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第167回 七尾市中挟町


町名の由来

はっきりした由来は伝わっていないけど、地図で見ると面積の広い八田町と江曾町にすっぽり囲まれているのがわかるよ。そんなところから考えると両隣の大きな在所のちょうど中間に挟まれた小さな在所なので、中挟と呼ばれたんでないかなぁ。

昔の在所

在所の藤原四手緒神社は元々は第九代当主畠山義綱が建立した由緒ある神社だったんだ。明治維新の神仏分離で御神体の一部が民家に移管されていてね。昭和五十七年に町出身者にも呼びかけて在所一丸となって全面新築したのが現在の神社なんだよ。

小さな在所だけど神事は伝統を守ってしっかり行なっているんだ。伝統行事の虫送りも6月の第一日曜日の午前中に行なっているんだけど、本宮神社からお札を頂いて竹の棒に縛って在所の田んぼ五箇所に立て、そこを太鼓たたいて子供たちが大きな声で「田んぼの虫でてけー」と廻るんだ。
中挟では天保五年の凶作の時、豊作を願って私年号の久宝元年と改元しているんだ。飢饉の時には朝廷の正式な年号を勝手に変えてまで状況を変えたかったんだろうね。昔の人の苦労が偲ばれるよ。

現在の在所

少子高齢化が進み、時代も変わってきたので、昔のまま何も変えずにいる事には限界があると思うんだ。
祭りの世話をする藤神会から神輿を担ぐ人が少なくなったので台車を作ってほしいと町会に要請があったので昨年ついに作ったよ。獅子舞の踊りは男の子だけを貫いているけど、これもいつまで続けられるか時代に合わせて考えていかなければと思うね。

七尾更正園と災害時の協力協定を結んで防災避難訓練も合同で行い、在所は初期消火、避難誘導を手伝い、園には避難場所として給食や給水をお願いしてあるのだよ。七尾更正園の盆踊り大会には在所の人も招待してもらいたくさん参加しているし、なかばさみ里山保存会は田植えや稲刈りなどで交流しているよ。
今年は町会長と理事五名の改選が十二月にあるけど住人の四十歳以上七十歳未満の男女から選挙で選らばれるんだ。誰が町会長になっても、時代を読んで、時代のニーズに合わせて、みんなで明るく住みやすい中挟にしていかないとならんね。

あきこの一言

山の麓、古きを大切にしつつ
新しき時代に向って歩む在所。


第166回 七尾市熊淵町


町名の由来

若い頃に年寄りに聞いたけど、山の中で熊がいたからかなぁと、今ひとつはっきりしなかったよ。
鹿島郡誌によると、昔、荒熊を阿良加志比古・小彦名神が退治したからという説と、高麗(こま)ヶ淵がクマブチに転化した説が書かれているようだよ。

高麗は朝鮮の高句麗のことでそんな文化が伝わっていたのかも知れんね。高麗犬は神仏を守る獣だけど、ここは神仏に縁の深い在所だから高麗ヶ淵から熊淵に転化した説に興味を覚えるんだよ。

昔の在所

熊淵川の下流から生出(おいで)、仏前(ほとけのまえ)、熊淵と川沿いに三つの集落が点在する長細い在所なんだ。この世に生まれ出てから、仏の前に行き、そこを高麗ヶ淵と呼び高麗犬が守護している熊淵。
そんなストーリーを想像するんだよ。在所に伝わる話だけど、昔、仏前は熊淵川を挟んで今の反対側の斜面にあったんだ。そこに祀られていた馬頭観音が、ある晩、庄屋の夢枕に立ち地滑りが起こるから今すぐ避難せよと告げたんだ。

庄屋はその言葉を信じて住民を起こして向かい側に避難したら、その直後に大きな地すべりが発生して集落は壊滅したんだ。その馬頭観音を三十三年に一回御開帳して今も大事に祀っているんだよ。
十九年前に百二十名分の芳名録を用意して御開帳と稚児行列をしたけど、当日は県内外から七百名以上が参詣に来たので住職もビックリしているし、なぜこんなに人が来たか今でも不思議でしょうがないよ。
富山に出稼ぎに出る人が多く父親も黒部ダムが完成するまで出稼ぎに出ていたし、中三の時に熊淵川が氾濫して橋が全部落ちて黒崎の涛南中学から帰れなかったこともあったよ。

現在の在所

獅子舞を保存するため在所を出た若い人がいつでも気軽に里帰り出来るようにと山吹会を結成し飲み会など交流を続けてきたけど、そのメンバーも年老いてついに祭りが出来なくなったんだ。存続が危ぶまれた頃に宮を出る所から戻るまで全部ビデオ撮りしたんだよ。

今は春祭りには老いも若きも、男も女も全員参加で集会所に集まりそのビデオを観ながら酒を飲んで一日中ドンチャン騒ぎをし、秋祭りは囲炉裏が切ってある神社に女の人も上がってお供えの鯛を骨酒にして和気藹々と祭りを楽しむんだ。
顔を合わせることで状況も分かるし普段の会話も取りやすくなるからね。在所の存続を担う若い人に熊淵の団結力を繋いでおきたいと願っているんだよ。

あきこの一言

山間に団結する小さな在所、
神仏に護られ今に暮す。


第165回 七尾市和倉町ひばり


町名の由来

元々は和倉温泉に通じる昔の細い県道沿いに田んぼと珪藻土の山があった場所でね、その山にひばりが沢山いたことから地元ではひばり山と呼んでいたんだ。その山を拓いて区画整理したときに山の名前にちなんで、ひばりと名付けたんだよ。

昔の在所

ひばりという町が出来る前はここに住む人は和倉東、石崎、奥原などバラバラに所属していたんだ。
石崎和倉土地区画整理組合が立ち上がって区画整理が行われ、三十二年前に一つの町が誕生したんだね。当時の制度は区画整理地の中に田んぼを残すという制約があったんだ。

おかげで現在和倉地区に田んぼのある町は、ひばりだけなんだよ。私が初代町会長として十二年間務めさせてもらったけど、この四月から二十年ぶりに二度目の町会長に就くことになってね、平成元年、令和元年と時代の移り変わるときになぜだか町会長を仰せつかっているんだ(笑)。
和倉地区では、ひばりの後に光陽台、泉南台と区画整理された町が誕生していくんだけど最初に町会長をした当時は六十四世帯だったよ。現在はアパート十六棟も含めると二百四十九世帯と四倍に増えているんだ。それでもまだ土地はいっぱいあるから歓迎しますよ(笑)。

