こみみかわら版バックナンバー

第181回 能登島佐波


町名の由来

ハッキリした由来は伝わっていないんだ。
ここは山が海岸まで迫って集落が海岸沿いにある在所だけど、
その裏山に笹がいっぱい生えていたことから沖を通る舟や漁師がそれを
目当てにして岸に舟を寄せていたので、笹山に寄せる波がいつしか笹波となり
佐波と呼ばれていったのではないかという年寄もいたけどね。
実際、佐波神社の裏山には笹がいっぱい生えていたよ。

昔の在所

佐波遺跡があるけど、これは六千年も前の遺跡で七尾市内では
最も古い縄文時代早期の集落跡なんだ。
そんな貴重なものとは知らず子供の頃は土器など掘り出しては遊んでいたよ。
明治三十一年から裏山で乾電池を作るマンガンが採掘されていたんだ。
在所の人たちも従事してたけど、ばあちゃんが草鞋(わらじ)の時代に
地下足袋(じかたび)が支給されてとても嬉しかったと話していたよ。
今でも山はマンガンを掘った穴だらけなんだ。

昭和四十一年に七尾の波止場からフェリーが一日五往復就航して
佐波が能登島の玄関口になったんだ。
忘れてならないのが昭和二十年八月二十八日。
勤労動員の能登島や鵜浦の人たちが家へ帰るのに乗った第二能登丸が矢田新埠頭から
佐波の久美に寄って次に向う途中の寺島付近で機雷に触れて爆破したんだ。
米軍が終戦の年に七尾湾に四百個以上の機雷を投下していたんだ。
ドドーンと大きな水柱が上がったと言うよ。佐波の人が舟を出し救助し、
おかゆを炊き出し救援したけど二十八名が犠牲になって浄覚寺前の浜に莚(むしろ)を
敷いて並べられたという悲しい出来事があったんだよ。

現在の在所

寺島、カラス島、嫁島、コシキ島が海に浮かび、「ひょっこり温泉」や
「マリンパーク海族公園」もあり、民宿も三軒あって訪れる人も多いよ。
山を開墾した「のとじまファーム」ではブルーベーリーや野菜を栽培し、佐波漁港から
数人だけど船を出して漁をしているし、近年は数人の移住者が暮らし始めているし、
昔ながらの半農半漁の暮らしが出来る良い所だと思っているんだ。

高齢化が進み現状を守っていくしかないので、神仏に手を合わせ
みんな仲良く暮して行きたいと思っているんだよ。

まみの一言

数々の歴史に人の営みを感じる、
風光明媚な佐波の在所。


第180回 中島町浜田


町名の由来

熊木川河口付近に広がる浜辺を開拓して田んぼにしたことから浜田と
呼ぶようになったと言われているんだ。
鎌倉時代親鸞さんが教行信証をしたためた頃と同時期の古文書に熊木荘の浜田里という
地名が出てくるので、この辺りのことではないかと推定されているんだよ。 

昔の在所

江戸時代後半には稼ぎとして縄やわらじなどが記録されているけど、
わら草履(ぞうり)の産地として古くから「浜田草履」として名を残していたそうだよ。
昭和の初めまでは鉄道が無く、浜田の天神橋下から定期船が出て七尾と結んでいたんだ。
昭和三年に能登中島駅が開設し国道二四九号線も通ったら戦後どんどん人が集まって、
中島町の四十五町会の中で一番大きな在所になっているんだよ。

つの時代かわからんけど二月二十日に浜田に大火があったらしくて、
二度と火を出さないようにと毎年その日には火祭りをやっているんだ。
七月の納涼祭も、かつては熊木川に灯籠を流し、舟を出して奉燈や鉦太鼓を乗せて
川下りをして盛大だったけど、今は残念ながら行われていないんだよ。

現在の在所

ここは牡蠣の養殖業者も多くシーズン中は町内外からカキ貝を食べに
数千人が訪れて賑わっているんだよ。
大雨になると熊木川がよく氾濫するので拡幅工事が行なわれるんだけど、
天神地区の登録有形文化財の室木邸をはじめ十戸ほどが移転しなければならないんだ。
転出を予定する家もあり人口減も心配だけど、一方で十五年前に出来た新興団地の
「向陽タウンはまだ」には在所外から移り住む若い人らも多く、今では壮年団の
主流メンバーとなって祭りや社会体育大会などの行事に頑張ってもらっているんだよ。

熊甲祭りの大旗は町で一番大きく、祭りをしっかりやらなければという自負があるけど、
在所の半分が六十五歳以上と高齢化が進んで運行が難しくなってね。
ひょっとしたら今年の祭りであの大旗が見納めになるかもしれないから
九月二十日にはぜひ見に来て下さいね。
在所が広いので新旧住民の付き合いが疎かにならない為にも祭りは大事な交流の場なんだよ。

まみの一言

見栄も張らず、媚びもせず、
大きな大旗、大らかな在所。


第179回 田鶴浜舟尾


町名の由来

約四百五十年前、織田信長時代の古文書に舟尾という名が出てきているそうだよ。
舟尾水門の辺りを白門場(しろもんば)と呼んでいるけど、昔はこの辺りはまだ海で、
そこに船着場があったそうなんだ。
長右衛門船、弥三右衛門船という二隻の百石船がつながれ、越中と交易していたという記録も
あるので、在所では船着場があったから舟尾になったのではないかと言っているよ。

昔の在所

約百七十年前に肝煎りの佐近四郎を中心に二ノ宮川から灌漑用水を引くため山を貫通するマンポを
造っているんだ。マンポは七十メートルで大小二本あって大きいほうは直径四メートルもあるんだよ。
それで舟尾川が造られて四十四ヘクタールの新田を開発しているんだね。

大正時代から牡蠣貝の養殖も始め生産地として栄えていたようで、多い時で十五軒、
昭和五十七年には九軒あって牡蠣剥きする共同作業場を建ててやっていたけど、
今は担い手がなく一軒もなくなってしまったよ。

それと明治時代は和倉、奥原、舟尾、新屋、川尻、垣吉の在所が集まった
端村(はしむら)だったんだ。その中心地が舟尾で小学校や役場があったんだけど、
昭和十二年に分けられそれぞれ七尾と田鶴浜に合併されたんだね。

