こみみかわら版バックナンバー

第192回 七尾市亀山町


在所名の由来

最初は味噌屋町だったんだ。昔この町に亀や門という大きな味噌屋があって、それで味噌屋町と呼ばれたんじゃないかな。

それと郵便局前の橋は亀橋と呼ばれているけど、それもその亀や門が由来だそうだよ。

郵便局から小丸山公園下の花嫁のれん館までの通りが現在の亀山町だから、町名変更が行われた時に、亀橋の亀、小丸山の山をとって亀山町になったんじゃないかと想像しているんだ。

昔の在所

昔のガタガタ道がセメント道になった頃は子供たちが石けりやケンケンパーをして通りには一日中子供たちの歓声が聞こえていたね。どの家も玄関前を掃除して水を撒き、ゴザやムシロを広げていたよ。

小丸山公園の下に郡役所や郡会議事堂、愛宕山には七尾鹿島の公会堂があったんだ。相撲場の所ではサーカスがテントを張っていたけど、すり鉢状にしたため公園下の駐車場の所に移り、そこから府中の波止場に移ったんだ。

七尾駅を降りた七尾中学校、七尾女学校、七尾商業学校の生徒は学校ごとに駅前で整列してから集団登校していたね。通りにはカランコロンと下駄の足音が響いていたよ。本当に人通りが多く、偉いさんも通るので洋服屋が四軒もあったよ。

戦時中、光徳寺に暁部隊が駐屯して小丸山公園に三つの防空壕を掘ったと聞いているよ。

現在の在所

ちょんこ山の車輪と車軸を新調したけど、去年今年と運行が中止になって残念だよ。

亀山町が本宮神社のちょんこ山に参加したのは百六十五年前の安政三年と記録があるんだ。他の五町に比べて遅くに参加しているんだけど、これは味噌屋町の一部が印鑰神社の氏子であったことや、公園下にあった味噌屋町の鎮守の住吉神社が本宮神社に合祀されたなどの経緯があってのことだと聞いたね。

曳山の人形は「髭じっこ」の住吉明神だけど、親世代の人たちは竹内宿祢(すくね)だったと言っているのでいつどんな理由で変わったのか不思議なんだよ。

明治二十八年と三十八年の二度の大火に見舞われてから火の用心が続いているよ。各家順番で拍子木をカンカンと叩いて夜八時過ぎから町内を回るんだ。コロナ禍で催しごとが出来ないけど早く安全に安心して出来るようになってほしいね。

まなかの一言

城下の小さな在所、
時代の変遷を感じる歴史あり。


第191回 中能登町黒氏


在所名の由来

鹿島郡誌には小鳥のクロジが在所の流域に生息していたことが由来だと書かれているけど、鳥屋町史では平安時代ここは藤原頼長の所領地で一青荘園の一部に属していたが、保元の乱で後白河院の所領に変わり、更に石清水八幡宮宿院の寺領となった時に一青荘から分離され、この地の中心人物が九郎次という人だったことが由来だと書かれているよ。

戦国時代以降の古文書で「くろち村」が「黒地村」と変わり、いつしか「黒氏」に転化したんだろうね。

昔の在所

昔は木挽と大工が多く山仕事に石動山へ行って、越中へも大工仕事に沢山の人が行っていたようだね。それで氷見との縁組も多かったと聞いているよ。

昭和に入り酪農や養豚、養鶏が始まり、織物で栄えた時代もあったんだ。

黒氏は東西に長く鹿島バイパスと七尾線の間の集落を「在所」、西往来周辺を「深沢」(ふかそ)と呼んで二地区あるけど、ちょうどその中間に昭和四十三年から住宅団地の建設が始まり、現在七十七世帯の「黒氏新町」が出来て三地区となったんだ。それぞれに分館として町内会があり新町は平成十八年に地縁団体を設立して運営しているんだよ。

明治二十一年、お寺も含む十三世帯が焼失した大火事があり、在所の八幡神社で火事を絶対出さないと肝に銘じて毎年六月に火祭りを行っているんだ。

現在の在所

三地区が協力してやって来たけど、高齢化が進む中で今まで以上に結束して、次の世代に受け継いでいかないとね。

広い在所の絆は祭りが一番なんだ。黒氏には曳山が二基あって、一基はふるさと創修館に展示されているけど、祭りの心意気が強い在所だよ。今年、獅子頭と烏帽子、蚊帳、赤尾っぽを新調したけど、獅子舞は明治四十三年頃に氷見の吉岡村から習ったんだ。演目は六種あるけど大正十三年に獅子舞の奥義「獅子殺し」の指導を受けて現在の原点が出来上がったと伝えられているよ。

今、力を入れているのが防災組織の強化でね。いつ起きるか分からない災害に備えて、各地区に責任者を配置して実践さながらで各戸を回り人数確認して情報を本部に集める訓練をしたよ。移り行く時代に合わせてみんなで力を合わせていかないとね。

あきこの一言

古きを大切にし、新しきを活かす
懐深き黒氏の在所


第190回 中島町町屋


在所名の由来

虫ヶ峰山麓にはかつて真言宗の七堂伽藍を備えた本格的な寺院もあったとも言われ、
人家も密集していたそうで、そんなことから町屋と呼ばれるようになったという説があるようだね。

虫ヶ峰

町屋は今も昔も虫ヶ峰なしでは語れないんだよ。
標高約二九六メートル、虫ヶ峰の山頂に九尺四方の小さな社殿があるけど、
これは在所の白山神社の本殿、奥の院なんだ。その敷地の遺構や周囲の五輪塔、
板碑などを調べると南北朝から室町時代には虫ヶ峰山麓には寺院などの施設が
あったと推測できるようだよ。

戦国時代に上杉謙信の侵攻で焼き討ちに合ったけど、在所ではこの山を御前(ごぜん)と呼んで
山岳信仰の霊山として尊んできたんだね。春秋の村祭りは在所の白山神社の拝殿で行い、
田植え上がりの「こくぞう祭り」は虫ヶ峰山頂の本殿で盛大にやっているよ。
全戸の田植えが済んでから日が決まるんだ。前日には男が登山道と社殿、頂上広場の整備をして、
女性は御馳走づくりをするんだ。当日は家々の御馳走をお重に入れて一家そろって登るんだよ。

