頃のだんな様は国会議員もした弁護士で、山高帽にステッキを持って歩いていた姿が印象的だったなぁ。在所の大きな事柄は室木様に相談してその一声で決まるんだ。苗字が許された時、室木様に奉公していた者がみな室木を名乗ったものだから、私も含めて在所の11世帯が室木なんだよ。 アニメ「花咲くいろは」の駅のモデルが西岸駅なのでそのファンや、ヨットハーバーもあって、休日には沢山の人が来て賑やかだけどね・・・。今年4月に町会長になって感じるけど、在所の中は益々助け合いが必要な時代だよ。長い歴史の中で外を故郷としている人が沢山いて、その人たちが全国どこにいても自分の故郷、外があるということが大事なんだ。そしてその外を守っていくためには、今ここで暮らす人たちが幸せでなければならないんだよ。「共に生きる在所」を今まで以上に考えていかないとね。微力だが一所懸命に尽力しようと思っているところだよ。

あさみのひとこと

笑顔が素敵な室木町会長の誠実な人柄から、住む人が幸せであり、外出身の方々が誇りに思える故郷を守り続ける決意を感じました。


第76回 七尾市能登島野崎町

在所-能登島野崎町-

「七尾市能登島野崎町(のざきまち)」

小口瀬戸を挟んで観音崎の向側で、能登島東部に位置し七尾湾の外海・日本海に面した、102世帯、376人が暮らす在所です。

在所名の由来

野崎の海岸線は田畑が続き、陸地が海に突き出た先端のことを崎とか岬と言うから、野の岬、野崎となったんじゃないのかなぁ。

昔と今

四百年以上前、塩作りの職人が上杉謙信について現在の上越市塩浜町に移り住んだ歴史があって、今でも毎年交互に往来して今年は野崎から十八名で訪問するんだよ。私が小学生の頃は山遊びや潮干狩りという授業があって、山でアケビやムベ、海でタコやナマコを採ったりしたね。天然の遠浅で冬に潮が引けばそこでソフトボールしていたし、「腹減ったんなら、まったけでも食べておけや」というくらいに松茸も取れていた時代だったね。昭和三十八年から海を埋め田んぼにしたけど昭和四十二年に減反が始まってね、それで一部が松島海水浴場となりオートキャンプ場が出来たんだ。今年は県内外から約八千五百人も来て、青年団は駐車場、女性会は売店と皆でお世話しているよ。それと市の助成と在所の負担で猪の電気柵を二十㎞作ったよ。在所のみんなで五日間でやったよ。地面から二十㎝と四十㎝に電気線を張ってあり、草が被らないよう、毎月一回は除草しないとならないので三十数区画に分けて責任者を置いたけど今後の維持管理が大変だね。

在所の自慢

神社の狛犬が珍しいよ。富士山の溶岩を運んで来て、その上に獅子が我が子を千尋の谷へ突き落とし、子獅子が這い登っているモチーフだよ。もちろん阿吽になっているし見応えあるよ。まぁ、何と言っても団結力はすごいものがあるよ。能登島のソフトボール大会では一番先に大声で野次を飛ばすけど、相手チームではなく自分のチームに飛ぶんだから他人が見たら滑稽だと思うけど、それほど仲が良いということなんだね。(笑)

あさみのひとこと

海水浴場の海は、透明で澄みきっていてビックリです。昔在所にはいくつもの神社があったことからも、各地から人が集まって来たと思われ、独自の存在感のある在所です。

 


第75回 七尾市飯川町

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「七尾市飯川町(いがわまち)」

東往来沿いから徳田駅付近までに位置し、鹿島バイパスが通る、147世帯、464人が暮らす在所です。

在所名の由来

古文書によると平安時代この周辺一帯が飯川保と呼ばれる荘園で、この地を領有していた豪族が飯川氏で、その名に由来しているという説があるよ。

昔と今

飯川大池と言ってとても大きな池があるけど、私が小学生の頃は水が澄んでとても綺麗な池だったよ。学校帰り泳いでから家へ帰ったものだよ。その頃の産業は織物だったね。徳田織物と七尾織物と二つの大きな工場があって、東北から集団就職で若い織子さんが来て賑やかな在所だったよ。多い時で二百人くらい寄宿舎で生活してたらしいよ。近所のやきそばや焼きまんじゅうのお店はいつもいっぱいで華やかだったね。娯楽で東映の巡回映画も来ていたから近所の子ども達も見に行ったもんだよ。年頃の女性だから地元の男性と恋愛結婚も多かったようだね。最近は人口減が心配だね。獅子舞の踊り子も小学生だけでは出来なくて若い衆も困っているんだ。今年から中学、高校生にも応援してもらう予定なんだよ。