現在の在所

ご多分にもれず少子高齢化は否めず、祭りの存続が危ぶまれてきたので、昨年から祭り保存会を
立ち上げて区民みんなで参加して盛り上げていこうということになったんだ。
それと自治公民館行事として三世代ふれあい祭りを開催しているよ。
納涼祭では盆踊りとカラオケやゲーム、飲んで食べてみんなが楽しみ、秋にはグランドゴルフ大会を
やって高齢者が楽しみ、十二月には臼と杵でもちつき大会をやって子供達が楽しんでいるんだ。

平成十三年に田んぼの土地改良した時にグランドゴルフ専用の広場、鶴の里公園を
造ってもらったけど、三十二ホールもある立派なゴルフ場で毎年大きな大会も行なって
近隣からも多くの人が集まるんだ。一昨年から大晦日に神社に初詣にくる人たちに
年越そばを振舞っているんだよ。付き合いが希薄にならないようにあの手この手で
在所の中のコミュニケーションを深めていかないとね。

マミのひと言

大きなマンポで新田開発、
今も力を合わせ志を引き継ぐ在所。


第178回 七尾市国下町


在所名の由来

能登国の国衙(こくが)が置かれたことが由来だとする説があるけど、
そのことが書かれた文献がないので事実かどうか分からないんだよ。

国衙とは日本の律令制において地方を治めるために置いた役所のことなんだ。
近くには国分寺や古府など能登国の中心地があったから、なんらかその一角の役割が
あったかも知れないし、役人が住んでいる場所を国衙と言うこともあったらしいいから、
そこに勤める役人が住んでいたのかもしれんね。
そういえば加賀藩の古い地図には国ケと記されていたよ。

昔の在所

六七三年、延宝三年の江戸時代、この辺りに松が植えられたと記録があるんだ。
これは天領となった下と八幡に接する加賀藩領徳田の各在所との境に双方の在所が
立ち会って百姓が納得の上、境に松の木を植えたんだ。その数二三五本だと書いてあるけど、
徳田地区ではその内の一本を名残の松として八幡交差点の近くにて植えて伝えているんだ。
それで八幡の交差点の地下道が一本松と名付けられたんだね。

多くは百姓をして暮らしていたけど大工も二人いたから在所の古い家は二パターンあって、
二人の大工が建てた家はそれぞれに部屋の間取りが全部同じなんだよ。

現在の在所

平成四年に国下の集会所、さんご会館を建てたんだ。
さんごの由来は当時在所の世帯が三十五軒だったことと、徳田小学校のシンボルで校歌に歌われる
珊瑚樹から名付けたんだよ。

さんご会館では総会をやって、若御講には八田の乗龍寺さんと千野の正福寺さんに
交替で来てもらい、百歳体操は毎週行なっているんだ。それと平成2年に結成したH2の会の
お母さんたちが集まってかぶら寿司や蓬莱を作ったりしているし、お盆の納涼祭には里帰りした
人たちも子供を連れて集るからこの時ばかりは活気があり嬉しいよ。

どちらかというとおとなしい町だけど、その分意見がまとまりやすくみんなで
協力し合っているんだ。平均年齢も六十八歳ともう限界集落やね。
獅子舞も私が中学の時に踊ったのが最後だったなぁ。一度復活を試みたけど結局は続かなかったんだ。
それでも田んぼはちゃんと維持して耕作放棄地を出さないでいるんだよ。
この先のことは分からないけど、隣の千野町さんにそのうち交じてくれと言っているんだ(笑)。

まなかのひと言

小学生の時、一本松地下道を歩き通学
今、その意味を知る。


第177回 七尾市青山町


在所名の由来

昭和二十二年、満蒙開拓団・青少年義勇団の引揚者が立ち上げた自行農事実行組合と地元農家の
二男、三男と疎開者、引揚者の青山農事実行組合が合併して直津と池崎の山を開拓したんだ。
その時の組合名の青山が町名になったと思われるけど、組合名の由来までは聞いてないんだ。

満蒙開拓団

私で三代目だけど、祖父は鹿島町井田の出身で満蒙開拓団の一員として満州に渡っているんだ。
汽車で下関へ向かいそこから船で満州に渡ったそうで母親が泣いて見送ったと聞かされているよ。
満州に到着すると寝泊りする施設も無くマムシが一杯いる橋の下で何日も寝泊りしなければならず
話が違うとみんな泣いたそうだよ。
引き揚げて来る時、馬から落ちて下半身不随になった男を連れて帰ってきたそうだけど、
当時は足手まといになる人間は見捨てることも多い中、その男は感謝して泣いていたと言っていたよ。

祖父の話の端々から満州では想像を絶する苦労があったと思うんだよね。そんな絆で結ばれた
人たちが開拓してくれた在所だけど、今では開拓当時を知る人が少なくなってしまったよ。

当波元造さんに聞く

父の当波与吉は池崎の出身で東京江戸川に住んでいたんだ。
昭和二十年三月十日の東京大空襲に遭い三月十八日に故郷へ疎開し徳田駅から
歩いて帰って来たと聞いとるよ。そしてこの開拓団に加わったんだね。
開拓団が自前で電柱二十本を立て電気を引いたし立山神社も建てたんだ。
当時は食料が無いからまず自給のために働いたんだね。
白菜や大根、ジャガイモ、サツマイモ、麦と何でも植えたんだよ。

時代が良くなると兼業するようになってね、そうなるとここは不便な所で七尾へ八時に着くには
六時半のバスに乗らなければならないんだ。
それで二代目が嫁さんを貰う時にみんな池崎、松百、石崎へと出て行ったんだね。

現在の在所

五十年前に水害防止のためにと開墾した畑に一万二千本の植林をしたんだ。
それを今年の春先に二十日間かけて伐採したんだ。二十戸以上あった家も今では四世帯になったし、
祭りも私が子供の頃にはもうお参りだけだったよ。

栄枯衰勢は世の習いだけど、ここは苦労人が多く、人情味があってみんな優しい人ばかりだったので、
今も住んでいる人は、みんな仲が良いんだよ。

あんなのひと言

生きるために働き、
苦労したから得られるものがある。


第176回 七尾市小池川原


在所名の由来

「こいけかわら」という人もいるけど、在所では昔から「おいけがわら」と呼んどるよ。
ここは大谷川と庄津川に挟まれた川原だったんだ。埋蔵文化財の調査で3m掘ったら大きな松や
杉の根が出てきたんだ。大谷川の氾濫で堆積していったんだね。

そして能越道の下になったけどキレイな湧き水の小池があったんだ。畠山城主の茶会にこの水を
使ったと伝わっているよ。そんなことから小池のある川原の在所が由来だと察するよ。