現在の在所

和倉小学校もここに移転して、かんぽの宿の跡地に足湯のある広々とした公園が出来て、県道と市道が通り住みやすい街になったと思うよ。和倉には、よさこい、花火、マラソンと大きなイベントが行われるので、町会としても和倉観光協会の会員となって応援しているんだ。単独の行事は親睦旅行ぐらいだけど和倉校下の行事には全部参加しているし、祭りは和倉小比古那(すくなひこな)神社の氏子で、和倉八町会全体で春と秋に神輿と獅子舞で和倉全域を回るんだ。

初代町会長の時、いつかは集会所を建てなければと基金を作って積立ててきんだ。大きな集会所まではどうかと思うけど、ひばり町内会事務所として今年あたり建設が出来ればいいなと思っているんだよ。新興の町だけど住む人みんなが愛着と誇りを持って、型苦しくならず気楽に和気藹々と、規律を守って協調して暮らしていける町会でありたいと願っているんだよ。

あきこの一言

小鳥の声、爽やかな風、足湯につかる
あぁ~いい気持ち、 ひばりの在所。


第164回 能登島須曽町


町名の由来

弘法大師空海が教えを広めるためこの地に来た時、在所を流れる衣川に遡上する鮭を所望したところ、村人がこれを拒んだら「衣川裾ほころびて鮭もあがらず」と詠じたことから、裾の「すそ」が地名の由来だと伝わっているんだ。
事の信憑性はわからないけど、欲深いと結局は本当に大切なものを失ってしまうから、あまり欲なことはしてはいけないよという教えだと思うね。驚いたけどその衣川に昨年鮭が遡上してきたんだ。吉報だね(笑)。

昔の在所

ナマコ漁と田んぼで暮らしてきた半農半漁の在所でね、衣川のお陰で水は豊富なんだけど離れた田んぼに水を回すため、山に二箇所マンポを掘って用水を通しているんだ。家の裏山に横穴を掘ってあるけど、そこから滴り落ちる一滴一滴の水を貯めて飲み水にしていたし、雨が降れば屋根からの水をバケツに入れては風呂に運んだよ。

昔は須曽の松茸は有名で沢山採れたんだ。しいたけくらいの扱いで味噌漬けにしていたけど本当に美味しかったなぁ。
観光客を入れて松茸狩りをやったら、あっという間に無くなってしまってね。十五年前に松茸再生事業に取り組んだけど上手くいかなかったよ。能登島大橋が架かる半浦の山は断崖絶壁で山肌が見えるけど、あれは山を崩して七尾港の埋め立てに運んだ跡だと母から聞いたよ。

現在の在所

須曽蝦夷穴古墳が昭和五十六年に国指定史跡になり、平成元年から整備されて綺麗になったけど、子どもの頃は鬱蒼と茂っていて、夏休みの夜に分校裏の細い山道を登って肝試しした遊び場なんだ。古墳は七世紀頃のもので雌穴と雄穴の二つ石室があって珍しく、構造も朝鮮半島の高句麗古墳に似ていると言うので渡来人の有力者の墓かもしれんね。
石室に積まれていた安山岩は、たぶん在所の岬「ゲンロク」から運んだと思うよ。そこは板状の石がカパカパ剥がれるので在所の人も剥がしてきては庭や玄関に敷いていたんだ。

老人の在所になったけど地域づくりは経済中心に考えんでも良いと思っているんだ。
分校時代は雪が降ればソリを作り雪を踏み固め一日中ソリで遊んで、暑い日は海で丸一日遊んでいたけどそれが授業だったよ(笑)。里山里海の中で欲を持たずのんびり落ち着いて暮していく幸せもあるので、今のこの良い雰囲気が継続できればと思っているんだよ。

あきこの一言

朝鮮文化が伝来し、海上交通の拠点となり
歴史を生き抜き、今穏やかなる須曽の在所。


第163回 中島町上畠


在所名の由来

虫ヶ峰山麓のなだらかな傾斜地に畑が連なり集落まで続いているんだけど、
集落の上に畑が連なる景観から上畠となったようだね。

昔の在所

釶打地区で一番畑が多い在所でね、稲作するには水不足で昔から畑で暮して来たんだ。戦後は横田や町屋の畑を借りてまで、葉たばこ、大根、白菜、スイカなど作付けしていたし、中島菜を商品化したのもここなんだよ。昭和三十年代、政府の所得倍増計画で世の中みんな勤めに出るようになり、釶打を出たバスが横田で満員、列車も中島駅で超満員、奥吉田の坂を上がらないほどだったんだ。

そんな時代でも上畠では先祖が苦労して拓いた畑を維持するため勤めに出ることが出来ず、それで大工や左官の仕事をしながら畑をしていたんだね。平成四年当時でも二十四軒中、十一軒が大工だったよ。
今となれば結果的に良かったと思うね。昭和五十二年に上畠農業機械利用組合を発足、現在は「農事組合法人なたうち」として田んぼ、畑、採れた野菜の加工品や味噌なども販売もしているんだ。大工が多いので格納庫や出荷場、ライスセンターなど夜なべしながら自前で建てたよ(笑)。
今日まで営農組織を四十二年間も続け、田んぼも二十二町歩あるけど、休耕田が一つも無いことが誇りなんだよ。

現在の在所

昨年神社を建て替えたけど、みんなで十五年以上貯金してきたんだ。農業で結束し、もう一つ祭りで団結力を高めているんだよ。九月二十三日の新宮(しんごう)の祭には金沢大学の学生に来てもらい枠旗を担いでもらっているし、八月十四日の「お涼み」の奉燈の灯りはろうそくを替えながら「やんさこ」を唄い情緒豊かに行なっているんだ。

小さな在所なので明治時代から横田と「ゆい」を結んでいるんだよ。農業の担い手不足が心配される昨今だけど、金沢のボーイスカウトが毎年田植え、草取り、稲刈りに来ているし、 ターンや移住者など若い農業従事者が増えているので嬉しいね。昨年も京都と大阪から移住希望の若い女性が農業体験に来ていったよ。高齢化は否めないけど住み慣れた故郷で、みんなで住み続けられればと願っているんだ。