在所の自慢

何と言っても大欅だよ。樹齢は約七百年、飯川のシンボルだね。市の天然記念物に指定されているけど、老木なので三年計画の延命治療を施しているよ。在所を明るくして景観を良くせんかと、フラワーサークルを作って月一回花いっぱい運動で花壇を作ったり花を植えたり、草取りしていたら、平成二十四年の『ななお景観賞』に、この欅を中心に東屋が並ぶ町並みが選ばれたよ。嬉しいね。

あさみのひとこと

大欅は有名ですが、池も大きくてすごいです。 在所のお寺の門徒数からも江曾村の出村で新興の在所だったことが伺えます。

 


第74回 七尾市田鶴浜垣吉町

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在所名の由来

歴史の古い在所なんだけど、確かな由来はわからないんだよ。垣吉から新屋、川尻、舟尾、奥原、和倉までを端村と言った時代があってね、田鶴浜村との境が垣吉なんだよ。お隣との境には垣根を立てたりするし、集落を細かく分けた一区画を垣内(かくち)と呼ぶそうだが、なんかその辺りに語源があるのかもしれんね。

昔と今

ここは二宮川の下流域なので昔から川を中心に拓けた土地でね、この辺り一体が古墳群なんだよ。田んぼを耕すと土器の茶碗などよく出てくるし、サンビームの上が古墳公園になっているよ。子どもの頃は肥しを担いで畑仕事を手伝ったり、在所の真ん中を流れる二宮川で泳いで遊んでいたよ。そこへ、自転車に乗ってチリィン、チリィンとアイスキャンディー売りが来ていたね。普段はおとなしい川だけど大雨になると暴れ川になるんだよ。昨年も一昨年も避難勧告が出てサンビームへ避難したよ。そんな川だけど在所の大事な川でね、クリーン運動や道路愛護デーなどを設けて草刈りや空缶拾い、土嚢を詰めたり、コスモスを植えたり、今年は桜の苗を植える計画でいるんだよ。

在所の自慢

ここは隣の高田町と一緒に祭りをするし、公民館も隣の新屋町と共同運営なんだよ。小さい在所を運営する先人の知恵だと思うよ。三十年前は十八軒の在所だったんだが、学校、駅、スーパーが近く交通の便も良い事から宅地開発が進み若い世代が住んでくれてね、この世代が呼びかけるとすぐ集まってくれて、祭りや行事をどうする、どうすると積極的に参加してくれるんだよ。おかげで団結力のある在所になったし、安心して次の世代へ繋げられるよ。ありがたいね。

あさみのひとこと

在所を歩くと福浦婦人会売店の看板が、3人のお母さんと雑貨と食料品、郷愁を感じるお店でした。


第73回 七尾市三室町

崎山半島の七尾南湾に面した位置にあり、液化ガスターミナルとLPガス国家備蓄基地のある151世帯、413名が暮らす在所です。

三室町会長 山崎 秀行(やまざき ひでゆき)さん



在所-七尾市三室町-在所名の由来


在所では「御室」が「三室」に変化したと聞き伝わっていたんだが、平成7年に石川県立図書館史料編纂室が古文書から三室判官という鎌倉時代の御家人がこの地にいたことを発見してね、それで在所名がこの御家人の名前から三室となったということが分かったんだ。
それ以前の平安時代は長浜と呼ばれていたことも古文書に出てくるよ。三室の海岸は2キロもあるからね。



昔と今


昔は半農半漁の在所でね。なまこや魚を地引網で曳き、えご草といって寒天の材料の海草を採ったりしていたよ。子供達は学校帰りキンコを作るのに道端に干してあるなまこをつまんで食べていたよ。そのころは向かいの能登島の二穴の田んぼも耕していてね、丸木舟を二艘並べて縛って、牛を乗せ櫓と櫂で漕いで渡っていたよ。
太田火力前の赤碕の山が急峻な山で昭和28年に道路が出来バスが通るまでは陸の孤島だったよ。七尾へは船か山道を歩くしかなく、バスが通ってから勤めに出るようになったんだね。
LPガスの備蓄基地のある場所がトクサ地区でね、昭和48年に北電がトクサ地区に火力発電所建設の計画を発表したんだ。それからというもの賛成、反対で在所が二分して辛い時期があったけど、今は円満に暮らしているよ。



在所の自慢


平成14年から自主防災組織を立ち上げて防災設備の充実や訓練など様々な施作を取り入れ全員参加で積極的に取組んでいるよ。おかげでエネルギー基地の町としての誇りと心構えが町中に行き渡っていることかな。年寄りが増えている分、日々穏やかで安全に暮らしていける在所をこれからも目指したいね。