昔の在所

埋蔵文化財の発掘調査でベルトの金属製バックルが二個発掘されたことから、千二百年くらい前の
国分寺の長官、今で言えば県知事みたい人の屋敷跡ではないかと言われているんだ。
神社の裏山に畠山時代の大きな砦跡があるんだ。加賀方面からの敵を意識して築いた丸山砦で、
一ノ曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪と並び、櫓が建てられ、土塁が築かれていて、相当の武将が
配置されていたと思うね。当時のものと思われる立派な鎧兜が残されているんだよ。

元和(げんな)年間というから約四百年前には源左衛門という人が畑を田んぼに開墾したと
伝えられているんだ。土地が狭いので徐々に近隣の村にも田んぼを持つようになって、
昭和三十年代の米の出荷量は七百三十俵と矢田郷で一番だったよ。とにかく働き者の在所でね、
苦労するから小池川原に娘をやるなと言われていたそうだよ(笑)。
そんな在所なので今でも耕作放棄地が無いことが自慢なんだよ。
勤勉な遺伝子が引き継がれているんだろうね。奥能登で行なっている「田の神様」の神事も
ここでは親の代まで行なわれていたんだ。

現在の在所

昔は古府の山奥で在所が一家族みたいもんで、それぞれが「よぼし子」の縁を結んでいたんだ。
普段は付かず離れずの距離感で暮していても、何かあったらお互いに助け合う関係だったんだね。
冠婚葬祭は在所全員で行なっていたよ。

若い人も遠くに出て行かず近隣に住んでいる人が案外多くて、やる気のある人がいっぱいいるから
新しい形で在所を盛り立てていってもらいたいと思っているんだ。十一月に臼と杵で餅つき大会を
やって世代間の親睦を深めたけど、何かしないと町内が分散していくからね。

まなかのひと言

小さな在所に、いっぱいの歴史。
地元のこと、知らないことばかり。


第175回 中能登町大槻


町名の由来

二つ伝わっていてね。
この辺は邑知潟へ続いた沼地帯で八幡様の入り口あたりに船着場があって多くの船が着いたことから
「おおつき」と呼ばれたという説と、地勢的に西往来から奥能登へ、眉丈山麓から外浦への交通の要衝で
二宮川左岸の丘陵地に土塁跡が見られるように、この辺りには多くの砦が築かれていて中でも大きな砦、
大きな要塞が大塞(おおつき)砦と呼ばれ、その砦の名前が在所名になったという説があるんだよ。

昔の在所

四六六年前、上杉謙信と武田信玄が川中島で戦っていた頃、ここに両軍合わせて一万人以上で戦った
大槻合戦といわれる大きな戦があったんだよ。
遊佐続光と温井総貞、七尾城の重臣同士が対立したんだね。一五五三年十二月二十七日、
田鶴浜に布陣して進撃してくる遊佐軍を温井軍が飯川から大槻まで広がる末広野で迎え撃んだ。
結果は温井軍の勝利、翌日の羽咋一ノ宮の戦いで遊佐軍は壊滅したということだよ。

この在所は眉丈山系に抱かれた台地に位置してきれいな水が湧くことから
中能登町の水源が二つあるんだ。
それで美味しいお米が採れるので昔はほとんどが農家だったね。
平成二十三年の宮中新嘗祭でお供えするお米は大槻の斉田で作って奉納しているんだよ。

現在の在所

大槻の神社は大日霊女(おおひろめ)神社で女の神様を祀ってあるんだ。
そんなわけかどうか分からんけど女性が多い在所でね。昔は七対三くらいの割で女性が多かったよ。
それで槻和会という婿さんの会が作られていて多い時で二十五人もいたようだよ。
五十年の歴史があったけど人数が減ったので今年解散したんだ。

神輿は菊の御紋でね。明治時代に作られているけど、当時は菊花紋使用が厳禁の時代なのに
どうしてそんなことが出来たのか、どんないわれがあるのか今となってはわからないんだ。
神仏に篤い在所で毎年六月二十日に「田休みまいり」が営まれ西の宮で
阿弥陀如来(光)、大日如来(命)、不動明王(風雨)に
秋の豊作を祈る伝統行事があるけど子どもが少なくなってどう伝えていくかだし、
同じように猪対策で電気柵の予算をもらっても人がいないからどうにもならんのだよ。

祭りや防災訓練の他にボランティアの集いという日を作ってみんなで集るけど、
老人社会の中で在所のあり方をどうしていったもんか思案しないとね。

あきこのひと言

古き里に大きな合戦、神仏に手を合わせる。


第174回 七尾市南藤橋


町名の由来

昭和二十五年に藤橋町から分町した町でね。
藤橋町の北に位置するのにどうして南藤橋なのかと言えば、分町する区域の中を更に区分けして
北、南、西と分けたからだよ。だから南藤橋の北に北藤橋町、西側に西藤橋町が誕生したんだね。

ちなみに藤橋は文禄四年、一五九五年に前田利家が小丸山城を作る時そこに住んでいた人を
こちら側に移して、城の外堀に藤の橋を架けたことが由来らしいね。

昔の在所

ここは昭和十年に鉄道公舎が建ってから住宅が増え続けてきたんだ。
それで分町することになったんだろうね。いわゆる新興住宅地で寄せ集まりの在所だったんだね。
若い世代が多いので、とにかく名前と顔を覚えようということでいろんな行事をやってきたんだ。
聖母幼稚園で盆踊り大会をしたり、鵜浦や千里浜へ海水浴に行ったり、町内全域で宝探し大会を
したけど、当時は子供でいっぱいだったからね。

それとこの町は政治家が育つ街かもしれんよ。
かつて市議、県議、国会議員と政治家が出ているからね(笑)

現在の在所

人口がこの十五年間で二百人も減っているんだ。小学生も百人以上いたけど今は三十人ほどだよ。
聖母幼稚園と近くに七尾中学、七尾高校があるので賑やかな感じはするけど六十五歳以上が
百三十八人と高齢化は否めないね。夏祭りにはここで育った二代目、三代目の若い人が帰省して
奉燈を担いでくれるので盛り上がっているよ。

鉄道の電化で奉燈が電線につっかえて三島町の仮宮まで行けなくなったので今は町内を隅々回る
ことにしているんだ。近年は恒例のバス旅行と平成二十九年より百歳体操を週一回行っているよ。
ここは従来からの班が十八、マンション、アパートの班が十五で合計三十三班あるけど、
外国人も多くごみの問題なども含めどう交流するか課題もあるんだ。