稲株を一つ一つ鎌で割って鍬でおこし、全て手作業で田植えをした時代を想うと、
感謝と豊作の祈願は切実だったと思うよ。神事が終わると車座になって宴が始まるんだ。
当番がお世話するけど昔は酒の一升瓶八本を竿に吊るして登ったんだ(笑)。
新緑の中で老若男女が語り、唄い、和気あいあいと時が過ぎていくと、当番が銚子二本を持って
車座の真ん中に出て「これでおつもりでございます」と挨拶するんだ。
最後のお酒を注いだら皆で「ごっつおさんでした」と挨拶をして後片付けして千鳥足で山を下りるんだ。
在所が一番結束する大事な行事なんだよ。

現在の在所

虫ヶ峰には平成十五年に風力発電の風車建設が始まり林道も整備され今では車で行けるんだ。
十基の風車も虫ヶ峰の風物として馴染んでいるようだね。ほ場整備も終わったけど高齢化で
担い手はなく農事組合法人なたうちと浜田の松田さんにお任せしているんだ。
おかげで年寄りは畑専門になって健康にもちょうど良いのか九十歳代の元気な人が多いんだよ。
空き家には田舎住まいが良いと二組が移住してきたし、四百メートルの間に全戸が連なる小さな在所で
歩いて安否確認も出来るし、仲良く団結心のある平和な在所だよ。

まなかの一言

畑とおしゃべり、穏やかな顔
素敵なおばあちゃんたちがいる在所。


第189回 中島町鹿島台


在所名の由来

終戦後に鹿島郡中島町の長浦地区と深浦地区の山林を開拓して出来た在所なので、
鹿島郡の台地、鹿島台と名付けたんかなと思うけどね。

昔の在所

終戦後すぐに政府の緊急開拓政策を受けて、当時の西岸農業協同組合が
中心になって引揚者の受け入れと地元の二男、三男の仕事の手当て、
それと地元農家の専業化対策の開発計画を立て、積極的に運動を展開した結果、
二町歩というから約二ヘクタールを十年間で開墾する権利と義務が与えられたんだよ。

当初五十二世帯が入植し頑張ったけど昭和三十年の検査で不合格になった人たちが
離脱して二十九世帯、百二十一人となったんだ。
広々とした台地は風が強かったけど、海が見え見晴らしも良く米以外の作物は
何でも作ったらしいよ。ただ時代と共に離農者が増え、養蚕、葉たばこ、酪農が定着したんだね。

砂利道で街灯もない寂しい場所だったけど、七尾教会の分教場があって牧師が七尾から来て
子供たちはそこでゲームしたりお菓子を貰ったりして遊んでいたと聞いているよ。
小さな宮を立て九月二十三日を在所の祭りと決めて神事の後に一杯飲んで交流を深め、
昭和三十七年に建てられた婦人ホームは集会所代わりにも使っていたようだよ。

現在の在所

広域農道が整備され、能登島への農道橋が架かり、近年は太陽光発電所も出来たね。
秀楽苑と寿老園も在所の一員として運営に協力してもらっているし、
交通アクセスも良くなったおかげで、若い人も移り住んでくるようになったよ。
開拓当初から住んでいるのは水谷さんと福岡さんの二軒だけど、移り変わりの中で
今暮らしている人は時々の先人に色々とお世話になって来たんだ。

来る人拒まず大歓迎してくれる伝統があるし、自然豊かで、周りを気にしないで生活でき、
みんな人柄が温かいし、住みやすい所だと私自身も実感していますね。
町会長は順番に回しているけど十世帯しかないから世帯主の全員が町会長経験者なんですよ(笑)。
今では祭りは行っていないけど春と秋に道路の除草と総会を開いて情報交換して、
程よい人間関係を保ちながら、それぞれが楽しく暮らしているので、これからもそうありたいですね。

まみの一言

小鳥の声、風の匂い、人の好さ。
お日様ぽかぽか、のびのび散策。


第188回 七尾市新保町


在所名の由来

新保の沖に天神礁という岩があるけど、昔そこから神様が上がったので天神社が祀られ、
それにちなんで神保となり後に新保に転化したという説もあるよ。

新保町は加賀、小松、能美、金沢、羽咋、能登町にもあり北陸に多い地名で、
多くは新しく開墾した土地を指すそうだよ。
石高を記した一六〇二年の古文書には新保は出てないけど一六五六年の記録には
新保が出てくるから江戸時代初期に名前がついたと推測できるね。

新保の田んぼは花園の池岡さんがお金を出して干拓したとも聞いているんだ。

昔の在所

紀元前三千年の頃に赤浦潟を望む大地に人が住みだし、紀元前千五百年頃に
そこから新保や万行などに移った人たちがいたんだね。
新保A遺跡からも縄文時代の石斧や矢じり、土器がたくさん出土してるよ。

私が子供の頃には遠浅の海水浴場があったんだ。
桟橋が三つ、飛込み台まであり、宮の境内に更衣室やシャワー室、
売店もあって市内の小学校からバスで来ていたよ。
男でもビキニのような三角の黒猫という海水パンツだったな(笑)。

米作りが命の在所で学校から帰ると納屋にどこどこの田んぼと張り紙がしてあり、
そこへ手伝いに行くんだ。タニシもいっぱいいて弁当のおかずになったよ。
粘土質と砂の土加減が良く水は湧水でおいしいお米が育つんだ。
昭和天皇が和倉温泉の銀水閣に来た時は新保のお米をお出ししたんだよ。
冬場は藁で筵とさんどらを作っていたけど、さんどらとは七輪コンロの梱包材だよ。

三区交進会といって新保、祖浜、松百が合同で祭や若衆報恩講をしてたんだ。
三町の神輿が各町内を回っていた時もあったけど三十年ほど前からやらなくなったんだ。

新保の虫送りは「うんか虫でてえけ!」ドンドンと太鼓を鳴らし田んぼを回り
最後に崖の上から古い太鼓を落として遠くまで転がったら豊作だと言っていたよ。

現在の在所

年一回の行事として五十年以上続く「歩こう会」ではおにぎりを持って健康と
親睦を兼ね、一月の村御講では前年亡くなった方の追善供養をしているんだ。

故郷を後世に繋ぐために自然を創る「シンボ」という団体をつくって
ホクリクサンショウウオなど希少生物の生息状況を調べたり桜を植えたり
草刈りをしたり自然保護活動を行っているよ。