あさみのひとこと


在所を歩くと福浦婦人会売店の看板が、3人のお母さんと雑貨と食料品、郷愁を感じるお店でした。


第72回 中島町熊野

254中島町熊野 在所名の由来


昔この地区の岡、岩崎、下の三つの集落を合わせて山谷(やまんたん)と呼んでいたんだけど、明治二十二年の町村制実施に伴い、この地区の熊野神社の名前から在所名を熊野とつけたらしいよ。今でも山谷(やまんたん)と呼んでいる年寄りも多いんだよ。一村一字の名残で住所は字熊野ではなく中島町字中島なんだけどね。



昔と今


ここは中島商店街の外れに位置した里山で農業が中心だったね。特に岡地区では中島菜の栽培が盛んでね、ここの土壌が一番適していて美味しいということで、日航の国際便の機内食のお漬物に使われていたこともあったよ。昭和三十二年町営住宅一号、昭和四十三年中島初の企業誘致もこの在所だったし、役場庁舎や能登演劇堂も出来て、何かと動きのある在所だよ。ただ少子高齢化の波はどうしようもないね。子どもが少なくなっていくことは寂しいよ。そんな中、中島中学校が旧役場に引っ越す予定なので、在所の中に子どもの元気な声が聞こえる事は活気があって嬉しい事だよ。現在は老人会から引継いで国道の清掃や花壇の草刈など年に三回実施しているけど、自分たちの住む地域は行政と連携の上、出来る事は自分達でという考えが必要な時代じゃないかなぁ。今、「熊野いきいき事業」として環境美化、防災対策、高齢福祉を掲げて取組んでいるよ。



在所の自慢


在所世帯の三分の一が移転して来た人たちだけど、子ども達がすぐ仲良くなって、昔からの人と新しい人との融和が進んでいくんだね。在所の中が和気藹々やっていっていることがなにより嬉しいね。在所も子はかすがいということだよ。


第71回 中能登町 武部

253中能登町 武部

在所名の由来


在所の建部(たけべ)神社の祭神が倭健命(やまとたけるのみこと)をお祀りしてあってね、いつの頃からか合祀神社となって今では倭健命ほか六神を祀っているんだよ。昔、多茂城という城があって、城主の祈願所でもあったというから、重要な神社だったんだね。それで在所名も神社の名前を頂いて武部となったと伝わっているよ。



昔と今


昭和三十年代は養蚕が盛んでね、桑畑の中を通って小学校へ行ったよ。口を紫色にしてね(笑)その後、織物が盛んになって、機場の音の中に在所があるようだったよ。三十軒くらいあったと思うよ。その頃は商店も道路沿いに十七軒あってそれなりに活気があったね。近年はこれという産業はなく、農家と近隣に勤めてる人が多いよ。田んぼが多いけど、水が通らない在所なんだよ。山からの水は隣在所の二宮川と石塚川に流れ込んでいてね。ため池も五つあるけど、それでも平成六年の大干ばつの時は赤浦潟や邑知潟からミキサー車で水を運んだけど田んぼは真っ赤になってしまったよ。そんな事があったんで灌漑用の井戸を掘ったんだよ。そんな経験があるので、農地は基盤整備しておきたいね。米価が下がっても農地がしっかりしていれば打ち手はあると思うよ。



在所の自慢


子ども会、青壮年会、女性会、長寿会、どれも公民館事業として連携するから横の繋がりが親密なんだよ。六月の防災訓練も百四十名の参加があって嬉しかったね。次は八月一日の鹿島小学校開校記念の祝賀パレード、翌二日の町祭の前夜祭に中高生から三十五歳までの武部獅子舞保存会三十五名が参加するけど、この子らが在所の宝物だと思っているんだよ。よかったら見に来て下さいね。


第70回 七尾市 湊町(二丁目西部)

252七尾市 湊町(二丁目西部)

在所名の由来


湊町は一丁目、二丁目の東部、西部と三つの町会に分かれているんだけど、町名の由来は、ずばり七尾の港の中心だったからだと思うよ。明治時代に七尾県から石川県に移ったときに湊町一丁目、二丁目となっていて、戦時中に二丁目が東部と西部に分かれたようなんだ。



昔と今


昔は桟橋があって、回船問屋も数件あって賑やかだったと聞いているよ。私が子どもの頃、崎山方面へ向かう焼玉エンジンのバスの始発が湊町でね、クランクを回してエンジンをかけていた光景を覚えているよ。昔は八十世帯あり、小学生も二十人以上いたけど、今は高齢化率四十三%で小学生も三人だよ。二〇四〇年問題で人口が減って、町会運営も益々難しくなることを思うと、今はまだ良いと思わないとならないね。ここは海抜が低いので満潮時に大雨が降れば水が海に流れないので水浸しになって苦労しているよ。市は地域で出来る事は地域でということで、支え合いマップを作成して町会で支え合う体制を作っているけど、老人同士で助け合う時代になっているね。まずは向い三軒両隣仲良く支え合うことからだよ。