それともうひとつ大きな問題が能登唯一の開かずの踏切だね。
回送電車など駅構内での入替などもあり、何分間も踏切が上がらないことが日に数回もあるんだ。
町内の道路は狭いし、踏切を渡れば右折、左折と混み合い、そこに自転車と住民や高校生が並んで
本当に危ないんだ。駅前と駅裏を結ぶ陸橋を架けるか地下道を作ってほしいと町内では願っているんだ。

七尾の中心地をどう描くか今こそ行政と政治が一体となって力を発揮して頂きたいと思いますね。

あきこのひと言

新しい街、生まれて暮せば、
かけがえのない故郷。


第173回 田鶴浜川尻


在所名の由来

明快だね。ここは七尾湾西湾へ流れる二宮川の河口付近に成り立った在所だから、
川の先っぽ、川の尻ってことなんだろうね。それしか考えられないよ(笑)。

昔の在所

古文書からの推測によると関が原の戦いの前後数十年の間に川尻村が出来たらしいよ。
驚いた事に江戸時代から世帯数がほとんど変わっていないんだ。人口は半分になったけどね。

田んぼと漁で暮らしを立てて来た在所で江戸時代には新しく開いた田んぼの灌漑用水を確保するため
八間(十四・五六メートル)の掛樋(かけひ)を川に掛けて用水を渡していたそうだよ。
今は圃場整備をして水は行き届くけど今度は雨水が自然廃水できないんだ。
オランダのように大きなポンプを二台も設置して七尾湾に汲み上げて排水しているんだよ。

明治時代には雑魚やエイ、タコ、立貝の漁業許可を得て漁をしていたんだ。
海は遠浅で子供の頃にはアサリが一杯獲れて海岸で流木を燃やして焼いては食べていたけど懐かしいね。
すだれのように竹を編んだものを設置する「やな」と呼ぶ定置漁法も盛んだったよ。元は端村の川尻で、
明治9年には和倉町の川尻になって、明治十四年から田鶴浜の川尻になっているんだ。

在所の自慢

在所の荒石比古神社は総持寺の山門や東嶺寺を手がけた名工柴田真次が建てたんだ。
莚(むしろ)で囲って完成するまで中を見ることならずで、完成して宮が現れたとき、
あまりに立派だったのに村人は皆ぶったまげたと伝わっているんだ。
この神社は伝承によると神功皇后征韓の帰り嵐で船が難破してここに漂着し、その部将が
垣吉に居住し守護神を奉納したことが始まりでそれを現在地に移しているんだ。
それで神社の扉には菊の御紋が掘ってあるよ。

小学生3人、中学生3人、若い衆3人、残念ながら今年の秋祭りは初めて獅子舞を中止したんだ。
昔は祭だといえば学校も休ませてくれたけどね。今は人足が集るように祭りを土曜日に変更しても
学校の行事や大会と重なって祭りを優先できない時代になったね。
ここの獅子舞は氷見の阿尾の人に泊り込みで来てもらい習った越中獅子なんだ。
獅子が本当に生きているように踊り、かつては鹿島郡の獅子舞大会で優勝したこともあったよ。

職場でもそれぞれが棒を持ち木のコロやカンナを持っては振り付けを練習してみんなが熱かったよ。
そんな時代がだんだん遠のいていくけどしかたがないね。

あきこのひと言

川と田と海に囲まれる在所
人々が由緒ある神社を囲む。


第172回 七尾市佐々波


在所名の由来

なぜ佐々波なのかはっきりしたことは分からないんだよ。
個人的には下佐々波から上佐々波と海岸線が長く、昔は岩場と岩場の間の長い砂浜にいつも
さざ波が寄せていたから、佐々波という地名になったんじゃないかと思っているんだ。

昔の在所

昔から漁業で栄えた在所で、定置の大敷網で暮らしを立てて来たんだ。
在所の桑原さんの家では先祖九左衛門が前田利家から扶持を受けて代々庄屋を勤めてきたんだ。
今も祭りでは宮を出たらまず桑原さんの家へ出向くのが慣わしなんだよ。
明治時代には戸長役場や郵便局が置かれ近郷十七カ村の行政の中心地になっていたようだね。
戦後は勝木多計男さんが大敷の近代化に尽力してくれて飛躍的に発展したんだ。

大敷には尻尾がついていて泳いでくるものは何でも獲れるよ(笑)。能登島水族館の
初代ジンベイ鮫はここで獲れたんだ。十一月から一月のブリが稼ぎ頭だけど近年は減少傾向でね。
それと海洋少年団の石川県での発祥の地が佐々波なんだ。ボーイスカウトの海版だよ。
私も港まつりでは鼓笛隊として参加して手旗信号なども披露していたんだ(笑)。

大敷網

昭和三十二年に佐々波鰤網組合が発足して定置漁業の近代化が図られてきたんだ。
岸から一キロ半沖の水深五十一メートル地点に全長六百メートルの三号網があり、
水深七十一メートルに全長五百六十メートルの二号網、水深九十五メートルに
全長三百九十メートルの一号網とあるんだ。それぞれ形も違うんだよ。
灘の海は潮の流れが速く海が川のようになって動いているんだ。
魚の習性を研究して網の形も研究されてきたんだね。

朝四時前に仲船、沖船、天馬船、運搬船が連なって出港していき、五時過ぎには
第一便の運搬船が港に戻り選別作業して七尾と氷見の市場に届けるんだ。
平成五年に法人化し、網の改良や機械化、施設の整備を進めてきたんだ。
灘の大敷網は定置網の業界では全国トップの水揚げを誇っているんだよ。
平成二十三年一月に六万七千尾達成の大漁で浜は賑わったよ。

漁港の堤防には美大生が描いた大きな絵が並び、鮮魚の直売もやっていた時期もあったんだ。
高齢化も進み在所で大敷に携わる人も減ってきたけど、団結心だけは繋いでおかなければと
思っているんだ。

あきこのひと言

高台の二宮金次郎と海を眺める。
港にブリとタイの大きなオブジェ


第171回 能登島百万石


在所名の由来

昭和三十四年に石川県営パイロット事業の一環として、閨、通、田尻、久木の各一部、
六十ヘクタールを開墾した開拓地で、加賀百万石にちなんでたくさんの穀物ができるようにと
命名されたそうだよ。