小さな在所でまとまりがあるので、これからも思いやりのある在所でありたいね。

まなかの一言

自然と歴史、優しさいっぱい、新保の在所。


第187回 七尾市川原町


在所名の由来

江戸時代からの町名らしくてね、小丸山城下の東端で府中村と隣接し西に神戸川、東に毒見殿川が流れこの辺り一帯が川原だったからじゃないかな。私が子供の頃でも雨が降れば川が氾濫して水浸しになっていたからね。

資料を見ると安政二年に馬喰町と合併して川原博労町になり、明治にまた川原町に改称しているんだ。

昔の在所

加賀藩時代、金沢から七尾へ入る正式な街道が東往来で川原町から鍛冶町を通って街中に入ったんだ。当時七尾のメイン通りだったけど明治三十一年に七尾駅が保健所前のグランドゴルフ場の所に出来てからは本当に賑わったらしいよ。それが大正十四年に七尾駅が現在の場所に移転し、戦後御祓川の中に板を敷いて闇市の屋台が並んでから人の流れが変わったと聞いているよ。

むしろを作る機械メーカーの古田式農機は全国に販売していたし、米、魚、八百屋、雑貨に質屋、荷車、桶屋、医院もあって七尾で一番地価が高い商業地域だったんだ。

川原町交差点の国道は第二次大戦時に七尾駅と矢田新の工場を結ぶ軍事道路として強制撤去で作られたんだ。七尾初の信号機もこの交差点なんだよ。

長福寺と最勝寺の間を「もり屋敷」と呼んでるけど長屋があったんだ。大店と庶民が混在した在所で隣の家へ醤油や味噌を借りに行ったり、電話も店にしか無くて店の人が民家へ「電話~!」と走って呼びに行っていたよ(笑)。

現在の在所

あぐるしい時代になったね。私も電気屋をしているけど、かつては盆暮れ払いの催促無しで人間関係が成り立っていたんだ。今は店と店が潰し合い、みんな損得で動く世の中になって本当にこれでいいのかと思うね。物事をもっと善悪で考えないと人情が無くなるよ。

昔はレクリエーションや旅行、九月に通りを通行止めにして盆踊りをやっていたけど、人口減でどれも出来なくなったんだ。

山王神社の一の鳥居が川原町にあって本来こっちが入り口なんだよ。在所の登口神社も山王さんの境内にあるけど、何があっても青柏祭、祇園祭など宮行事だけはしっかりと伝承して心意気と人情だけは引き継いでいかないとね。

まなかの一言

栄枯衰勢は世の習い
神仏に帰依する心に未来あり


第186回 中能登町瀬戸


在所名の由来

このあたりには朝鮮から伝わった須恵器という陶器を作っていた窯址がたくさんあるんだ。
全国的に須恵器を焼いていた場所の地名に陶(すえ)のつく所が多いらしくてね、
ここも初めは陶戸(すえと)と呼んでいたのが、(せと)になっていつの頃かに瀬戸という字に
変わっていったのでないかと言われているんだよ。

昔の在所

半農半林業で暮らしてきた在所でね、大正時代の尋常小学校の頃から学校林があって、
それが新制中学校にも引き継がれて以後実地教育として植林や下草刈りなどの活動をしていたんだ。
それと卸山という制度があって雑木林のない近隣の在所には薪(たきぎ)を調達する山を貸して
山手米といって御志納を貰っているんだよ。

奈良時代から治安維持の軍団が全国に設置されていくのだけど、能登国の軍団は瀬戸の在所に置かれたんだ。
当時能登の国府は七尾の古府にあり、富来の福浦港には渤海国より船が出入りしていたので、その中間に
位置する要衝だったんだね。その軍団址を実年会が毎年草刈りしているんだ。
名水の湧く十劫坊は畠山家臣の菩提寺だったけど七尾城落城の二十四年前に内紛で焼失しているんだよ。

現在の在所

眉丈山系からの水が良いのでおいしいお米が出来るし、大谷内川にホタルが舞う光景もすごいよ。
二十二町歩の圃場整備も、春先から猛禽類が巣を作り子育てを始めたので工事が少し遅れたけど
今年度に完成するし、環境保全にと今年からヤマメの稚魚も放流したんだよ。
お寺が無い在所なので説教場を作って年三回の朔日講(ついたちこう)を行っているけど三十人以上
集まるので説教に来るお坊さんがお寺より集まるとびっくりするんだ。

今は説教場を取り壊して瀬戸会館に場所を移しているけど班ごとの当番制でお世話をし、
毎年八月二十七日の風の神様、お諏訪様のお参りには一軒一軒が当番制でお世話してるんだよ。
過疎が進み心配な中だけに在所の人が少しでも集まり、盛り上がれるようコミュニティの場を
増やしたいと思ってね、コロナ禍ではあるけど感染予防に気を付けて百歳体操も送迎をして
若い世代も含めて再開したところなんだ。

まなかの一言

豊かな自然と数々の歴史、
のんびり暮らせる素敵な在所。


第185回 七尾市生駒町


在所名の由来

江戸時代には豆腐町だったけど、明治五年に石川県が誕生した時に鹿島郡七尾町の二十四町の一つとして生駒町として改称しているんだね。なんで生駒町となったのか分からないし、豆腐町の由来も定かでないけど、隣の亀山町が味噌屋町だったことから想像すると、城下町時代にそんなお店が並んでいたのかもしれんね。

また町内の区画が焼豆腐を並べたようだからだとか、川沿いに白壁の蔵が並んでいたので遠くから見ると豆腐が並んでいるように見えたからだとかいろいろな説はあるみたいだけどね。

昔の在所

江戸時代には仙対橋に海鼠(なまこ)を商う豪商の塩屋、長生橋には回船問屋の越中屋があり、それぞれの橋が塩屋橋、越中屋橋とも呼ばれたそうだよ。加賀藩時代に七尾は所口と呼ばれていたけど明治八年に七尾と呼ぶようになり、明治二十二年に町村制が公布されたとき最初の七尾町役場が生駒町に置かれたんだ。