在所の自慢


何と言っても祇園祭りだよ。京都八坂神社の流れを汲んでいて東の奉燈祭りとも呼ばれ十一町会が参加する夏祭りだよ。昭和三十六年に二間半の奉燈を作ったけど、翌年にはそれを売って更に大きいものを作ったんだよ。若い衆に勢いがあったね。食祭市場に置いてあるのがその奉燈だよ。平成三年に現在の高さ四間、朱色の奉燈を作って、ユッサ、ユッサと揺れる姿に町民は誇りを感じて毎年楽しみにしているよ。


第69回 中能登町 廿九日(ひずめ)

251 中能登町 廿九日(ひずめ)

在所名の由来


珍しい地名でね、町史にも諸説あるけど、ここは新庄、在江、川田という在所に挟まれていて、江戸時代初期に出来た在所なんだ。隣の在所は平安から鎌倉にかけて荘園として開墾されているから、ここは開墾に適さない外れの土地だったんだね。それでも江戸時代になって人が住むようになり、田を開墾していくんだが、田に水を引くのもままならず、小川から桶で水を汲んで田に入れたと伝わっているよ。そんな田んぼだから収穫量も少なく年貢に四苦八苦し、毎年暮れの二十九日にやっと納めていたんやと。それでこの在所をにじゅうくにちの廿九日(ひずめ)というようになったという説に、頷いているんだよ。



昔と今


多くの人は農業しながら七尾方面へ勤めていたよ。機場も五軒あったけど今は建物だけ残っているよ。だんだん世帯も減っていき四十世帯を割った時、祭りも出来なくなってね、
一旦中止した時期もあったんだよ。それが二十年前に在所の神明の山を開いて宅地が開発され、近隣の在所から若い人が移り住むようになり世帯も倍近くに増え、今では小中学生で三十人程いるんだよ。それで平成十八年に祭を復活することが出来たんだけど、これはとても大事なことだと思うよ。昔は在所の人みんなが子どもの顔や名前がわかっていたけど、近年は同じ在所でもお互い顔を知らないってこともあるからね。七尾の駅前で廿九日の年寄りと子どもがお互い知らん顔じゃ寂しい話だよ。声をかけたり、挨拶できて同じ在所に暮らしてる意味があると思うね。そういう絆が出来るのが在所の祭りじゃないかと思うんだよ。



在所の自慢


若い人には、在所のしきたりも知ってもらいながら、若い人の考えや力も十分に発揮してもらい、まとまっていかないとね。後発の在所で先祖は苦労の中、力を合わせてきたんだし、今また神明の山を開き、来たりし仲間と共に力を合わせ後世に繋いでいく、それが廿九日の歴史なんだよ。


第68回 能登島曲町

250能登島曲町

在所名の由来


山と海に挟まれ、海辺に集落が、山へ向って田畑が続き、在所の中を通る道は、海岸に沿って大きく曲がっているから、まぁ、地形の通り、曲と呼んだんじゃないかと思うよ。



昔と今


水の出が悪い所でね、昔は山からの表流水を井戸にためたり、深井戸を掘ったりして、在所の中は井戸がたくさんあったね。そんな時代はお風呂も毎日沸かさないし、お互い近所で貰い湯していたよ。風呂を沸かすのは「ばぎ」を焚いてね、「ばぎ」とは薪のことだよ。山にその「ばぎ」を積んで、「すんば」(杉の葉)をかぶせてあるんだけど、それを取り出して背中にかついで山から下ろすんだけど、辛かった思い出があるよ。なにしろ小学生だったからね。一時期、葉タバコの栽培が盛んで在所中で取組んだよ。きつい仕事だけど、
一年に一回収穫し、現金収入を得られ良かったんだけど、時代と共に採算がとれなくなり一斉にやめてしまったんだよ。今は七割が高齢者でね、お互い助け合って生活しているよ。青年団も「何でもしますよ」と案内を出してね、雪どけなどお年寄りで出来ないことを手助けしてくれるんだ。そして秋祭りは老いも若きもみんなで楽しむけど、特に「こっぺ」はこの在所特有でないかと思うよ。それと中島の熊甲祭りと同じ枠旗が三本あるけど、太鼓のリズムは違うみたいだね。今は人足不足で出していないけどね。



在所の自慢


封建制の強い所でね、先祖からの土地を守って生きているんだ。発展性が少ない分、結束力が強くてね、魚や野菜など、貰い、貰われ身近な支え合いをしながらだけど、そんな所が素敵だと思うね。上を見ればキリがないけど、足るを知れば本当に生活のしやすい在所だよ。