あきこの一言

時流に乗らず田畑を守り続け、
結束力で新たな時代を拓く上畠。


第161回 中能登町末坂


在所名の由来

鳥屋地区には須恵器(すえき)の古い窯が百以上見つかっていてね。須恵器とは朝鮮半島から伝わる土器で、この辺りでは北陸でも早い時期の六世紀初頭頃から生産され、以後四百年以上須恵器の生産が続いていたそうだよ。
全国の須恵器の生産地に「陶(すえ)」の字を使った地名がよくあるそうで、ここもそうなんだね。
そしてここは台地に集落が形成されて来たことから陶坂(すえざか)と呼ばれるようになって、いつの時代かに末坂に転化したのだろうと言われているよ。

昔の在所

昔は農業と山仕事をしていたと思うけど、明治二十二年に鳥屋村役場ができてから鳥屋の政治的中心地になって、旧道沿いには銭湯に食料品、雑貨や洋品店、食堂、飲み屋、駄菓子屋などが並んでいたんだ。織物工場も沢山あって青森、秋田、岩手から集団就職で若い女工さんもいっぱい来ていたので賑やかな在所だったよ。

集団就職は昭和三十年代まで続いて、良川駅に列車が到着すると旗を振って出迎えたんだ。当時の粋の良い若い衆は女子寮を覗きに行っていたらしいよ(笑)。町と商工会が尽力して女工さんのために七尾城北高校に鹿西分校を開設してもらったんだ。

在所の六地蔵には云われがあってね、これは明治時代には避病院(ひびょういん)が建てられたそうで、今で言う隔離病棟やね。当時コレラや赤痢などの伝染病は死に至る病気で、亡くなる人も多かったので火葬場の近くに建てられたそうだよ。そんなことで在所では避病院の近くに六地蔵を祀り亡くなった人をとむらったそうだよ。

現在の在所

昭和61年に役場が新庁舎に移転したら在所の中が寂しくなったよ。旧役場跡地のミニパーク広場で夏に盆踊りをやるんだ。前は青壮年団が主催だったけど負担が大きく中断したので、2年前から在所が主体になって復活させたんだ。

旧鳥屋町の時は地区対抗の運動会があって在所が結束したけど、三町が合併してから地区対抗の行事が無くなり、少子高齢化も重なって結束力が弱くなったね。だから出来るだけ住民が集う機会が必要なんだ。秋祭りは小中高生と青壮年団が総出でやってくれるので心強いよ。今年から圃場整備の工事に入るのでその取組をしながら、調和を保って結束していきたいね。

あきこの一言

眉丈山系の山麓の台地、須恵器を焼き、
織物で栄え、結束を誇ってきた在所。


第160回 中島町豊田町


在所名の由来

隣在所の豊田から分村したんだよ。鹿島郡史によると鎌倉時代に加賀国豊田村から豊田弥二郎光忠という人が移住して開発領主となったことから、この辺りを豊田というようになったらしいね。
その豊田の端にある日吉神社の前に、毎月16日に市が立ち人が集まりだしたんだ。それでここを豊田の中の賑やかな所、豊田の町と呼ぶようになり、分村して豊田町となったのだよ。
ちなみに9月の六保祭は市が立った16日に行なわれていたんだけど、今は人足不足で9月の最終土曜日に変わったんだ。

昔の在所

日吉神社を中心に役場、小学校、中学校、農協、郵便局など主な施設が集まり、近隣の在所から二男坊や三男坊が来て住むようになったんだ。津波の避難場所となっている殿の芝(とんのしば)には在所の4本の道が集結しているけど、子どもの頃はここで竹スキーをして遊んだよ。

県道が通ってない時代は殿の芝から若狭堤の横の山道を通って土川、外原、富来の日用の在所に通じていたんだ。
在所の半分は富来の日用の松尾寺の門徒で日用とは縁が深かく、山から木を運搬する人夫を日用と呼んでいたくらいだよ。目の前に的場孫三が拓いてくれた140町歩の豊川平野が広がるけど、ここは分村したので農地が少なく山田を拓いても五反百姓が多く、農業で食べていけないので和倉のイソライト、富士断熱工業、日の丸窯業に多くの人が勤めに出ていたんだ。それと学校の先生になった人が多い在所やね。

現在の在所

豊川地区は公民館活動が盛んなので、高齢化が進む中で地域の住民とほど良い人間関係を維持して、住みよい豊田町が続くよう努力したいと思っているんだ。4月の桜まつりは、日用川の両岸800mに実年会が植えた桜を眺めながら子供からお年寄りまで集って川下りを楽しむのが恒例なんだ。

6月最終日曜日には六保の納涼祭のしらいの前に故郷の恩人、的場孫三の顕彰碑の前で玉串奉奠して祝詞を上げてお参りし、地区の敬老会では婦人や壮年団長など集まって演芸をしたりして、みんなで心からお年寄りをもてなしているんだよ。在所の中では散歩に出て触れ合える場として殿の芝に桜を植えベンチも備えたんだ。人情を大切にして末永く暮していかんとね。

あきこの一言

往時を偲ぶ宮の前、殿の芝に通ず小路を上る。
穏やかに流れる空気と人情、豊田町の在所。


第159回 七尾市清水平


在所名の由来

伝わっている話だけど、七尾城でお茶に使う水を馬に乗ってここまで汲みに来ていたそうだよ。
ここは山中に清水が湧き出ていて、昔から今でもその水を在所の生活用水として使っているんだよ。城山に近い山方(やまかた)の在所は戦禍で在所中が焼き払われているそうだけど、
ここは水源のひとつだったことから狙われたというふうにも聞いているんだ。

昔の在所

元々十三軒の在所に明治時代に庵から鷲尾さんが入って来て十四軒の在所になったんだ。人口は明治時代がもっとも多く百七人と記録にあるけど、私が子どもの頃でも八十人は超えていたよ。
清水平は山方四ヶ村の小栗、柑子山、麻生の真ん中に位置するので明治十四年にここに小学校が出来たんだ。清水の湧き水をポンプで汲み上げて使っていたね。直線で50mの運動場もあったけど今は竹薮になっているよ。

尋常高等小学校に進むには庵まで出なければならなく山方四ヶ村の子どもは遠いので、在所の平山さんが佐々波の飯山さんを先生に向かえて自宅前に塾を作ってくれたんだ。ところが在所のお地蔵様がちょうど塾の軒下になってしまい移設したんだ。その時に私の祖父さんの弟が大工をしていたもんだから祠をこしらえてくれたんだけど、そんなご縁もあって今は私の家でお守りしているよ。