当時を知る瀬成良信さん

昭和三十五年に十六戸の農家が入植しているんだけど、当時からの瀬成良信さんが詳しいので
一緒に話を聞かないとね。瀬成さんは親戚だった当時の能登島石橋町長から勧められ父親と一緒に
入植したそうです。

八ヶ崎出身で作事町に新宅していたけど、まぁやってみるかということで入ったけど
二十七歳は最年少だったよ。戦後パイロット事業が展開していた時期で入植者は全国から集ったんだね。
一人当たり三町三反歩(約3ha)の配分だったよ。掘っ建て小屋からスタートしたんだ。
お互いに頑張りましょうと一杯飲んでいたから結束力があったよ。一年後に小さな家を建て、
十年後には神社を建てようということになり島山神社を建立したんだ。

パイロットの事業計画ではリンゴ栽培だったのでやっては見たけどパッとしなくてね、
それで自由に好きなものを栽培しようということになったんだ。
ここは粘土質の赤土なので三年間ほどジャガイモを植え、その次にタバコを植えるようになったけど
タバコは専売公社が買い付けしてくれるので安定していたよ。不作でも六割は保証してくれたからね。

今八十七歳だけど六十五歳からタバコが下火になり七十歳でタバコは終わったんだ。
次に何を作るかという選択になってね、そこで息子たちが始めたのがネギだったんだね。
今は孫も一緒にやってくれているよ。

現在の在所

今は瀬成さんのように農業をやっている家が九軒あるけど、それぞれでいろんな取組をしているんだよ。
高農園さんは有機栽培でいろんな野菜を作って全国のレストラン向けに出荷しているし、
本格的に畑をするには広々としていて良い環境なんだね。それと農家以外の家も七軒あるんだ。
私のように自然の中でのんびり暮したいという人にも良い所でね。
排他的なことは一切なく新しく来た人に優しい在所で、のん気に暮らすにも良い環境だよ(笑)。

少子化と一極集中で能登島全体の人口も半分の二千五百人ほどになって高齢化も進んでいるけど、
つながりを持って仲良く暮らしていけばこんな安全で安心な場所はないと思えるんだ。

あきこのひと言

開拓者精神で半世紀を越え、
穏やかな笑顔、継続は力なり。


第170回 七尾市松百町


町名の由来

詳しい由来は聞いていないけど、畠山の家臣で松百(まつど)という人の
知行地だったという話もあるようだよ。海岸の方を渋江浦と呼んでいるけど、
昔は渋江村があったんだ。それが松百と合併しているんだね。

幻の松百鮓

全国に有名になった松百鮓(まっとうずし)の話が伝わっているんだ。
現在は作る人も、食べる人もない幻の鮓だけど、江戸時代には加賀藩から徳川将軍に献上されていて、
古くは畠山時代からすでに贈答品や城主の宴席に出される珍味だったようだよ。
ただ何の鮓なのかよくわからないんだ。在所では魚のベットだという話も聞くけど、
いくつかの記録によると、中世では巻貝で近世ではゴリ、ボラ、やどかりなどが記されているようだよ。

いずれにせよこれらの具材はどれも赤浦潟で獲れたんだろうね。
そもそも具材にこだわらなかったのか、その品種が少なくなって具材が変遷していったのかは、
今となってはわからないね。面白いのはその鮓桶(すしおけ)にタツノオトシゴを添えていたらしく、
蛇の鮓と言われて全国に広まったようだよ。
明治時代になって加賀藩の庇護が無くなり、少なくとも大正時代には作られなくなったようだけど、
時代が変わって需要もなくなったんじゃないのかなぁ。

現在の在所

赤浦潟では冬場にワカサギ釣りを楽しむ人が多いけど、鯉ヶ浦漁業共同組合では
毎年七月に鯉の稚魚二十キロ、三月にはワカサギの卵を百万粒放流しているんだ。
元、弁財天社の市杵島姫(いちきしまひめ)神社は、琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)明神を
勧請したそうだけどその御神体を誰も見たことは無かったんだ。

平成十九年の能登半島沖地震で社殿を修復するときに初めて拝んだけど女の神様だったよ。
秋祭りでは十年前まで神輿を担いで火渡りをしていたんだ。眉毛が焦げるほどの火の中を
渡っていたけど今は人手不足から中断しているんだ。青壮年団員も六十歳までに延長し、
更に六十五歳まで顧問役としてやってはいるけど若い人が少なくなってね…。

高台にある七尾病院とは災害時に協力しあう防災協定を結んでいるけど、
全員が安全で安心して暮していけるよう住民間の連携も更に深めていきたいと思っているんだよ。

あきこのひと言

赤浦潟の穏やかな湖畔を歩き、
幻の鮓、火渡りの神事、古を想う。


第169回 七尾市富岡町


町名の由来

なぜ富岡になったかわからないけど、小丸山の城下町に東と西に地子町があって
ここは西地子町の一部だと聞いているよ。
その中でもここは明治の初めごろまでは通称で瀬戸浜と呼ばれていて、
遠浅の砂浜で小船の陸揚場となっていたそうだよ。

ちなみに地子(じし)とは領主が田畑や屋敷地などを賃貸料として課す地代のことだけど、
町名となるのは城下を作るときに商人や職人を多く集めるために地子を免除する町を作る場合もあって、
その代わりに町には人足役や伝馬役、領主御用達の負担が課せられるという話だよ。
七尾の東西の地子町がどの辺りか、どんな制度だったか詳しく知りたいね。

在所の今昔

在所の西宮神社のすぐ裏が海だったよ。
貸ボート屋も何軒もあって海水浴もしていたし、タコもよく釣れたね。
桟橋もあってポンポン船が能登島と行き来していたけど、
ここは能登島の西島にルーツを持つ人が多いよ。
お盆に墓参りに帰る時は手土産に肉を持って船が沈むくらいいっぱい人が乗っていたよ。
そんな時代は府中の波止場に能登島会館があって高校生の寄宿舎になっていたんだ。

西宮神社は石動山のお寺を移築し恵比寿様を祀ってあるんだ。
恵比寿様は商売繁盛の神様なので建立のとき御祓地区のお店が商売繁盛を願ってこぞって勧進したんだ。
昔の秋祭りはすごかったよ。
本宮神社に向うとき亀山町から馬出の橋までの直線を白木の神輿を松本町の人と三、四十人で
担いで勢いよく走るんだ。橋を渡るなと止め戻されるので、亀山町まで戻ってはまた突っこむんだ。
三回目で御祓川に腰までつかり体を清めて川を渡ることが出来たんだ。
前日には川底の石をあげて準備していたね。