第67回 中能登町 小金森

249中能登町 小金森

在所名の由来


町史や伝記によるといくつかの説があるんだけど、昔、宝達山で金がとれていた時代があってね、その金が山づたいに流れて来たのか、在所を流れる地獄谷川の源流付近を「小金谷」(こがたん)と呼んでいるんだ。 その周辺にも金が取れたことから「小金森」が在所の名前になっていったんじゃないかなぁ。



昔と今


今も昔も職人の多い在所でね、昔から農業を営み、手に職を持って生活してきたんだろうね。 おかげで所帯の小さい在所だが、何をするにも手際よく何でもやれてしまい助かるよ。
不思議と世帯数が昔から変わっていなくてね、外に出た長男の多くは在所に戻ってきてくれているから、おかげで小学生だけでも十人以上いるよ。在所では年にひとつは環境整備事業をということでやってるけど、今年は集会所に「のとキリシマ」を
十二本植えたよ。



在所の自慢


碁石太鼓は中能登町で有名な天平太鼓から昭和四十五年に派生し、小金森の若衆だけで取り仕切っているよ。 毎年元旦の午前零時から宮様で奉納太鼓を打ち、その後、夜明けと共に碁石ヶ峰に移動しご来光に合わせて太鼓を打つんだよ。 在所の宮様も歴史があってね、「木賀(こが)神社」と言って木の神様を祀っているんだ。
境内には大きな銀杏の木と欅の木が二本並んで立っていてね、おいで祭りの三月二十一日に宮司が銀杏の木をめがけて矢を射るんだよ。 これは昔、大国の神様が邑知潟を平定して巡幸された折、神様の子どもがいつまでも付いて来るので地獄谷川の小金森橋の橋元に向って矢を射って帰らせたとの言い伝えを残しているんだね。


第66回 七尾市 米町

248七尾市 米町

 

在所名の由来


昔は米町の路地から海が見えていたくらい、海に近い町だったんだよ。前田利家の城下、七尾港に入る船から降ろした米を扱う米問屋がこの町にあったんだね。城下町で米問屋があったことから、米町となったんだろうね。
発音は「こんまち」と呼んでいるが、理由はなぜだかわからないんだよ。志賀町に流れる「米町川」も「こんまちかわ」と呼ばれているようだしね。「こめまち」が訛って「こんまち」になったのかもしれないね。



昔と今


回船問屋もあって賑わいのある町だったと聞いているよ。戦後はその回船問屋の敷地に進駐軍が駐留していたのをよく覚えているよ。ここは市街地なので住宅街の中にもいろんなお店が点在していたね。
私の母も髪結いでね、日本髪の美容室をやっていたよ。最近は若い人が少なくて、高齢化率が高く町会運営も難しくなってきているよ。



在所の取組


世の中、便利になった分だけ、いっしょに何かしようという事は少しずつ少なくなっているけど、ここは「ちょんこ山」で町内の絆が保たれているよ。デカ山の前座で子どもが引く山車で「ちょんこ山」と思っている人もいるけど、歴史的には別物なんだよ。この祭りは気多本宮の春祭りでね、元々古くからある祭りがあって、そこに山車を引くようになったのは、江戸時代初期だと古文書から推測されているよ。
当初は米町と木町の二台だけだったけど、現在は生駒、阿良、一本杉、亀山の各町会が加わり六台で市街地を曳いて回るんだ。全ての山車には梅鉢紋が使われていてね、前田家から認められていたんだろうね。米町の山車は由緒があるので老いも若きも祭りには責任感をもって取組んでいるよ。歴史ある「ちょんこ山」を守る使命が在所の絆を保っているんだね。米町の山車の人形は大国主命(大黒様)なんだけど、その恩恵につくづく感謝していますよ。(笑)


第64回 中能登町 新庄

246中能登町 新庄

在所名の由来

この辺りは、平安から鎌倉にかけて荘園として開墾されているんだよ。 その荘園の拠点がここでね。 荘園は庄園とも書いて、それで新しく出来た庄園、新しい庄、新庄となったと言われているよ。

在所の今昔

元来、農業で生計を立てていたけど、 昭和30年代から俗に言う「八台機場」の織物業も盛んになって30軒程あったけど、オイルショック以降、みんな辞めちゃってね…。 新庄は昔から防災意識の高い在所でね。 両脇を流れる二本の川は、耕作には大事な川なんだけど、洪水の被害も大きくなってしまうんだよ。 特に石塚川は天井川で川底が田んぼより高くて、子供のころは雨が降って水位が上がると、太鼓を鳴らして警戒していたよ。 今は河川改修が進んで石塚川の一部を道路に変える工事中だよ。 それと防火対策も昔から徹底していてね、農業用ため池を利用していざと言う時にその水が在所中に張り巡らせた防火用水路に流れるようにしてあってね、更に在所の真ん中には昔からの半鐘が今も設置してあるよ。 そんな伝統があるので、自衛消防団も組織されていて消火栓の点検や夜間パトロールなど実施しているけど、お金をかけずに、身の回りの細かな事をしっかり取組むことが大事やね。