明治二十八年の大火では町内が全部焼き尽くされてしまってね。戦時中には北國新聞社前から商工会議所前までの川沿いの道は強制撤去で作られたんだ。それまでは護岸いっぱいまで建物が並んでいて、そんな頃は御祓川も深くて学校橋まで舟が上がっていたし子供は泳いで遊んでいたんだよ。生駒町のちょんこ山の人形は藤原鎌足だけど山車に子供が鈴なりになっていた時代もあったんだけどね。

現在の在所

夜間人口三十五名中、六十五歳以上が十五名と高齢化の町だね。今までは祭りでコミュニケーションが取れていたけど、だんだん参加する人が少なくなってね。それでもせめて祭り気分を味わってもらおうと、ちょんこ山や奉燈祭り当日には町内で料理を作って出来立てを最優先でお年寄りの家に届けているんだよ。祭りの運行で一服する時はスギヨのちくわをみんなに配っているけどこれも生駒町の伝統なんだ。

それと防災総合訓練で市が指定の小丸山城址公園に避難したけど途中で座ってしまってたどり着けない人ばかりなんだ。これではいけないと班ごとに歩いて三分以内の堅ろうで高いビルにお願いして町内で避難所を設けたんだよ。
コロナ禍で世の中が大きく変わっていくだろうけど、来年はすべての祭りが出来るよう頑張っていかないとね。

まなかの一言

この百年で七尾の町は大きく変わり、
人生百年時代、不安と楽しみ入り交じり。


第184回 七尾市西三階


在所名の由来

明治時代に東三階と西三階に分村されたそうだよ。それまでは三階村で二宮川の東西と般若野の出村と合わせて三集落があったことから三階になったという説もあるようだね。

室町時代に現在の東三階を中心に開墾が始まり農民が増える中で、天正八年に二宮川の西側が長連龍領、東側が前田利家領となったので実質的には西三階としては四百四十年の歴史があると聞いているよ。

昔の在所

子供の頃は二宮川でアユ、中川でフナ釣りをし、秋にはみんな稲刈りを手伝い、その田んぼでソフトボールをして、冬は裏山で竹スキーをして自然が遊び場だったよ。そして鞍馬天狗、赤胴鈴之助、矢車剣之助を見てチャンバラをして、力道山を見てプロレスごっこだよ(笑)。

夏には漆沢池で泳いで遊んだけど、この池は約三百年前に作られ周囲二キロもあるんだ。明治二十五年八月炎天下、池の修繕工事中に土手が崩れて人夫十名が埋まり必死の救出をしたけど六名が亡くなるという悲しい歴史もあるんだ。
でも名誉な話もあってね、全国ため池百選に石川県から加賀の鴨池とこの漆沢池が選ばれているんだよ。

現在の在所

毎夕五時に「ふるさと」のメロディーが流れ、まだまだ自然はあるけどいつしかセミの鳴き声が聞こえず、ホタルが少なくなって高齢化も進んだよ。だけど老和会が積極的に活動し有志による景観維持など住みよい町づくりに励んでいるんだ。

在所にある曹洞宗の徳雲寺は高階小学校発祥の地なんだよ。宗派を超え在所の寺として二百四十年以上も西三階の人が支えてきたんだ。今は東京から移住してきた松本好全さんが出家して寺を守る傍ら、地域の人に集まってもらって体操教室やビーズ細工など定期的に開いてくれてね。

高階にはお寺が四ヶ寺あってほとんどはその門徒だけど西三階だけは姓ごとに近隣の十四ヶ寺の門徒に分かれているんだよ。各地から人が集まって来た在所なんだろうね。この春、若者二人が都会の学校へ進んだけど、山青き水澄む故郷が志を果たしていつの日にか帰ってこいよと言っているように思えるし、在所の人々もそう願っているんだよ。

あきこの一言

地域の一員として、地域のために尽くす。
そんな人が集まる高階地区の素敵な在所。


第183回 中島町鳥越


町名の由来

四千五百年前の縄文時代から人が住んでいた痕跡がありますが、いつから鳥越になったかはわからないんですよ。釶打は鎌倉時代に富来院から独立して成り立ったことはわかっていますが。

ひとつ言える事は鳥越という地名は全国に沢山あるけど海に面したところは一つも無くてどこも山の中なんです。鳥が山を越えて飛んで来るような場所が鳥越の由来じゃないですかね。

昔の在所

奈良時代に越中の国司、今でいう県知事みたい人ですが、万葉歌人としても有名な大伴家持(おおとものやかもち)が能登を巡幸したときに七尾から舟で熊木に来てここの道を通って富来から輪島、珠洲へと向ったんですね。その時詠んだ歌、「香島より熊来をさして漕ぐ舟の梶取る間もなく都し思ほゆ」が万葉集にありますが七尾湾を渡る船の中で都を恋しく想ったんだろうね。

鎌倉時代の僧で総持寺の二祖、峨山(がざん)禅師が羽咋の永光寺(ようこうじ)と門前の総持寺を行き来した道を峨山往来と呼んでいるけど、その一部が在所のメイン通りなんだよ。

明治七年には釶打に鳥越小学校が出来て後の釶打尋常小学校になるけど、そこに富来の西海出身の小説家で加能作次郎が若い時に着任して藤瀬の藤津比古神社に下宿して週末にはこの道を歩いて家へ戻っていたんですね。
一本の道からも様々な歴史が見えて楽しいですね。

現在の在所

鳥越川で山鯉を釣って遊んだ頃の昭和二十九年には三十七世帯二百五人も暮らしていたんですよ。それが今では壮年団も解散して二年前から新宮大祭には枠旗や奉燈は出せなくなってね。だけど本社から分霊を宿した御幣が在所で一泊することに意味があるから神事だけは大事に続けないとね。

在所を維持するということは人間がすることだから高齢化の中では出来ない事をとやかく言わない。それぞれが出来る事を無理のない範囲でさせて頂く共同体でなければね。

平成二十七年から棚田土手の草刈範囲を少なくするため鳥越桜花公園を整備していますが、芝桜六千株、アジサイ四百三十本、ツツジ三百五十本、枝垂桜二百六十本とこれからが見ごろですね。

小さな在所だけどみんなの顔が見えるのでまとまりがいい在所なんですよ。

あきこの一言

山里に鳥の声を聞き田園を眺める
古き往来に偲ぶ故郷


第182回 津向町


町名の由来

西暦七一八年、養老二年に能登国が出来た時、能登国の港としての国津(くにつ)を
七尾の港に定め香島津と名付けたそうだよ。
その国津のちょうど向いに位置する在所だったので津の向い、津向と呼ばれたのではないかと
考えられているんだよ。