先輩から聞いた話では戦時中に国から配給のサツマイモを町内の砂利道に並べて家族の人数を聞いては
配っていたらしいよ。終戦直後には小学生たちが線路沿いを歩き徳田にある軍の弾薬庫に行って、
三十センチの砲弾を持ってきては信管をはずし火薬を取り出して道に並べて遊んでいたんだ。
そんなある日砲弾が炸裂して子どもが一人亡くなる事故が起きているんだ。
そんな時の砲弾が西宮神社の社殿に箱に入れて飾ってあったけど、昨年自衛隊が回収していったよ。

近年は少子化で年寄りの多い町になってしまったけど、それだけに防犯防災の意識は高くて
お膝元の恵寿病院の災害時の訓練に参加してトリアージの患者役をやったり、
AEDの訓練をしてもらったりしているんだ。今は神社の改修工事をしているけど
人が暮らす限り歴史は刻まれていくから過去も未来も大事にしたいね。

あきこのひと言

城下の一角にて存在感を示してきた在所。


第168回 七尾市沢野町


町名の由来

鎌倉時代には沢野村があったそうだけど由来となるとよくわからんなぁ。尾根沿いの在所で川が無く沢が流れているので地形的に沢野になったのかもしれんね。
それと戦国時代に畠山の家臣でここの在地領主として沢野殿がいたそうだけど、その沢野殿がずっと以前からここを支配していて、その苗字が在所名になったのかもしれんしね。

昔の在所

城山からの尾根沿いに、松尾、上沢、中村、栢戸(かやど)と広範囲に四つの集落が点在するけど、お寺を中心にして成り立ってきた在所だよ。在所の真證寺が五百二十年以上経っていてほとんどが門徒だから、仏事を中心にまとまっていたんだろうね。

特産品は昔からごぼうでね。土壌が適しているので大きいごぼうが育つんだ。
江戸時代には藩主前田家へ献上したごぼうが加賀藩の特産品として徳川将軍家にも献上されたんだよ。

沢野ごぼう

今では太いごぼうが有名だけど、最初その価値がわからなくて公設市場に細い普通のごぼうを出荷していたんだ。市場では群馬産が人気で沢野のごぼうは売れなくて、花を買った人におまけにつけて配っていたくらいだったよ(笑)。
そんな時、中日新聞が山に捨ててある太いごぼうを撮影して記事にしたら加賀屋総料理長の宇小さんの目に止まってね、すぐ持ってきてくれと連絡があったんだ。

私と白井さんとで細くてきれいなごぼうを何十本も持っていったら、違う!と言われてね。料理に使うのだから京都の堀川ごぼうのように太いごぼうが必要だと教えてもらったんだ。
それで沢野ごぼう生産組合では太さ三センチ、長さ七十センチを沢野ごぼうの規格品とし、みんなでなんとしても沢野ごぼうを世に出したいとグリーンツーリズムなど様々なプロモーションを試みたら知名度が上がったんだよ。

伝統の寸劇

祭りの余興で小四から中三までの男の子だけで演じ、ラッパ、警察官、お猿のかごや、でかんしょ、桃太郎などの演目で全部に教えがあるんだ。祭りに演じると祝儀をもらえてね、翌日には集った祝儀でお菓子を買ってリーダーが分けるんだ。子供の自治なんだよ。

百海や庵の海にみんなで歩いて海水浴にいったりして上下関係を築いていたんだね。
そんな中で事の善悪を学んでいくんだけど、子供が少なくて二十五年前に寸劇が出来なくなったんだ。伝統が途絶える事は寂しいけどね。この先とにかく平和で暮されればと願うのみだよ。

あきこの一言

ごぼうを作って、お参りし、
祭りを楽しんだ山の在所。


第167回 七尾市中挟町


町名の由来

はっきりした由来は伝わっていないけど、地図で見ると面積の広い八田町と江曾町にすっぽり囲まれているのがわかるよ。そんなところから考えると両隣の大きな在所のちょうど中間に挟まれた小さな在所なので、中挟と呼ばれたんでないかなぁ。

昔の在所

在所の藤原四手緒神社は元々は第九代当主畠山義綱が建立した由緒ある神社だったんだ。明治維新の神仏分離で御神体の一部が民家に移管されていてね。昭和五十七年に町出身者にも呼びかけて在所一丸となって全面新築したのが現在の神社なんだよ。

小さな在所だけど神事は伝統を守ってしっかり行なっているんだ。伝統行事の虫送りも6月の第一日曜日の午前中に行なっているんだけど、本宮神社からお札を頂いて竹の棒に縛って在所の田んぼ五箇所に立て、そこを太鼓たたいて子供たちが大きな声で「田んぼの虫でてけー」と廻るんだ。
中挟では天保五年の凶作の時、豊作を願って私年号の久宝元年と改元しているんだ。飢饉の時には朝廷の正式な年号を勝手に変えてまで状況を変えたかったんだろうね。昔の人の苦労が偲ばれるよ。

現在の在所

少子高齢化が進み、時代も変わってきたので、昔のまま何も変えずにいる事には限界があると思うんだ。
祭りの世話をする藤神会から神輿を担ぐ人が少なくなったので台車を作ってほしいと町会に要請があったので昨年ついに作ったよ。獅子舞の踊りは男の子だけを貫いているけど、これもいつまで続けられるか時代に合わせて考えていかなければと思うね。

七尾更正園と災害時の協力協定を結んで防災避難訓練も合同で行い、在所は初期消火、避難誘導を手伝い、園には避難場所として給食や給水をお願いしてあるのだよ。七尾更正園の盆踊り大会には在所の人も招待してもらいたくさん参加しているし、なかばさみ里山保存会は田植えや稲刈りなどで交流しているよ。
今年は町会長と理事五名の改選が十二月にあるけど住人の四十歳以上七十歳未満の男女から選挙で選らばれるんだ。誰が町会長になっても、時代を読んで、時代のニーズに合わせて、みんなで明るく住みやすい中挟にしていかないとならんね。