在所の自慢

曳山が豪華絢爛でね。本来は氏社に慶事があった時、お祝いに曳いていたけど、近年は鳥屋の曳山として町祭に勢揃いし、雄姿が復活して喜ばしいよ。 それと信仰が厚い在所で太子講、同士講、若い衆恩講、地蔵祭りなど伝統があって、仏事や祭りを軸に在所がまとまっているのは本当にありがたい事だよ。 在所の神社には歴史をずっと見続けてきた樹齢約八百年の大杉が二本あってね、この大杉に恥ずかしくないように在所をしっかり守り続けなければ…と願っているよ。


第65回 七尾市 巴町

247七尾市 巴町

在所名の由来


水が渦巻く家紋の紋様が巴でね、この在所は、 昭和26年に本府中町から分町した町なんだけど、駅の近くで、戦後の復興に合わせて住宅、商店が密集していった時期と重なり、火災から町を守るという願いを込めて名づけられたと聞いとるよ。



巴町の歴史


ここは住所も地番も本府中町なんだけど、七尾駅の近くなので、戦後の復興期に公共施設や商店が出来てきて当時の新興居住区として整備されていったんだね。 そんな経緯の中で分町に至ったんだと思うよ。
当時は、鉄道診療所や逓信診療所、税務署、それに牛乳工場もあったし、いろんな商店も並んでいて賑わいがあったけど、時代と共にマンションやアパートに移り変わったよ。
面積が小さい町なんだけど、人口密度は七尾一かもしれんね。



在所の取組


新しい町なので住人が心を合わせていくものが必要だと言うことで、初代の町会長が屋形船の山車を作ってね、八月に子ども達を乗せて鉦太鼓を鳴らして町内を練り歩くんだよ。
64年経った今もこの在所は新興住宅地としての特性が進行形でね。
毎年新しい人が出入りするんだけど、子ども達を通して繋がりが出来ていくんだね。
やっぱり、人が住むところには集まる場所が必要だということで、三年前に仮設だけど集会所を建て、それに合わせて巴元気クラブも結成して、毎月一回集まって親睦を深めているけど、お世話する人、される人、こうやって絆が深まっていくんだね。



在所の自慢


矢田郷の運動会では上府中町と山王町と組んで山王森のチームとして出場するけど優勝の常連チームだよ。これは若い人が多いということなんだよ。
新しい町だけに、自分達で町の歴史を刻んでいかなければならない使命があるけど、将来を託していける若い人材が多いことが自慢かな。


第64回 中能登町 新庄

246中能登町 新庄

在所名の由来

この辺りは、平安から鎌倉にかけて荘園として開墾されているんだよ。 その荘園の拠点がここでね。 荘園は庄園とも書いて、それで新しく出来た庄園、新しい庄、新庄となったと言われているよ。

在所の今昔

元来、農業で生計を立てていたけど、 昭和30年代から俗に言う「八台機場」の織物業も盛んになって30軒程あったけど、オイルショック以降、みんな辞めちゃってね…。 新庄は昔から防災意識の高い在所でね。 両脇を流れる二本の川は、耕作には大事な川なんだけど、洪水の被害も大きくなってしまうんだよ。 特に石塚川は天井川で川底が田んぼより高くて、子供のころは雨が降って水位が上がると、太鼓を鳴らして警戒していたよ。 今は河川改修が進んで石塚川の一部を道路に変える工事中だよ。 それと防火対策も昔から徹底していてね、農業用ため池を利用していざと言う時にその水が在所中に張り巡らせた防火用水路に流れるようにしてあってね、更に在所の真ん中には昔からの半鐘が今も設置してあるよ。 そんな伝統があるので、自衛消防団も組織されていて消火栓の点検や夜間パトロールなど実施しているけど、お金をかけずに、身の回りの細かな事をしっかり取組むことが大事やね。

在所の自慢

曳山が豪華絢爛でね。本来は氏社に慶事があった時、お祝いに曳いていたけど、近年は鳥屋の曳山として町祭に勢揃いし、雄姿が復活して喜ばしいよ。 それと信仰が厚い在所で太子講、同士講、若い衆恩講、地蔵祭りなど伝統があって、仏事や祭りを軸に在所がまとまっているのは本当にありがたい事だよ。 在所の神社には歴史をずっと見続けてきた樹齢約八百年の大杉が二本あってね、この大杉に恥ずかしくないように在所をしっかり守り続けなければ…と願っているよ。