九州に嫁に行った娘が気にかけてくれて昨年石の祠に建て替えてくれ新しくなったよ。十四世帯という数は全員が協調しないと在所が持たなくなるので、そのための知恵だと思うけど、人の道を踏み外さないよう戒めの賞罰台帳をつけていた時代もあったんだよ(笑)。

現在の在所

昨年まで三世帯六人だったけど、だんだん寂しくなってね。八十歳を回って昔の事を思い出す事が増えたけど、岩田さんとなんとか清水平で暮らしを続けていると言うことだよ。
十年前、七尾で五人が最初に猪を捕獲する免許を取ったけど私もその一人でね。体長80㎝以上の猪を県と市とで一頭一万円で買い取ってくれるので檻を三つ仕掛けているんだ。これが唯一の現金収入だよ(笑)。
一番の気がかりは在所の土地がどんどん荒れていくことなんだ。牧草地にして木が生えないようにしておきたいと思うけど…。まぁ、時代の流れに身を委ねていくしかないようだね。

あきこの一言

人は営みを続け時代を生き抜く
今を生き抜く2世帯が暮す在所


第158回 七尾市小島町二丁目


在所名の由来

昔この辺りは海でね、山の寺の妙観院の観音堂が建っている小山が実は海に浮かぶ小島だったんだ。
地層がむき出しているからその地肌を見ると海の中にあったことがよくわかるよ。
そんな小島があったのでこの周辺が小島村と呼ばれたんだ。

昔の在所

小島村の発祥は七軒からだそうだよ。明治22年に津向、赤浦、松百、新保、祖浜と合併して西湊村となってから小島に人が増え続けて、何をするにしても他の在所とのバランスが取れないという地域事情で昭和25年に桜川の方から一丁目、二丁目、三丁目と分割したんだ。

山の寺寺院群も小島地内にあって、かつて29あったお寺も現在は一丁目に6つ、二丁目に7つ、三丁目に3つと16ヶ寺になっているよ。山の寺は約四百年前に前田利家が小丸山城を建てた時、いざと言う時の防御陣地となるよう配置されてどのお寺からも小丸山城が見え、城と寺をつなぐ秘密の道もあって、お姫様が寺に遊びに行くときは、そこを通っていたそうだよ。
平成16年にバイパス道路建設に伴い埋蔵文化財の調査をしたら木製の人や馬、刀や弓、舟の形の祭祀具が千点以上も出土し8世紀から12世紀頃に、ここで祓の儀式が行われていたことがわかったんだ。

現在の在所

一致団結して色んな行事を行って来た在所だけど、近年は休日の楽しみ方の変化などで、行事参加も減少気味だし近所付き合いも希薄になってきたように感じているんだ。高齢化も進み安全安心の確保もこれまでの対応では限界に近づいてきているので、高齢者にはどこへ行くにも自分の名前と年齢、連絡先を書いた紙を持っていてとお願いしているんだよ。

そんな中でも壮年会が毎年5月にプランターを全戸配布してベコニアの花を咲かせてもらい11月に撤収し、総会や運動会には全員の食事を女性会が手作りで用意してくれ、お祭りでは子ども会が樽神輿で町内を回るんだ。
そんなそれぞれの姿を見ると本当に有難いと思うし感謝しかないね。老いも若きも同じ地域で生きる者として夢と誇りを持ちこれからも全員野球でこの町を支えていければと願っているんだよ。

あきこの一言

千年前に御祓いの儀式を行い、
四百年前にお寺が並ぶ。
神仏のご縁深き在所、ゆえに栄えあり。


第157回 七尾市藤野町


在所名の由来

町の旗も神輿の幕も藤の花で「の」の字が描かれているんだ。
昔は矢田郷村の在郷で青い藤の花があちこちに、たくさん咲いていたことから
在所の名前になったと言われているんだ。

昔の在所

東部中学校を建設するとき埋蔵文化財の発掘調査をしたら、遺跡が出て二千年前の供養塔を始め弥生時代の住居跡があったんだ。そんな古くから先人が暮らしていたんだね。

明治12年頃からナス栽培が始まり大正時代に藤野ナスという優良新品種が作られたほど園芸作物が盛んな在所だったんだ。私が子どもの頃も沢山の家がナスを作っていてキュウリやカボチャなどとリヤカーに載せて毎日市内の得意先へ売りに行っていたよ。そんな光景が昭和30年代まで続いていたと思うね。

耕地整理も早く昭和4年に完成し9割方の田んぼが200坪になっているよ。
昭和25年に農業試験場跡に二軒長屋の市営住宅26戸が建設され、平成3年に東部中学、平成11年11月11日にナッピーモールがオープンして一挙に市街化が進んだよ。
平成18年から159号線の拡幅工事で立ち退きが始まり、七尾唯一の4車線で中央分離帯のある立派な道路が出来たけど、これは住む人にとっては案外不便になってしまったんだよ。

現在の在所

少子高齢化の中で町内をいかに結束維持していくかが大きな課題だね。全世代を通じて在所が振れ合えるのは祭りだと思うんだ。
小さな在所の起爆剤になればと昨年10月に100年ぶりに神輿の修繕をしてピカピカの神輿で町内を回ったけど良かったよ。御招待の家では最後に七尾まだらの唄と踊りも子供たちで披露するんだ。

それと明治元年より藤野町で住んでいて亡くなった人の追善供養を毎年2月に若衆御講として執り行っているんだ。
現在までに487人の法名と命日、俗名を書いた掛け軸があり二幅目になっているよ。
神社の一音観音は一言観音とも呼ばれ、1回の願い事は叶えてくれると言われているので毎年受験シーズンにお参りにくる人がいるよ。但し2回は聞いてくれないんだ(笑)。近くに店が並び、中学生の声が聞こえ、住み良い町になったことに感謝して、次世代に藤野魂を繋いでいかんとね。

あきこの一言

先人を偲び、知恩報恩の心を繋ぐ、
藤の花、咲き乱れし在所、今も輝く。


第156回 七尾市盤若野町


町名の由来

今から344年前の江戸時代、延宝3年の文献に盤若野という文字が出てくるそうだよ。昔、ここに高麗人の集落があって須恵器や埴輪を焼いていたそうなんだ。それでここが埴屋野(はにやの)と呼ばれ、盤若野となったという説があるようだね。この辺り一帯で焼き物に適した粘土が採れ、瓦工場がいくつもあったのは、そんな名残なんだろうね。