あきこの一言

山の麓、古きを大切にしつつ
新しき時代に向って歩む在所。


第166回 七尾市熊淵町


町名の由来

若い頃に年寄りに聞いたけど、山の中で熊がいたからかなぁと、今ひとつはっきりしなかったよ。
鹿島郡誌によると、昔、荒熊を阿良加志比古・小彦名神が退治したからという説と、高麗(こま)ヶ淵がクマブチに転化した説が書かれているようだよ。

高麗は朝鮮の高句麗のことでそんな文化が伝わっていたのかも知れんね。高麗犬は神仏を守る獣だけど、ここは神仏に縁の深い在所だから高麗ヶ淵から熊淵に転化した説に興味を覚えるんだよ。

昔の在所

熊淵川の下流から生出(おいで)、仏前(ほとけのまえ)、熊淵と川沿いに三つの集落が点在する長細い在所なんだ。この世に生まれ出てから、仏の前に行き、そこを高麗ヶ淵と呼び高麗犬が守護している熊淵。
そんなストーリーを想像するんだよ。在所に伝わる話だけど、昔、仏前は熊淵川を挟んで今の反対側の斜面にあったんだ。そこに祀られていた馬頭観音が、ある晩、庄屋の夢枕に立ち地滑りが起こるから今すぐ避難せよと告げたんだ。

庄屋はその言葉を信じて住民を起こして向かい側に避難したら、その直後に大きな地すべりが発生して集落は壊滅したんだ。その馬頭観音を三十三年に一回御開帳して今も大事に祀っているんだよ。
十九年前に百二十名分の芳名録を用意して御開帳と稚児行列をしたけど、当日は県内外から七百名以上が参詣に来たので住職もビックリしているし、なぜこんなに人が来たか今でも不思議でしょうがないよ。
富山に出稼ぎに出る人が多く父親も黒部ダムが完成するまで出稼ぎに出ていたし、中三の時に熊淵川が氾濫して橋が全部落ちて黒崎の涛南中学から帰れなかったこともあったよ。

現在の在所

獅子舞を保存するため在所を出た若い人がいつでも気軽に里帰り出来るようにと山吹会を結成し飲み会など交流を続けてきたけど、そのメンバーも年老いてついに祭りが出来なくなったんだ。存続が危ぶまれた頃に宮を出る所から戻るまで全部ビデオ撮りしたんだよ。

今は春祭りには老いも若きも、男も女も全員参加で集会所に集まりそのビデオを観ながら酒を飲んで一日中ドンチャン騒ぎをし、秋祭りは囲炉裏が切ってある神社に女の人も上がってお供えの鯛を骨酒にして和気藹々と祭りを楽しむんだ。
顔を合わせることで状況も分かるし普段の会話も取りやすくなるからね。在所の存続を担う若い人に熊淵の団結力を繋いでおきたいと願っているんだよ。

あきこの一言

山間に団結する小さな在所、
神仏に護られ今に暮す。


第165回 七尾市和倉町ひばり


町名の由来

元々は和倉温泉に通じる昔の細い県道沿いに田んぼと珪藻土の山があった場所でね、その山にひばりが沢山いたことから地元ではひばり山と呼んでいたんだ。その山を拓いて区画整理したときに山の名前にちなんで、ひばりと名付けたんだよ。

昔の在所

ひばりという町が出来る前はここに住む人は和倉東、石崎、奥原などバラバラに所属していたんだ。
石崎和倉土地区画整理組合が立ち上がって区画整理が行われ、三十二年前に一つの町が誕生したんだね。当時の制度は区画整理地の中に田んぼを残すという制約があったんだ。

おかげで現在和倉地区に田んぼのある町は、ひばりだけなんだよ。私が初代町会長として十二年間務めさせてもらったけど、この四月から二十年ぶりに二度目の町会長に就くことになってね、平成元年、令和元年と時代の移り変わるときになぜだか町会長を仰せつかっているんだ(笑)。
和倉地区では、ひばりの後に光陽台、泉南台と区画整理された町が誕生していくんだけど最初に町会長をした当時は六十四世帯だったよ。現在はアパート十六棟も含めると二百四十九世帯と四倍に増えているんだ。それでもまだ土地はいっぱいあるから歓迎しますよ(笑)。

現在の在所

和倉小学校もここに移転して、かんぽの宿の跡地に足湯のある広々とした公園が出来て、県道と市道が通り住みやすい街になったと思うよ。和倉には、よさこい、花火、マラソンと大きなイベントが行われるので、町会としても和倉観光協会の会員となって応援しているんだ。単独の行事は親睦旅行ぐらいだけど和倉校下の行事には全部参加しているし、祭りは和倉小比古那(すくなひこな)神社の氏子で、和倉八町会全体で春と秋に神輿と獅子舞で和倉全域を回るんだ。

初代町会長の時、いつかは集会所を建てなければと基金を作って積立ててきんだ。大きな集会所まではどうかと思うけど、ひばり町内会事務所として今年あたり建設が出来ればいいなと思っているんだよ。新興の町だけど住む人みんなが愛着と誇りを持って、型苦しくならず気楽に和気藹々と、規律を守って協調して暮らしていける町会でありたいと願っているんだよ。

あきこの一言

小鳥の声、爽やかな風、足湯につかる
あぁ~いい気持ち、 ひばりの在所。


第164回 能登島須曽町


町名の由来

弘法大師空海が教えを広めるためこの地に来た時、在所を流れる衣川に遡上する鮭を所望したところ、村人がこれを拒んだら「衣川裾ほころびて鮭もあがらず」と詠じたことから、裾の「すそ」が地名の由来だと伝わっているんだ。
事の信憑性はわからないけど、欲深いと結局は本当に大切なものを失ってしまうから、あまり欲なことはしてはいけないよという教えだと思うね。驚いたけどその衣川に昨年鮭が遡上してきたんだ。吉報だね(笑)。

昔の在所

ナマコ漁と田んぼで暮らしてきた半農半漁の在所でね、衣川のお陰で水は豊富なんだけど離れた田んぼに水を回すため、山に二箇所マンポを掘って用水を通しているんだ。家の裏山に横穴を掘ってあるけど、そこから滴り落ちる一滴一滴の水を貯めて飲み水にしていたし、雨が降れば屋根からの水をバケツに入れては風呂に運んだよ。

昔は須曽の松茸は有名で沢山採れたんだ。しいたけくらいの扱いで味噌漬けにしていたけど本当に美味しかったなぁ。
観光客を入れて松茸狩りをやったら、あっという間に無くなってしまってね。十五年前に松茸再生事業に取り組んだけど上手くいかなかったよ。能登島大橋が架かる半浦の山は断崖絶壁で山肌が見えるけど、あれは山を崩して七尾港の埋め立てに運んだ跡だと母から聞いたよ。