第63回 七尾市桧物町

245七尾市桧物町

在所名の由来

この町は前田利家が城下町を築いたときに、19人の曲げ物職人を住まわせて、桧(ひのき)の材料で、弁当箱や菓子箱、桶、柄杓など、当時の日用品を作らせていたんだよ。 城下の町名は職業に由来することが多いからね。

昔の桧物町

私が子供の頃は、まだ曲げ物屋さんが何件も営んでいたよ。 そのころは日用品から葬祭品になっていてね。 昔、葬儀は在所全体でお世話をしていたもので、どこそこの在所はどこの曲げ物屋というふうに繋がりがあってね。 近郷の在所の人がよく出入りしていたよ。 それと、中の棚(なかんたな)という 一角があって、ここには呉服屋が多く並んでいたんだよ。 呉服の反物は貴重なもので、七尾港から入ってくる反物を保管する蔵を港の近くに建てる必然性があったんだろうね。 御祓川沿いには白壁の蔵が何棟も建っていたよ。 そんななごりで、七尾市も「しるべ蔵」という街づくりの拠点をここに作ったんだね。 それと御祓川を挟んで御祓校下と東部校下に分かれるんだけど、生徒数のバランスをとるため、桧物町と大手町、神明町の子供は御祓校下に通うことになったという歴史もあるよ。

これから

ご商売の家方が多いので、御祓川を中心に市街地活性化の視点で取組んでいてね。 「みそぎ川大通りを花と緑で彩り隊」を結成してプランターの設置をして、皆で水をまいたりお世話しているんだよ。 それと桧物町は、今年100周年の 「のと信本店」のお膝元なので何かとご協力いただいていて大変感謝しています。 小さい所帯なのでみんな仲が良く、助け合い、それでもってプライバシーを侵害することもなく、程よい距離感で付き合いをしている、なんとも心地よい在所だよ。 それがなによりだね。


第62回 七尾市黒崎町

244 七尾市黒崎町

在所名の由来

ここは灘浦海岸で緩やかに海に出た岬でね、岬の海岸に昔は大きな黒い岩が林立していてね、遠から見ると、岬が黒く見えたそうで、黒い岬、黒崎になったと伝わっているよ。

昔の黒崎

昔の集落は熊淵川の河口付近だったけ、度重なる氾濫で八百年前に先祖は移住を決め、海の東浜へ、山の熊淵へ、そして現在の集落の中心になっている高台へとそれぞれに移住したんだよ。 高台へ移った八人が「黒崎の八人衆」と、古文書に出てくるよ。 八百年前に、一区画六百坪の土地を八区画も団地造成したというからご先祖様には頭が上がらないよ(笑) 昭和初期まで黒崎の在所が勧進元となり加越能三州の相撲大会が毎年行われていたというくらい豊かな在所でね。 それは産業があったからなんだね。 一つは富山の業者に海岸の大きい黒い岩を削らせ権利収入を得ていたこと。 それと富山の川が氾濫するので竹の蛇籠を作り、大きな船で出荷していたんだよ。 また、黒崎の山にだけ火打石の地層があるんだけど、その下がマンガンでね、大正時代に採掘していたんだよ。 瓦の塗料や火薬の原材料に使ったらしいよ。 採掘の立て穴を「ゴス穴」と言ってまだ残っているよ。 また、七尾城に通じる「殿様道」があるので、仲間と調査してみたんだが、原型があるところは一部でね。それでも川の平場の謎の三角印や、山の平場の謎の穴など想像をかきたてられるよ。

これから

在所と一緒に避難訓練をしてきた有磯小学校が今年併合される見通しだし、過疎化が進む一方だけど、昔からの資源を蘇らせていくことが地域再生の要だと思うよ。畠山文化は一流であり、前田様は中納言で、畠山様は大納言なんだから、七尾はもっと畠山や城山に目を向けないとね。


第61回 七尾市八幡町

243七尾市八幡町

在所名の由来

在所の神社がかなり由緒のある八幡神社でね、能登の八幡神社の惣社として建立されたそうだよ。 畠山氏も神社を守るために田を寄進されているし、焼失などの変遷がありながら、現在の場所に移り、江戸中期に改築された記録があるよ。 そんな八幡神社のある在所だから「八幡」となったんだね。