昔の在所

津向町は海辺にあった十七軒が始まりで半農半漁の暮らしだったんだ。
それが昭和四年操業の岩城セメント子会社の七尾セメントが出来る時に用地買収されて
現在の旧道沿いに全戸移転したんだよ。
そこは小島と津向の地番が交互に入り組んでいるけど町会としては津向町になっているんだね。
セメント工場へ熊淵水上の奥山から石灰石をケーブルで運んでいたけど家の上を通っていたし、
工場にはドイツ製の高い高い煙突が二本立っていたんだ。
当時小学校で家の絵を描かせたら津向の子どもはみんな屋根を白く描いたんだ。
石灰の粉塵が積もっていたんだね。

戦時中にはイセの太陽光発電所の場所に軍隊がグライダー基地を置いて訓練していたそうだよ。
それと旧西湊小学校裏の山を開いて競馬場や射撃場などの娯楽施設があってね、
そこへは常磐町のお姉さんたちも遊びに来ていて当時から津向の若い衆と交流があったんだ。

現在の在所

そんな名残があって今でも秋祭りには神輿を担いで常磐町へ行くんだ。
その時ばかりは台車を使わず威勢よく担いで行くのが慣わしなんだよ(笑)。
青柏祭は唐崎神社のお水取りの神事から始まるけど、その水を津向の「紅葉の池」から汲んでいるんだ。
池の底には五十センチ程の紅葉の形をした石があってきれいな湧水でね、昔は唐崎神社の宮司が
深夜人目にふれないで汲んでいく秘儀だったんだけど近年は日中に行なっているよ。

ここは事業所が多いのでいろいろ協力してもらえるので町会費も年間三千円と安いんだ。
四十年前に在所の風通しを良くするために津友会(しんゆうかい)を発足したけど今でも
二ヶ月に一回集まってわいわいと懇親を深めているんだ。
おかげで総会は和気藹々の内に成立していくんだよ。先輩方が在所の年間行事を絶やさないよう
頑張ってきたので、少子高齢化の中だけど引続きやっていかなければと思っているんだ。

あきこの一言

半農半漁から商工業地域となって、
歴史と近代が交錯する在所。


第181回 能登島佐波


町名の由来

ハッキリした由来は伝わっていないんだ。
ここは山が海岸まで迫って集落が海岸沿いにある在所だけど、
その裏山に笹がいっぱい生えていたことから沖を通る舟や漁師がそれを
目当てにして岸に舟を寄せていたので、笹山に寄せる波がいつしか笹波となり
佐波と呼ばれていったのではないかという年寄もいたけどね。
実際、佐波神社の裏山には笹がいっぱい生えていたよ。

昔の在所

佐波遺跡があるけど、これは六千年も前の遺跡で七尾市内では
最も古い縄文時代早期の集落跡なんだ。
そんな貴重なものとは知らず子供の頃は土器など掘り出しては遊んでいたよ。
明治三十一年から裏山で乾電池を作るマンガンが採掘されていたんだ。
在所の人たちも従事してたけど、ばあちゃんが草鞋(わらじ)の時代に
地下足袋(じかたび)が支給されてとても嬉しかったと話していたよ。
今でも山はマンガンを掘った穴だらけなんだ。

昭和四十一年に七尾の波止場からフェリーが一日五往復就航して
佐波が能登島の玄関口になったんだ。
忘れてならないのが昭和二十年八月二十八日。
勤労動員の能登島や鵜浦の人たちが家へ帰るのに乗った第二能登丸が矢田新埠頭から
佐波の久美に寄って次に向う途中の寺島付近で機雷に触れて爆破したんだ。
米軍が終戦の年に七尾湾に四百個以上の機雷を投下していたんだ。
ドドーンと大きな水柱が上がったと言うよ。佐波の人が舟を出し救助し、
おかゆを炊き出し救援したけど二十八名が犠牲になって浄覚寺前の浜に莚(むしろ)を
敷いて並べられたという悲しい出来事があったんだよ。

現在の在所

寺島、カラス島、嫁島、コシキ島が海に浮かび、「ひょっこり温泉」や
「マリンパーク海族公園」もあり、民宿も三軒あって訪れる人も多いよ。
山を開墾した「のとじまファーム」ではブルーベーリーや野菜を栽培し、佐波漁港から
数人だけど船を出して漁をしているし、近年は数人の移住者が暮らし始めているし、
昔ながらの半農半漁の暮らしが出来る良い所だと思っているんだ。

高齢化が進み現状を守っていくしかないので、神仏に手を合わせ
みんな仲良く暮して行きたいと思っているんだよ。

まみの一言

数々の歴史に人の営みを感じる、
風光明媚な佐波の在所。


第180回 中島町浜田


町名の由来

熊木川河口付近に広がる浜辺を開拓して田んぼにしたことから浜田と
呼ぶようになったと言われているんだ。
鎌倉時代親鸞さんが教行信証をしたためた頃と同時期の古文書に熊木荘の浜田里という
地名が出てくるので、この辺りのことではないかと推定されているんだよ。 

昔の在所

江戸時代後半には稼ぎとして縄やわらじなどが記録されているけど、
わら草履(ぞうり)の産地として古くから「浜田草履」として名を残していたそうだよ。
昭和の初めまでは鉄道が無く、浜田の天神橋下から定期船が出て七尾と結んでいたんだ。
昭和三年に能登中島駅が開設し国道二四九号線も通ったら戦後どんどん人が集まって、
中島町の四十五町会の中で一番大きな在所になっているんだよ。

つの時代かわからんけど二月二十日に浜田に大火があったらしくて、
二度と火を出さないようにと毎年その日には火祭りをやっているんだ。
七月の納涼祭も、かつては熊木川に灯籠を流し、舟を出して奉燈や鉦太鼓を乗せて
川下りをして盛大だったけど、今は残念ながら行われていないんだよ。