現在の在所

須曽蝦夷穴古墳が昭和五十六年に国指定史跡になり、平成元年から整備されて綺麗になったけど、子どもの頃は鬱蒼と茂っていて、夏休みの夜に分校裏の細い山道を登って肝試しした遊び場なんだ。古墳は七世紀頃のもので雌穴と雄穴の二つ石室があって珍しく、構造も朝鮮半島の高句麗古墳に似ていると言うので渡来人の有力者の墓かもしれんね。
石室に積まれていた安山岩は、たぶん在所の岬「ゲンロク」から運んだと思うよ。そこは板状の石がカパカパ剥がれるので在所の人も剥がしてきては庭や玄関に敷いていたんだ。

老人の在所になったけど地域づくりは経済中心に考えんでも良いと思っているんだ。
分校時代は雪が降ればソリを作り雪を踏み固め一日中ソリで遊んで、暑い日は海で丸一日遊んでいたけどそれが授業だったよ(笑)。里山里海の中で欲を持たずのんびり落ち着いて暮していく幸せもあるので、今のこの良い雰囲気が継続できればと思っているんだよ。

あきこの一言

朝鮮文化が伝来し、海上交通の拠点となり
歴史を生き抜き、今穏やかなる須曽の在所。


第163回 中島町上畠


在所名の由来

虫ヶ峰山麓のなだらかな傾斜地に畑が連なり集落まで続いているんだけど、
集落の上に畑が連なる景観から上畠となったようだね。

昔の在所

釶打地区で一番畑が多い在所でね、稲作するには水不足で昔から畑で暮して来たんだ。戦後は横田や町屋の畑を借りてまで、葉たばこ、大根、白菜、スイカなど作付けしていたし、中島菜を商品化したのもここなんだよ。昭和三十年代、政府の所得倍増計画で世の中みんな勤めに出るようになり、釶打を出たバスが横田で満員、列車も中島駅で超満員、奥吉田の坂を上がらないほどだったんだ。

そんな時代でも上畠では先祖が苦労して拓いた畑を維持するため勤めに出ることが出来ず、それで大工や左官の仕事をしながら畑をしていたんだね。平成四年当時でも二十四軒中、十一軒が大工だったよ。
今となれば結果的に良かったと思うね。昭和五十二年に上畠農業機械利用組合を発足、現在は「農事組合法人なたうち」として田んぼ、畑、採れた野菜の加工品や味噌なども販売もしているんだ。大工が多いので格納庫や出荷場、ライスセンターなど夜なべしながら自前で建てたよ(笑)。
今日まで営農組織を四十二年間も続け、田んぼも二十二町歩あるけど、休耕田が一つも無いことが誇りなんだよ。

現在の在所

昨年神社を建て替えたけど、みんなで十五年以上貯金してきたんだ。農業で結束し、もう一つ祭りで団結力を高めているんだよ。九月二十三日の新宮(しんごう)の祭には金沢大学の学生に来てもらい枠旗を担いでもらっているし、八月十四日の「お涼み」の奉燈の灯りはろうそくを替えながら「やんさこ」を唄い情緒豊かに行なっているんだ。

小さな在所なので明治時代から横田と「ゆい」を結んでいるんだよ。農業の担い手不足が心配される昨今だけど、金沢のボーイスカウトが毎年田植え、草取り、稲刈りに来ているし、 ターンや移住者など若い農業従事者が増えているので嬉しいね。昨年も京都と大阪から移住希望の若い女性が農業体験に来ていったよ。高齢化は否めないけど住み慣れた故郷で、みんなで住み続けられればと願っているんだ。

あきこの一言

時流に乗らず田畑を守り続け、
結束力で新たな時代を拓く上畠。


第162回 七尾市後畠町


在所名の由来

鳥屋地区には須恵器(すえき)の古い窯が百以上見つかっていてね。須恵器とは朝鮮半島から伝わる土器で、この辺りでは北陸でも早い時期の六世紀初頭頃から生産され、以後四百年以上須恵器の生産が続いていたそうだよ。
全国の須恵器の生産地に「陶(すえ)」の字を使った地名がよくあるそうで、ここもそうなんだね。

そしてここは台地に集落が形成されて来たことから陶坂(すえざか)と呼ばれるようになって、いつの時代かに末坂に転化したのだろうと言われているよ。

昔の在所

昔は農業と山仕事をしていたと思うけど、明治二十二年に鳥屋村役場が出来てから鳥屋の政治的中心地になって、旧道沿いには銭湯に食料品、雑貨や洋品店、食堂、飲み屋、駄菓子屋などが並んでいたんだ。
織物工場も沢山あって青森、秋田、岩手から集団就職で若い女工さんもいっぱい来ていたので賑やかな在所だったよ。

集団就職は昭和三十年代まで続いて、良川駅に列車が到着すると旗を振って出迎えたんだ。
当時の粋の良い若い衆は女子寮を覗きに行っていたらしいよ(笑)。町と商工会が尽力して女工さんのために七尾城北高校に鹿西分校を開設してもらったんだ。在所の六地蔵には云われがあってね、これは明治時代には避病院(ひびょういん)が建てられたそうで、今で言う隔離病棟やね。

当時コレラや赤痢などの伝染病は死に至る病気で、亡くなる人も多かったので火葬場の近くに建てられたそうだよ。そんなことで在所では避病院の近くに六地蔵を祀り亡くなった人をとむらったそうだよ。

現在の在所

昭和61年に役場が新庁舎に移転したら在所の中が寂しくなったよ。旧役場跡地のミニパーク広場で夏に盆踊りをやるんだ。前は青壮年団が主催だったけど負担が大きく中断したので、2年前から在所が主体になって復活させたんだ。

旧鳥屋町の時は地区対抗の運動会があって在所が結束したけど、三町が合併してから地区対抗の行事が無くなり、少子高齢化も重なって結束力が弱くなったね。だから出来るだけ住民が集う機会が必要なんだ。
秋祭りは小中高生と青壮年団が総出でやってくれるので心強いよ。今年から圃場整備の工事に入るのでその取組をしながら、調和を保って結束していきたいね。

あきこの一言

眉丈山系の山麓の台地、須恵器を焼き、
織物で栄え、結束を誇ってきた在所。