昔と今

明治から昭和初期まで「八幡むしろ」が有名なんだよ。 記録によると、八幡の七之助、恒右衛門の二人が、近郷の在所に働きかけ、北海道の海産物を包装するための「むしろ」を作り始めたんだよ。 明治41年に鹿島郡莚商組合を発足させて、原料の藁は奥能登から買い集めるほど大量生産してね、農村最大の副業となっていたらしいよ。 今は特別の産業はないんだが、家の数が増え続けてね、40年前の2倍なんだよ。 小学生も46人いて、 獅子舞も小学生だけで踊るよ。 新しく住む人には、在所の行事や祭りに参加してもらうので、すぐ顔なじみになってね、八幡に住んで良かった、八幡が好きだと言ってもらえるのが一番嬉しいことだよ。

在所の自慢

神社も古いが、その絵馬も古くてね、昨年テレビ取材していったよ。 能登半島沖地震で拝殿の復旧の際、絵馬の後ろに色々書かれていたので専門家に見てもらったら、加賀藩内が日照り続きのとき、雨乞いをした絵馬でないかということで、県内でも最も古い部類の絵馬だそうだよ。 在所のいろんな伝統を新しい人たちと融和してしっかりと受け継いでいけるのも自慢の一つだと思っているよ。


第60回 七尾市杉森町

242七尾市杉森町

在所名の由来

在所の山は昔から杉山で、今も大きな杉林が多くある所を見ると、杉の森の在所だったんだね。

昔と今

昔は竹籠の産地でね、近年まで職人がいたんだよ。 今は高齢化でね、技術は伝承されているんだが、趣味で作っている人が若干いるくらいだよ。 この地の豪族、長 連龍が名産の浜豆腐・くも蛸・白浜のみかんを金沢に送るための製造を命じたことが起こりらしいよ。 昭和58年、 石川県で開催の全国植樹祭では、天皇陛下お手植えの杉苗を入れる籠を奉納した名人が在所にいたんだよ。 昔、二宮川は暴れ川で、洪水被害が多くてね、それで川を改修したんだね。 昔の川は県道になって、今の川は山を削って作ったんだよ。 昔の川には鮭が遡上していて、ヤスで突いてみんなで酒盛りしていたと聞いてるよ。 子どもの頃は、なまず・八目うなぎも獲れてね、その川で泳いでいたよ。 最近は高田町会と 一緒に二宮川を美しくする会を結成して環境保全に力を入れているけど、正直なもので、川を大事にしたら数年前から鮭が遡上してきたよ。 不思議と言うか、正直と言うか、考えさせられるね。

今後

町民の要望も聞きながら、時代に合わせて一つずつ改善していくことを心がけたいと思うし、改めて実感するんだけど、在所の歴史や文化、伝統をしっかりと理解して次の世代に引き継がないといけないと思うようになったよ。 杉森の火宮神社は室町時代からのものと思われ、由緒格式があるんだが、祭りなど形式的に行われていることの歴史的背景なども古老から教えてもらい繋いでいかなくてはならないね。 多くの先祖が、その時代を必死に生き抜いてきた歴史を背負って、今私たちが生かされているからね。

 


第59回 七尾市直津町

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在所名の由来

古文書に多々津と出てくるよ。 昔は赤浦潟がもっと奥まで、指のように何本も入り込んでいて、多くの入り江で、多々津というのは頷けるね。その入り江は山を崩して埋め立てられ、今は田んぼだよ。 「多々津」がなんで「直津」になったのかと言うとね、この在所の先祖は上杉謙信の七人の家来でね、三方が山の、この地で土着の百姓となって、隠れ里として住んだと伝わっているよ。 38世帯あるけど同じ姓が多く、越後に関係する苗字が多いよ。 屋号も「越後どん」だったり、仏壇の掛け軸の裏に上杉謙信の名が書かれていたりするよ。 そんな在所だから越後の直江津の江をとって、直津と読んだんかもしれんね。

昔と今

昔から仏壇屋・石屋・桶屋・大工・左官など職人が多いのが特徴だね。どの家にも牛小屋があり、田んぼや山仕事の傍ら、家ではむしろをつくっていてね、子供が藁打ちの手伝いをしたものだよ。 買い物に七尾や田鶴浜に出るにも山道を1時間歩いたよ。 初めて訪れる人はこんな山奥に本当に家があるのか? と思ったと言うよ。 今は本当に交通の便が良くなって、直津インターを上がれば全国の高速道路に直通だよ。 気にかかることもあってね、毎月空缶拾いをしてるけどキリがないよ。 皆さん交通安全と運転マナーを守って下さいね。

在所の取組

お宮の御神体はいわれのある大きな石でね。年7回のお宮行事を中心に結束して、道路愛護や川堀、20年前に植えた桜並木の草刈など町民総出でやっているよ。和倉温泉にも近いし、自然豊かで田園も広がる直津に、都会でリタイアした人が第二の人生を過ごせるような在所を思い描いているんだけどね。