大正10年に池崎の瀧の谷内坊山の裏手に発見された陶窯跡は江戸天保年間に越前から来た三郎右エ門という人が、瓦を焼いた窯だと言われているんだ。

昔の在所

在所の田んぼは5年前に圃場整備が完成したけど、それでも深い所があるほど昔から沼田だったんだ。三代将軍徳川家光の時代に中島の熊木郷から三輪重助という人が、命によって入百姓として盤若野に来て沼地開墾に努力してくれ、当時94石だった村高を305石にまでにしてくれたんだ。おかげで潤った在所はお寺を改築したり敷地を寄進したりしているんだよ。

小さな在所だけど酒蔵を持つほど財を成した地主もいたし、祭りになればオヤッ様が小作にご馳走を振舞っていた時代が続いたんだ。子どもの頃田んぼには小さな浅い池がいくつもあって、どぼどぼだけどその上にナマズがいて捕まえては遊んでいたよ。機場も5軒あって夕方学校からの帰り道に明るくて音がしているので安心感があったね。それと昔の盆踊りでは、足をけっころがして踊る鈴木主水が流行っていたなぁ。

現在の在所

高階地区の中でも一番高齢化率が高い在所になってしまったよ。昔は子どもだけでも100人以上いたのにね。今小学生が3人だよ。それでも秋祭りには獅子舞を出しているんだ。子どもがいないので大人が踊るんだよ(笑)祭りとは自分達が楽しむことなんだ。昔は貧しくて閉鎖的な暮らしの中でも祭りになるとみんなが集まって、一杯飲んで楽しんだんだ。伝統は続けられるうちは少し無理をしてでも続けんとね。ここは伊久路から習った越中獅子で、衣装や烏帽子も婦人たちの手作りなんだ。

4年前からお盆には世代間や里帰りした人も故郷の人たちと顔を合わせられるようにと焼き鳥、焼きそば、流しそうめん、カキ氷など模擬店を出して夏祭りも始め、平成元年に神社を、平成16年に善行寺の本堂を建て替え、平成20年に集会所を新築、みんなで協力して一生懸命、今を頑張っているんだよ。

あきこの一言

暮らしの中に楽しみを作り、
仲良く暮す盤若野の人々。


第155回 中島町宮前


町名の由来

お熊甲大祭、通称二十日祭りの本社前にある在所だから宮前なんだよ。七尾市と合併前は、宮の前だったんだ。七尾市になって宮前(みやまえ)になったけど、中島の人は今でも(みやのまえ)と呼んでいるよ。

お熊甲祭り

熊甲祭りの本社の正式名称は久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしひこ)で、これは日本で2番目に長い名前らしいね。ちなみに1番は奈良県明日香村にある神社だそうだよ。

9月20日には19の末社から猿田彦を先頭に、鐘、太鼓に神輿、枠旗が集まる能登の奇祭の一つで、七尾市ではいち早く昭和56年に国の重要無形民族文化財になっているんだ。

祀ってある神様は3世紀から4世紀ころの朝鮮の王族だとも言われているけど、祭りの原型はもっと古く、紀元前の中国、殷、周の時代にあると横田在住の篆刻(てんこく)作家の大場さんが断言していたよ。それは大場さんが篆刻の漢字を調べていた時に、青銅器に彫られた金文で篆書体の中で一番古い形に、熊甲祭りの枠旗と同じような、どぼんこをつけた枠旗を人が担いでいる象形文字のような、旅という字を見つけ驚いたと言っていたよ。

もともと旅と言う字は軍列を意味して、旗を掲げて多くの人が他所に出向くということだそうだよ。それで昔は五百人の軍隊を旅団と言ったのだね。そういえば祭り道具も槍や薙刀、弓矢など武具を揃えて行列しているし、釶打地区の新宮祭は出陣の太鼓だと言われ、熊甲祭りは凱旋の太鼓だと言うから、昔は五穀豊穣を祈るのと違う意味があったのかもしれんね。

現在の在所

3年前に青年団と壮年団を解散したんだ。高校生以下が4人しかいなく高齢化が進んだよ。年に1回の防災訓練を兼ねてグランドゴルフ大会と懇親会をしているけど、あと特別何かをという事はないよ。

ただ二十日祭りだけはお膝元なので頑張らないといけないね。宮前の太鼓は在所で一人の女子中学生の友達に応援に来てもらっているけど、可愛い子ばかりで祭りの華になっているよ。露天も昔は100店は並んだけど今はだいぶ減ってしまって寂しいよ。宮前は熊甲を核にして売り出すことが出来ないのか、知恵をだす正念場だと思っているんだ。

あきこの一言

古代からの神事と祭り、
宮前の空に映える真紅の大旗。


第154回 七尾市神明町


在所名の由来

安土桃山時代に建てられた神明神社が現在の興能信用金庫付近にあったんだ。この辺りは府中のはずれ、矢田郷村、所口村の境で一帯は田畑か未開の土地だった所だよ。畠山義綱の書状にも神明之地を占拠したが反撃にあったと書いてあるのは、この辺りのことだと思うよ。

明治42年発行の七尾町図には、ここは矢田郷村の田んぼでまだ町は無いけど、大手町通りの一番端に神明神社と記載されていて、当時から「神明さん、神明さん」と呼ばれ親しまれていたようだよ。昭和25年の新市制の町名変更で神明さんのある町として神明町が誕生したんだね。神明神社は明治6年に松尾神社と改称し、昭和46年に所口町に移転しているんだ。

昔の在所

大正14年に七尾駅が今の場所に来たけど昭和の始めはまだ寂しい場所でね、ここに嫁いできた娘は、こんな恐ろしい所に嫁に来たと言っていたくらいなんだ。流れていた川はきれいでね、フナ、どじょう、うなぎも獲れたしイサザまで上がってきたんだ。

昭和20年代にバスターミナルやグンゼの織物工場も建ち、ローラースケート場まであったんだよ。グンゼの工場は2階が養蚕で絹糸を紡いでいたけど、そこの高い煙突に登って怒られた思い出があるよ(笑)。昭和30年代からの高度成長期が始まり、映画館のオリオン劇場がオープンし、割烹秀よし、純喫茶エンゼルなど飲食店や医院も並んで、七尾の玄関口、政治経済の中心地になっていったんだ。私の家も焼きまんじゅうにお菓子や果物など売っていたけど、小売店はどこも午後10時まで店を開けていたよ。一杯飲んだ人たちが、列車やバスの終電まで馴染みの店に顔をだして時間待ちしていくんだよ。