現在の在所

ここは牡蠣の養殖業者も多くシーズン中は町内外からカキ貝を食べに
数千人が訪れて賑わっているんだよ。
大雨になると熊木川がよく氾濫するので拡幅工事が行なわれるんだけど、
天神地区の登録有形文化財の室木邸をはじめ十戸ほどが移転しなければならないんだ。
転出を予定する家もあり人口減も心配だけど、一方で十五年前に出来た新興団地の
「向陽タウンはまだ」には在所外から移り住む若い人らも多く、今では壮年団の
主流メンバーとなって祭りや社会体育大会などの行事に頑張ってもらっているんだよ。

熊甲祭りの大旗は町で一番大きく、祭りをしっかりやらなければという自負があるけど、
在所の半分が六十五歳以上と高齢化が進んで運行が難しくなってね。
ひょっとしたら今年の祭りであの大旗が見納めになるかもしれないから
九月二十日にはぜひ見に来て下さいね。
在所が広いので新旧住民の付き合いが疎かにならない為にも祭りは大事な交流の場なんだよ。

まみの一言

見栄も張らず、媚びもせず、
大きな大旗、大らかな在所。


第179回 田鶴浜舟尾


町名の由来

約四百五十年前、織田信長時代の古文書に舟尾という名が出てきているそうだよ。
舟尾水門の辺りを白門場(しろもんば)と呼んでいるけど、昔はこの辺りはまだ海で、
そこに船着場があったそうなんだ。
長右衛門船、弥三右衛門船という二隻の百石船がつながれ、越中と交易していたという記録も
あるので、在所では船着場があったから舟尾になったのではないかと言っているよ。

昔の在所

約百七十年前に肝煎りの佐近四郎を中心に二ノ宮川から灌漑用水を引くため山を貫通するマンポを
造っているんだ。マンポは七十メートルで大小二本あって大きいほうは直径四メートルもあるんだよ。
それで舟尾川が造られて四十四ヘクタールの新田を開発しているんだね。

大正時代から牡蠣貝の養殖も始め生産地として栄えていたようで、多い時で十五軒、
昭和五十七年には九軒あって牡蠣剥きする共同作業場を建ててやっていたけど、
今は担い手がなく一軒もなくなってしまったよ。

それと明治時代は和倉、奥原、舟尾、新屋、川尻、垣吉の在所が集まった
端村(はしむら)だったんだ。その中心地が舟尾で小学校や役場があったんだけど、
昭和十二年に分けられそれぞれ七尾と田鶴浜に合併されたんだね。

現在の在所

ご多分にもれず少子高齢化は否めず、祭りの存続が危ぶまれてきたので、昨年から祭り保存会を
立ち上げて区民みんなで参加して盛り上げていこうということになったんだ。
それと自治公民館行事として三世代ふれあい祭りを開催しているよ。
納涼祭では盆踊りとカラオケやゲーム、飲んで食べてみんなが楽しみ、秋にはグランドゴルフ大会を
やって高齢者が楽しみ、十二月には臼と杵でもちつき大会をやって子供達が楽しんでいるんだ。

平成十三年に田んぼの土地改良した時にグランドゴルフ専用の広場、鶴の里公園を
造ってもらったけど、三十二ホールもある立派なゴルフ場で毎年大きな大会も行なって
近隣からも多くの人が集まるんだ。一昨年から大晦日に神社に初詣にくる人たちに
年越そばを振舞っているんだよ。付き合いが希薄にならないようにあの手この手で
在所の中のコミュニケーションを深めていかないとね。

マミのひと言

大きなマンポで新田開発、
今も力を合わせ志を引き継ぐ在所。


第178回 七尾市国下町


在所名の由来

能登国の国衙(こくが)が置かれたことが由来だとする説があるけど、
そのことが書かれた文献がないので事実かどうか分からないんだよ。

国衙とは日本の律令制において地方を治めるために置いた役所のことなんだ。
近くには国分寺や古府など能登国の中心地があったから、なんらかその一角の役割が
あったかも知れないし、役人が住んでいる場所を国衙と言うこともあったらしいいから、
そこに勤める役人が住んでいたのかもしれんね。
そういえば加賀藩の古い地図には国ケと記されていたよ。

昔の在所

六七三年、延宝三年の江戸時代、この辺りに松が植えられたと記録があるんだ。
これは天領となった下と八幡に接する加賀藩領徳田の各在所との境に双方の在所が
立ち会って百姓が納得の上、境に松の木を植えたんだ。その数二三五本だと書いてあるけど、
徳田地区ではその内の一本を名残の松として八幡交差点の近くにて植えて伝えているんだ。
それで八幡の交差点の地下道が一本松と名付けられたんだね。

多くは百姓をして暮らしていたけど大工も二人いたから在所の古い家は二パターンあって、
二人の大工が建てた家はそれぞれに部屋の間取りが全部同じなんだよ。

現在の在所

平成四年に国下の集会所、さんご会館を建てたんだ。
さんごの由来は当時在所の世帯が三十五軒だったことと、徳田小学校のシンボルで校歌に歌われる
珊瑚樹から名付けたんだよ。

さんご会館では総会をやって、若御講には八田の乗龍寺さんと千野の正福寺さんに
交替で来てもらい、百歳体操は毎週行なっているんだ。それと平成2年に結成したH2の会の
お母さんたちが集まってかぶら寿司や蓬莱を作ったりしているし、お盆の納涼祭には里帰りした
人たちも子供を連れて集るからこの時ばかりは活気があり嬉しいよ。

どちらかというとおとなしい町だけど、その分意見がまとまりやすくみんなで
協力し合っているんだ。平均年齢も六十八歳ともう限界集落やね。
獅子舞も私が中学の時に踊ったのが最後だったなぁ。一度復活を試みたけど結局は続かなかったんだ。
それでも田んぼはちゃんと維持して耕作放棄地を出さないでいるんだよ。
この先のことは分からないけど、隣の千野町さんにそのうち交じてくれと言っているんだ(笑)。

まなかのひと言

小学生の時、一本松地下道を歩き通学
今、その意味を知る。


第177回 七尾市青山町


在所名の由来

昭和二十二年、満蒙開拓団・青少年義勇団の引揚者が立ち上げた自行農事実行組合と地元農家の
二男、三男と疎開者、引揚者の青山農事実行組合が合併して直津と池崎の山を開拓したんだ。
その時の組合名の青山が町名になったと思われるけど、組合名の由来までは聞いてないんだ。