現在の在所

ミナクルが建って垢抜けた感じもするけど、町会としては65歳以上が半分以上、冠婚葬祭を互助できない限界集落だよ。未開の寂しい場所が、七尾一の繁華街になったと思ったら限界集落の要件を満たし、短い歴史の中で栄枯衰勢を体験してきた町だね。

ここで暮らしてきたから感じるんだけど、七尾は駅前を核に中心市街地と連動する超コンパクトシティーを早く形成させなければならんと思うよ。ますます高齢化が進む時代にどう暮らすのか、市全体でビジョンを掲げて町を再生させないと、どうにもならんよね。

あきこの一言

栄枯衰勢は世の習い。
時代の中で知恵を出し生き抜く


第153回 中能登町 能登部上


在所名の由来

鎌倉時代の古文書で能登部村という文字が初めて出てくるようだけど、雨の宮古墳があるから古墳時代から人が住んでいたことは確かだよ。野球部やサッカー部など部とは集団を意味する言葉でね、数軒ずつが点在して暮らしていた時代に、何か目的をもってかなりの人数が集まっていた場所だと思うんだ。

山の頂上にあれだけ大きな古墳があるから、当時能登を支配していた王がいたと想像できるので、かつてここが能登の中心地で多くの民が暮らしていたのではないかと思っているんだよ。

雨の宮古墳

子どもの頃はあれが古墳だとは知らんかったよ。山のてっぺんに土俵があって毎年8月14日に相撲大会をしていた場所なんだ。その山が前方後方墳で能登最大級の古墳だと言うので驚いたよ。

能登部神社の3代前の宮司で、能登部町史を編纂した清水一布さんが何かを感じられて県に調査を促したんだ。県と明治大学が平成4年から本格調査を始めたら、すでに誰かにほじられていたことがわかったんだ。国の重要文化財になっている神獣鏡など、副葬品まであと数十センチで手が届くところまでほじってあったそうだよ。

今は綺麗に整備されて多くの観光客も訪れているし、14年前から雨の宮を護る会を結成して、毎年古墳まつりを行っているんだ。

在所の今昔

まだ誰も織物に携わっていない明治時代に、当時24歳の丹後徳蔵さんが手織12台の機業場を創設したんだ。幾多の苦労を乗り越えて大きな会社に育て上げ、中能登の繊維産業のパイオニアだよ。そのお屋敷が町に寄贈されていて国の登録有形文化財にも登録されたんだ。今、趣ある通りを文化財にしようと文化庁に申請する準備をしているけど、その要の建物なんだよ。

11月19日の夜、この通りを密かに歩く「ばっこ祭り」があるよ。能登部神社の男神が、隣の西馬場の愛宕神社の女神を迎えに行き、能登部神社奥の院へ連れて入り逢瀬を楽しむんだ。行列は無言で、行列を見た人は目が潰れると言われているから犬が鳴いても人は誰も出てこないよ。足跡から女神を連れていったことがばれないように帰り道はわらじを前後逆さまにして履くけどこれが痛いんだよ。あの痛さは履いた者しかわからんよ(笑)。歴史ある在所なので一丸となって末永く栄えていく努力を続けないとね。

あきこの一言

神がいて、王がいて、民が暮らす
悠久の歴史の中に活かされ、今を生きる。


第152回 能登島町 閨


在所名の由来

昔は閨と無関が一つの村で、室町時代の古文書には禰屋牟関と書かれているようだよ。閨の入り江の中にある鴫島で行者が寝ながら行う心行をしていたんだ。それで臥(ふせ)行者と呼ばれ、その場所には今でも行者が寝ていたと思われる石畳が残っているよ。

鴫島は今陸続きになっているけどそこを行者鼻と呼んでいるんだ。行者が寝て修業していたので寝屋とも呼ばれ在所名の由来になったようだね。

昔の在所

島八太郎の一人で水蔵右衛門という人が閨にいたようだよ。子孫は残っていないけどね。元の在所はフィッシングパーク辺りにあったと聞いているけど江戸中期以降に今の漁港のある場所に移ったと思われるんだ。それは閨には古屋八郎兵衛と和田磯五郎の二名が流刑されているけど、今の場所に一番先に入った家が古屋さんだと伝わっているからだよ。

石屋、大工、鍛冶屋、木挽き、桶屋などの職人と半農半漁で暮らしを立ててきた在所でね、昔は鱈漁が盛んで丸木舟を漕いで穴水の近くまで行って漁をして船一杯にして帰ってくるんだ。浜に集まった人がそれを貰って軒下に吊るして干してあった風景が懐かしいよ。

松茸もよく採れてね、在所の松茸山は青年団が管理して山ごと入札するんだ。それが若い衆の収入源で北海道や九州に一週間旅行に行っていた時代もあったよ(笑)。雑苔でも採るように竹かごに一杯採れた松茸は味噌漬けにして、干した鱈とが弁当のおかずだったけど最高だったなぁ…。

各家には田んぼを耕す牛を飼っていてね、子どもは朝と学校から帰ってから餌の草刈りが日課だったよ。これをやらないと青柏祭や明治節に七尾へ出かける小遣いが貰えないんだ。七尾で山藤のうどんを食べるのが楽しみだったよ。

現在の在所

ゴルフ場が出来たり、別荘地が出来たり、道も良くなって働きに出て現金収入を得ることも出来るけど、あくせく働かなくてはならない時代にもなったね。

あぜ道を歩いて学校に通っていた子どもの頃のあのチベットのような情景が懐かしいね。にぐ縄を編んでわずかな現金収入を得て支払いは盆暮れのあんな時代に戻れば良いと思うこともあるんだ。そうは言っても前向きに進まないことにはね(笑)。

今在所では耕作放棄地をこれ以上増やさないためにも圃場整備を進めようと話が進んでいる所だよ。

あきこの一言

鴫島に残る史跡と豊かな自然。
人良し、空気良し、水も良し。


第151回 中島町横見


在所名の由来

伝わっている話もないし、在所事に詳しい人にも聞いたけどわからないんだ。

それでいろいろ考えてみたんだよ。今年は能登立国1300年、越前国から羽咋、能登、鳳至、珠洲の4つの郡が独立して能登國が出来たということだけど、ここは旧鳳至郡と隣接する在所でね。そして在所のほとんどが隣の穴水町曽福のお寺の門徒で、そんな事から想像して地勢的に歴史の中で両隣の在所と上手くやっていくために、横を見ていかなければならんこともあったかもしれんね (笑)

誰か本当の横見の由来を知っている人がいたら教えてほしいんだけどね。

在所の昔

年寄りから聞いた話をいくつか紹介するよ。

幕末の頃、在所に佐野太郎左衛門という侍がいたんだ。新潟から来た武士で外の室木さんからお金を借りて北前船の事業を始めたんだ。新造した北前船の初航海でしけにあい沈没して借金だけが残ったんだ。
この侍は在所のためにも働いた人でね。山と海に挟まれた在所の田んぼは千枚田のような段々の田んぼだったんだ。この田んぼに山から水を引く水路を作るとき、夜、在所の人に高張提灯を持たせて、提灯の高さで勾配の目処を付けて水路の位置を決めていったそうだよ。

もう一つ、田岸との境に臼坂という茂みがあって、そこに天狗様が足をぶら下げて昼寝していたんだ。その天狗様の足を侍の子孫が刀で切り落としたんだ。その時大きい雷が鳴り天狗様は能登島に行ってしまったんだ。その後、侍の家の祖父さんが重い病気になり、何とか治してあげたいと願う孫に、枕の下に仏様を敷いて寝れば治るとお告げがあったんだ。それで曽福の門徒寺に頼むけどそんな罰当たりなこと出来ないと断られたんだ。それを聞いた釶打上畠のお寺が人助けのためなら仏様も許して下さるじゃろと貸してくれたら、なんと病気が治ってね。それで佐野家は上畠のお寺の門徒に変わったと伝え聞いているんだ。

現在の在所

山裾にあった在所に昭和7年鉄道が通ったので全世帯が海岸に移ったんだ。海岸線の曲がりくねった細い道が国道となり、在所の山の殆どがゴルフ場建設用地として買収されたりと移り変わりを感じるね。

人が減っていく中、横見を気に入ったと来年4月に神戸から4人家族が移住してくるんだ。このご時世に明るい話題で嬉しいね。

あきこの一言

お侍と天狗様、小さな在所に面白い話。
歴史の中に活かされて、今に暮らす。


第150回 七尾市古城町


在所名の由来

室町時代の七尾城、戦国時代の小丸山城、二つの城があったけど、古い方のお城があったということだね。ここの大手門跡から本丸へと道が続いているんだよ。

後で七尾へ入った前田利家が城山を使わなかったのは、天然の良港を活用し新しい時代に備えたんだね。琵琶湖畔に信長が安土城、秀吉が長浜城と船での交易で経済を発展させていたからね。

昔の在所

戦乱が終わり、ここ武家屋敷跡に各地から移り住んできたようで、鹿島の武部から来たという話も聞いているんだ。江戸時代には大豆や小豆、大麦や小麦、菜種など栽培し、菜種は所口町の油屋に売って、12世帯、54人、馬4頭と記録にあるよ。
在所の八幡神社は七尾城内にあったものを移したらしいんだ。

年寄りに聞いたけど終戦後に忠魂碑を建て、その後スキー場を作っているんだね。小池川原町と土地を出し合って共同で作ったかなり大きなスキー場で市内から沢山滑りに来たそうだよ。

それと城山展望台が出来た時に殿様の子孫で荏原製作所創業者の畠山一清さんを籠で担いで登り、古城婦人会がめった汁を炊いてみんなに振る舞ったと叔母さんから聞いているよ。

これから

牡蠣棚に使う竹を出していたくらい孟宗竹の林が続き、辺り一面はきれいな畑だったね。今では竹薮は荒れ、畑も山になってしまったよ。そこを大手門跡から続く遊歩道が通るけど、毎年行なっていた草刈もここ数年やれていないんだ。シーズンには学生や家族連れが結構来るので何とかしないとなぁ。山頂の整備と合わせて行政で対応してもらえれば有難いんだけどね。

大正13年に小池川原、古屋敷、竹町の人たちと落ヶ谷の滝で雨乞いした16日目に雨が降ったんで、竜神様にお礼をと、十数人で抱える程の藁で作った大きな大蛇を大谷川に流し、府中の浜に掲げて燃やしてお参りしたと言うよ。そして感謝の不動尊を滝のそばに安置したんだ。真舘精三さんと娘婿の次郎さんが野ざらしではと祠を作ってくれたんだ。

真舘家では毎年11月28日に妙観院さんに来てもらい不動尊をお参りし、元旦は大雪でも不動尊に参詣してからお雑煮を頂くというから、恩を忘れず人知れずお礼を続けている姿に頭が下がるんだ。共助とはそんな精神を一人ひとりが持ち合わせることだと教えられるんだよ。

あきこの一言

在所ごとを我が事とする精神、
歴史ある在所に見習う姿あり。


第149回 七尾市阿良町


在所名の由来

江戸初期の絵図には新町どをりと記載されているけど、その後に阿良町と変ったようだね。たいてい阿良町のルーツは荒れた土地に人が住み新しい町が出来ていく中で、荒町とか新町となって、同じ地名が先にあれば、当て字で阿良を用いたりするみたいだね。

昔の在所

前田利家が作った城下町で商家が多く、明治時代には七尾警察署や七尾町役場もあったけど明治28年の大火で町が全焼したんだ。明治33年に七尾町立商業学校が小島から移転してきたけど、これも明治38年の大火で焼失するんだよ。この学校が後に七尾実業、七尾商業、そして東雲高校となっていくんだね。

明治時代に汽船会社を興し北海道航路を開いて活躍した樋爪譲太郎氏のりっぱなお屋敷があったんだけど、戦後アメリカ占領軍が進駐し昭和25年まで拠点としていたんだ。その跡地に東映の映画館やバーなど飲食店が並ぶ繁華街が出来たんだね。八百屋、魚屋、おもちゃ、貸本、菓子、靴、床屋、うどん、時計、乾物、燃料、豆腐、クリーニング、桶、電気、自転車、産婆、等々この町だけで不便なく生活が出来たんだ。本当に活気があったよ。

お隣が馬車の荷台を作っていてね、私の家の前に馬を繋いで荷台や車輪の修理をしていたよ。そこのおばあちゃんが木屑を燃やした灰でジャガイモやサツマイモをふかしては遊んでいる子供達に食べさせくれたんだ。懐かしいよ。