満蒙開拓団

私で三代目だけど、祖父は鹿島町井田の出身で満蒙開拓団の一員として満州に渡っているんだ。
汽車で下関へ向かいそこから船で満州に渡ったそうで母親が泣いて見送ったと聞かされているよ。
満州に到着すると寝泊りする施設も無くマムシが一杯いる橋の下で何日も寝泊りしなければならず
話が違うとみんな泣いたそうだよ。
引き揚げて来る時、馬から落ちて下半身不随になった男を連れて帰ってきたそうだけど、
当時は足手まといになる人間は見捨てることも多い中、その男は感謝して泣いていたと言っていたよ。

祖父の話の端々から満州では想像を絶する苦労があったと思うんだよね。そんな絆で結ばれた
人たちが開拓してくれた在所だけど、今では開拓当時を知る人が少なくなってしまったよ。

当波元造さんに聞く

父の当波与吉は池崎の出身で東京江戸川に住んでいたんだ。
昭和二十年三月十日の東京大空襲に遭い三月十八日に故郷へ疎開し徳田駅から
歩いて帰って来たと聞いとるよ。そしてこの開拓団に加わったんだね。
開拓団が自前で電柱二十本を立て電気を引いたし立山神社も建てたんだ。
当時は食料が無いからまず自給のために働いたんだね。
白菜や大根、ジャガイモ、サツマイモ、麦と何でも植えたんだよ。

時代が良くなると兼業するようになってね、そうなるとここは不便な所で七尾へ八時に着くには
六時半のバスに乗らなければならないんだ。
それで二代目が嫁さんを貰う時にみんな池崎、松百、石崎へと出て行ったんだね。

現在の在所

五十年前に水害防止のためにと開墾した畑に一万二千本の植林をしたんだ。
それを今年の春先に二十日間かけて伐採したんだ。二十戸以上あった家も今では四世帯になったし、
祭りも私が子供の頃にはもうお参りだけだったよ。

栄枯衰勢は世の習いだけど、ここは苦労人が多く、人情味があってみんな優しい人ばかりだったので、
今も住んでいる人は、みんな仲が良いんだよ。

あんなのひと言

生きるために働き、
苦労したから得られるものがある。


第176回 七尾市小池川原


在所名の由来

「こいけかわら」という人もいるけど、在所では昔から「おいけがわら」と呼んどるよ。
ここは大谷川と庄津川に挟まれた川原だったんだ。埋蔵文化財の調査で3m掘ったら大きな松や
杉の根が出てきたんだ。大谷川の氾濫で堆積していったんだね。

そして能越道の下になったけどキレイな湧き水の小池があったんだ。畠山城主の茶会にこの水を
使ったと伝わっているよ。そんなことから小池のある川原の在所が由来だと察するよ。

昔の在所

埋蔵文化財の発掘調査でベルトの金属製バックルが二個発掘されたことから、千二百年くらい前の
国分寺の長官、今で言えば県知事みたい人の屋敷跡ではないかと言われているんだ。
神社の裏山に畠山時代の大きな砦跡があるんだ。加賀方面からの敵を意識して築いた丸山砦で、
一ノ曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪と並び、櫓が建てられ、土塁が築かれていて、相当の武将が
配置されていたと思うね。当時のものと思われる立派な鎧兜が残されているんだよ。

元和(げんな)年間というから約四百年前には源左衛門という人が畑を田んぼに開墾したと
伝えられているんだ。土地が狭いので徐々に近隣の村にも田んぼを持つようになって、
昭和三十年代の米の出荷量は七百三十俵と矢田郷で一番だったよ。とにかく働き者の在所でね、
苦労するから小池川原に娘をやるなと言われていたそうだよ(笑)。
そんな在所なので今でも耕作放棄地が無いことが自慢なんだよ。
勤勉な遺伝子が引き継がれているんだろうね。奥能登で行なっている「田の神様」の神事も
ここでは親の代まで行なわれていたんだ。

現在の在所

昔は古府の山奥で在所が一家族みたいもんで、それぞれが「よぼし子」の縁を結んでいたんだ。
普段は付かず離れずの距離感で暮していても、何かあったらお互いに助け合う関係だったんだね。
冠婚葬祭は在所全員で行なっていたよ。

若い人も遠くに出て行かず近隣に住んでいる人が案外多くて、やる気のある人がいっぱいいるから
新しい形で在所を盛り立てていってもらいたいと思っているんだ。十一月に臼と杵で餅つき大会を
やって世代間の親睦を深めたけど、何かしないと町内が分散していくからね。

まなかのひと言

小さな在所に、いっぱいの歴史。
地元のこと、知らないことばかり。


第175回 中能登町大槻


町名の由来

二つ伝わっていてね。
この辺は邑知潟へ続いた沼地帯で八幡様の入り口あたりに船着場があって多くの船が着いたことから
「おおつき」と呼ばれたという説と、地勢的に西往来から奥能登へ、眉丈山麓から外浦への交通の要衝で
二宮川左岸の丘陵地に土塁跡が見られるように、この辺りには多くの砦が築かれていて中でも大きな砦、
大きな要塞が大塞(おおつき)砦と呼ばれ、その砦の名前が在所名になったという説があるんだよ。

昔の在所

四六六年前、上杉謙信と武田信玄が川中島で戦っていた頃、ここに両軍合わせて一万人以上で戦った
大槻合戦といわれる大きな戦があったんだよ。
遊佐続光と温井総貞、七尾城の重臣同士が対立したんだね。一五五三年十二月二十七日、
田鶴浜に布陣して進撃してくる遊佐軍を温井軍が飯川から大槻まで広がる末広野で迎え撃んだ。
結果は温井軍の勝利、翌日の羽咋一ノ宮の戦いで遊佐軍は壊滅したということだよ。

この在所は眉丈山系に抱かれた台地に位置してきれいな水が湧くことから
中能登町の水源が二つあるんだ。
それで美味しいお米が採れるので昔はほとんどが農家だったね。
平成二十三年の宮中新嘗祭でお供えするお米は大槻の斉田で作って奉納しているんだよ。

現在の在所

大槻の神社は大日霊女(おおひろめ)神社で女の神様を祀ってあるんだ。
そんなわけかどうか分からんけど女性が多い在所でね。昔は七対三くらいの割で女性が多かったよ。
それで槻和会という婿さんの会が作られていて多い時で二十五人もいたようだよ。
五十年の歴史があったけど人数が減ったので今年解散したんだ。

神輿は菊の御紋でね。明治時代に作られているけど、当時は菊花紋使用が厳禁の時代なのに
どうしてそんなことが出来たのか、どんないわれがあるのか今となってはわからないんだ。
神仏に篤い在所で毎年六月二十日に「田休みまいり」が営まれ西の宮で
阿弥陀如来(光)、大日如来(命)、不動明王(風雨)に
秋の豊作を祈る伝統行事があるけど子どもが少なくなってどう伝えていくかだし、
同じように猪対策で電気柵の予算をもらっても人がいないからどうにもならんのだよ。

祭りや防災訓練の他にボランティアの集いという日を作ってみんなで集るけど、
老人社会の中で在所のあり方をどうしていったもんか思案しないとね。

あきこのひと言

古き里に大きな合戦、神仏に手を合わせる。


第174回 七尾市南藤橋


町名の由来

昭和二十五年に藤橋町から分町した町でね。
藤橋町の北に位置するのにどうして南藤橋なのかと言えば、分町する区域の中を更に区分けして
北、南、西と分けたからだよ。だから南藤橋の北に北藤橋町、西側に西藤橋町が誕生したんだね。

ちなみに藤橋は文禄四年、一五九五年に前田利家が小丸山城を作る時そこに住んでいた人を
こちら側に移して、城の外堀に藤の橋を架けたことが由来らしいね。

昔の在所

ここは昭和十年に鉄道公舎が建ってから住宅が増え続けてきたんだ。
それで分町することになったんだろうね。いわゆる新興住宅地で寄せ集まりの在所だったんだね。
若い世代が多いので、とにかく名前と顔を覚えようということでいろんな行事をやってきたんだ。
聖母幼稚園で盆踊り大会をしたり、鵜浦や千里浜へ海水浴に行ったり、町内全域で宝探し大会を
したけど、当時は子供でいっぱいだったからね。

それとこの町は政治家が育つ街かもしれんよ。
かつて市議、県議、国会議員と政治家が出ているからね(笑)

現在の在所

人口がこの十五年間で二百人も減っているんだ。小学生も百人以上いたけど今は三十人ほどだよ。
聖母幼稚園と近くに七尾中学、七尾高校があるので賑やかな感じはするけど六十五歳以上が
百三十八人と高齢化は否めないね。夏祭りにはここで育った二代目、三代目の若い人が帰省して
奉燈を担いでくれるので盛り上がっているよ。

鉄道の電化で奉燈が電線につっかえて三島町の仮宮まで行けなくなったので今は町内を隅々回る
ことにしているんだ。近年は恒例のバス旅行と平成二十九年より百歳体操を週一回行っているよ。
ここは従来からの班が十八、マンション、アパートの班が十五で合計三十三班あるけど、
外国人も多くごみの問題なども含めどう交流するか課題もあるんだ。

それともうひとつ大きな問題が能登唯一の開かずの踏切だね。
回送電車など駅構内での入替などもあり、何分間も踏切が上がらないことが日に数回もあるんだ。
町内の道路は狭いし、踏切を渡れば右折、左折と混み合い、そこに自転車と住民や高校生が並んで
本当に危ないんだ。駅前と駅裏を結ぶ陸橋を架けるか地下道を作ってほしいと町内では願っているんだ。

七尾の中心地をどう描くか今こそ行政と政治が一体となって力を発揮して頂きたいと思いますね。

あきこのひと言

新しい街、生まれて暮せば、
かけがえのない故郷。


第173回 田鶴浜川尻


在所名の由来

明快だね。ここは七尾湾西湾へ流れる二宮川の河口付近に成り立った在所だから、
川の先っぽ、川の尻ってことなんだろうね。それしか考えられないよ(笑)。

昔の在所

古文書からの推測によると関が原の戦いの前後数十年の間に川尻村が出来たらしいよ。
驚いた事に江戸時代から世帯数がほとんど変わっていないんだ。人口は半分になったけどね。

田んぼと漁で暮らしを立てて来た在所で江戸時代には新しく開いた田んぼの灌漑用水を確保するため
八間(十四・五六メートル)の掛樋(かけひ)を川に掛けて用水を渡していたそうだよ。
今は圃場整備をして水は行き届くけど今度は雨水が自然廃水できないんだ。
オランダのように大きなポンプを二台も設置して七尾湾に汲み上げて排水しているんだよ。

明治時代には雑魚やエイ、タコ、立貝の漁業許可を得て漁をしていたんだ。
海は遠浅で子供の頃にはアサリが一杯獲れて海岸で流木を燃やして焼いては食べていたけど懐かしいね。
すだれのように竹を編んだものを設置する「やな」と呼ぶ定置漁法も盛んだったよ。元は端村の川尻で、
明治9年には和倉町の川尻になって、明治十四年から田鶴浜の川尻になっているんだ。

在所の自慢

在所の荒石比古神社は総持寺の山門や東嶺寺を手がけた名工柴田真次が建てたんだ。
莚(むしろ)で囲って完成するまで中を見ることならずで、完成して宮が現れたとき、
あまりに立派だったのに村人は皆ぶったまげたと伝わっているんだ。
この神社は伝承によると神功皇后征韓の帰り嵐で船が難破してここに漂着し、その部将が
垣吉に居住し守護神を奉納したことが始まりでそれを現在地に移しているんだ。
それで神社の扉には菊の御紋が掘ってあるよ。

小学生3人、中学生3人、若い衆3人、残念ながら今年の秋祭りは初めて獅子舞を中止したんだ。
昔は祭だといえば学校も休ませてくれたけどね。今は人足が集るように祭りを土曜日に変更しても
学校の行事や大会と重なって祭りを優先できない時代になったね。
ここの獅子舞は氷見の阿尾の人に泊り込みで来てもらい習った越中獅子なんだ。
獅子が本当に生きているように踊り、かつては鹿島郡の獅子舞大会で優勝したこともあったよ。

職場でもそれぞれが棒を持ち木のコロやカンナを持っては振り付けを練習してみんなが熱かったよ。
そんな時代がだんだん遠のいていくけどしかたがないね。

あきこのひと言

川と田と海に囲まれる在所
人々が由緒ある神社を囲む。