現在の在所

なんと言ってもちょんこ山かな。本宮さんの春祭りで、米町、木町、一本杉、生駒町、亀山町と六台の山車が出るんだ。昔はしゃぎりは長男しかやれないんだ。阿良町は笛、太鼓は子供で三味線は芸者さんを頼んでいたんだ。酔った大人が芸者さんに花を打ち山車の上も賑やかだったよ。昭和34年頃までは御祓川を渡って東部地区も巡幸していたんだけどね。今は少子化で阿良町ではだいぶん前から録音テープを流して曳いているんだよ。

沢山あったお店もほとんど無くなって昔の賑わいは無いし、空家も増えるし、12班から11班に減らしたところなんだ。そんな中でとにかく出来る事を一つ一つ成していくことが大事だと思うよ。防犯灯のLED化は今年で完了するし、夜玄関を出ると賑わっていた昔よりも明るくなったよ(笑)。2月には臼と杵とせいろを準備して餅つき大会を行なったんだ。

子どもたちに日本の文化を伝えるのと、町内のコミュニケーションを深めるためにね。参加できないお年寄りにはあんこときなこの餅を届けて絆を確認するんだよ。大切に残すもの、変えていくもの、今まで以上に求められる時代になったようだね。

あきこの一言

中心市街地の今昔、時の流れに添い暮す。
いつの世も、幸せは己の中に見出すもの。


第148回 七尾市殿町


町名の由来

白山、小松、加賀にも殿町という地名があり、そこは城下や武家屋敷跡が由来のようだけど、ここには確かな話が伝わっていないんだ。城山から山道が通じているので年寄りがロマンとして語るには、畠山の殿様の別荘か隠れ家があったという話や、七尾城が攻められた時の殿(しんがり)を務めた侍が住んだからだとか囁かれている話はあるけどね。調べてみるとね、ここのような段丘の地形を棚と言って、その「たな」が「との」に転化したという説もあるんだよ。

昔の在所

昭和30年過ぎまでは外へ働きに出ることもなく、山に挟まれた土地に男は田畑に山仕事、女はむしろを作って暮らしを立てたんだ。少しでも農地を増やすため山裾を掘削したマンポに崎山川の水を回して元の川を農地にしたんだ。そんなマンポが3箇所あるよ。

江戸時代には田んぼに出来ない畑に煙草を作って「山崎煙草」と称して七尾城下の所口町へ売り出していたようだね。崎山半島の西が七尾湾、東が灘浦で双方を結ぶ山道が何本も横断しているんだ。庵の虫崎からは柑子山、佐々波からは清水平を通って佐野を抜けて七尾へ入り、江泊や白鳥は沢野の柏戸から湯川を通って赤崎へ出て七尾へ入るんだ。殿にも大田や沢野へ通じる山道があってその要衝に地蔵様と板碑があり管理していたけど、現在は国道沿いの大きな阿弥陀三尊の板碑だけを春と秋にお参りしているんだ。

昭和5年から昭和12年にかけて交通不便を解消しようと殿と近隣の在所の人たちで大田までの道を開設したんだ。冬場仕事が無い時に少しずつ進めていったそうだよ。つるはしでトンネルまで掘っているから先人の努力に頭が下がるんだ。そのトンネルが昭和37年に改修工事され昭和40年には国道160号線に指定されたので殿トンネルは在所の誇りの象徴でもあるんだよ。

これから

子供の頃はあぜ道一本、山の中までもきれいに手入れされた里山でね、朝靄がかかれば空気が一段と澄んで山水画の世界が現れ、日本の原風景を絵に描いたような在所だったけど、今は手入れが行き届かなくなってね…。

高齢化が進む小さな在所なので互いに支え合うためにも、この秋からみんなで道路沿いの荒れた畑に桜の苗木を植えようと話し合っているんだよ。

あきこの一言

トンネルを抜け板碑を曲がれば、
穏やかな空気が流れ、心安らぐ在所。


第147回 中島町河内


町名の由来

山に囲まれていてその中を流れる川沿いに人が住むとそこを河内と名付けるのではないかと思うよ。白山市の旧河内村は手取川と直海谷川の合流点だし、穴水の河内には山王川に支流が何本も合流しているし、ここも熊木川と河内川が合流する場所なんだ。川の内にある在所で河内。本当の由来はわからないけど、地形的には共通しているので頷けるんだよ。

昔の在所

山の木で暮らしを立てて来た在所だよ。山をたくさん持っている家を「おやっさま」と言ってね。その「おやっさま」が毎年1枚の山を切るんだ。それで1年間の生活が出来たのだよ。切出した山に植林し50枚山があれば50年サイクルで循環していくんだ。山師が山を眺め木の石高を見積もり売買するんだ。

河内には「おやっさま」が何軒もあるのでその木を切ったり、山から運び出したりと木こりや歩荷(ぼっか)の仕事が切れることがなく続いたんだ。山道に枝を敷いて「きんま」というそりに丸太3本積んで滑らせたり、1本ずつ縦に担いで山を降りていたね。それや炭焼きで現金収入を得てたんだよ。それと手に職をと大工や左官を目指すんだ。

交通手段が無いからどこにも出れず、男は在所に分家し、女は全員在所の中に嫁ぐからみんな親戚になっていくんだ(笑)。釶内地区にお寺が五つもあるのは山の木のおかげで財力と材料と職人が揃ったからではないかと思うんだよ。

現在の在所

戦後テレビに冷蔵庫と生活が贅沢になり山を3枚売っても4枚売っても足りないし、外へ出た若い者は戻らんし、在所の中は年金暮らしの年寄りばっかりで地元負担の伴うような事業は出来なくなったよ。

そんな中、在所最後の囲炉裏で300年以上灯し続いた火様を守ってきた中谷さんのおばあちゃんが亡くなる時にまた一つ大事な遺産が消えると心配したけど、お隣の岩穴さんの娘婿でお医者さんの森田さんが受け継いでくれ本当に感謝してるんだ。森田さんご夫婦が河内の自然を愛していてね、田舎暮らしを満喫してもらう民泊の計画もあるらしいので明るい話題だね。

10月には真宗の御崇敬(ごそうきょう)という津幡から七尾までの範囲で200年以上続く大きな法会の宿寺が36年ぶりに釶内地区が受け持ち、今回は河内の託因寺で行なわれるので火様の火でろうそくを灯したいと思っているところなんだよ。

あきこの一言

大蛇淵と岩穴の伝説を聞き坂道を歩く。
大きな欅、川の流れ、静かな空気、心穏やかなり。