こみみかわら版バックナンバー

第187回 七尾市川原町


在所名の由来

江戸時代からの町名らしくてね、小丸山城下の東端で府中村と隣接し西に神戸川、東に毒見殿川が流れこの辺り一帯が川原だったからじゃないかな。私が子供の頃でも雨が降れば川が氾濫して水浸しになっていたからね。

資料を見ると安政二年に馬喰町と合併して川原博労町になり、明治にまた川原町に改称しているんだ。

昔の在所

加賀藩時代、金沢から七尾へ入る正式な街道が東往来で川原町から鍛冶町を通って街中に入ったんだ。当時七尾のメイン通りだったけど明治三十一年に七尾駅が保健所前のグランドゴルフ場の所に出来てからは本当に賑わったらしいよ。それが大正十四年に七尾駅が現在の場所に移転し、戦後御祓川の中に板を敷いて闇市の屋台が並んでから人の流れが変わったと聞いているよ。

むしろを作る機械メーカーの古田式農機は全国に販売していたし、米、魚、八百屋、雑貨に質屋、荷車、桶屋、医院もあって七尾で一番地価が高い商業地域だったんだ。

川原町交差点の国道は第二次大戦時に七尾駅と矢田新の工場を結ぶ軍事道路として強制撤去で作られたんだ。七尾初の信号機もこの交差点なんだよ。

長福寺と最勝寺の間を「もり屋敷」と呼んでるけど長屋があったんだ。大店と庶民が混在した在所で隣の家へ醤油や味噌を借りに行ったり、電話も店にしか無くて店の人が民家へ「電話~!」と走って呼びに行っていたよ(笑)。

現在の在所

あぐるしい時代になったね。私も電気屋をしているけど、かつては盆暮れ払いの催促無しで人間関係が成り立っていたんだ。今は店と店が潰し合い、みんな損得で動く世の中になって本当にこれでいいのかと思うね。物事をもっと善悪で考えないと人情が無くなるよ。

昔はレクリエーションや旅行、九月に通りを通行止めにして盆踊りをやっていたけど、人口減でどれも出来なくなったんだ。

山王神社の一の鳥居が川原町にあって本来こっちが入り口なんだよ。在所の登口神社も山王さんの境内にあるけど、何があっても青柏祭、祇園祭など宮行事だけはしっかりと伝承して心意気と人情だけは引き継いでいかないとね。

まなかの一言

栄枯衰勢は世の習い
神仏に帰依する心に未来あり


第186回 中能登町瀬戸


在所名の由来

このあたりには朝鮮から伝わった須恵器という陶器を作っていた窯址がたくさんあるんだ。
全国的に須恵器を焼いていた場所の地名に陶(すえ)のつく所が多いらしくてね、
ここも初めは陶戸(すえと)と呼んでいたのが、(せと)になっていつの頃かに瀬戸という字に
変わっていったのでないかと言われているんだよ。

昔の在所

半農半林業で暮らしてきた在所でね、大正時代の尋常小学校の頃から学校林があって、
それが新制中学校にも引き継がれて以後実地教育として植林や下草刈りなどの活動をしていたんだ。
それと卸山という制度があって雑木林のない近隣の在所には薪(たきぎ)を調達する山を貸して
山手米といって御志納を貰っているんだよ。

奈良時代から治安維持の軍団が全国に設置されていくのだけど、能登国の軍団は瀬戸の在所に置かれたんだ。
当時能登の国府は七尾の古府にあり、富来の福浦港には渤海国より船が出入りしていたので、その中間に
位置する要衝だったんだね。その軍団址を実年会が毎年草刈りしているんだ。
名水の湧く十劫坊は畠山家臣の菩提寺だったけど七尾城落城の二十四年前に内紛で焼失しているんだよ。

現在の在所

眉丈山系からの水が良いのでおいしいお米が出来るし、大谷内川にホタルが舞う光景もすごいよ。
二十二町歩の圃場整備も、春先から猛禽類が巣を作り子育てを始めたので工事が少し遅れたけど
今年度に完成するし、環境保全にと今年からヤマメの稚魚も放流したんだよ。
お寺が無い在所なので説教場を作って年三回の朔日講(ついたちこう)を行っているけど三十人以上
集まるので説教に来るお坊さんがお寺より集まるとびっくりするんだ。

今は説教場を取り壊して瀬戸会館に場所を移しているけど班ごとの当番制でお世話をし、
毎年八月二十七日の風の神様、お諏訪様のお参りには一軒一軒が当番制でお世話してるんだよ。
過疎が進み心配な中だけに在所の人が少しでも集まり、盛り上がれるようコミュニティの場を
増やしたいと思ってね、コロナ禍ではあるけど感染予防に気を付けて百歳体操も送迎をして
若い世代も含めて再開したところなんだ。

まなかの一言

豊かな自然と数々の歴史、
のんびり暮らせる素敵な在所。


第185回 七尾市生駒町


在所名の由来

江戸時代には豆腐町だったけど、明治五年に石川県が誕生した時に鹿島郡七尾町の二十四町の一つとして生駒町として改称しているんだね。なんで生駒町となったのか分からないし、豆腐町の由来も定かでないけど、隣の亀山町が味噌屋町だったことから想像すると、城下町時代にそんなお店が並んでいたのかもしれんね。

また町内の区画が焼豆腐を並べたようだからだとか、川沿いに白壁の蔵が並んでいたので遠くから見ると豆腐が並んでいるように見えたからだとかいろいろな説はあるみたいだけどね。

昔の在所

江戸時代には仙対橋に海鼠(なまこ)を商う豪商の塩屋、長生橋には回船問屋の越中屋があり、それぞれの橋が塩屋橋、越中屋橋とも呼ばれたそうだよ。加賀藩時代に七尾は所口と呼ばれていたけど明治八年に七尾と呼ぶようになり、明治二十二年に町村制が公布されたとき最初の七尾町役場が生駒町に置かれたんだ。

明治二十八年の大火では町内が全部焼き尽くされてしまってね。戦時中には北國新聞社前から商工会議所前までの川沿いの道は強制撤去で作られたんだ。それまでは護岸いっぱいまで建物が並んでいて、そんな頃は御祓川も深くて学校橋まで舟が上がっていたし子供は泳いで遊んでいたんだよ。生駒町のちょんこ山の人形は藤原鎌足だけど山車に子供が鈴なりになっていた時代もあったんだけどね。

現在の在所

夜間人口三十五名中、六十五歳以上が十五名と高齢化の町だね。今までは祭りでコミュニケーションが取れていたけど、だんだん参加する人が少なくなってね。それでもせめて祭り気分を味わってもらおうと、ちょんこ山や奉燈祭り当日には町内で料理を作って出来立てを最優先でお年寄りの家に届けているんだよ。祭りの運行で一服する時はスギヨのちくわをみんなに配っているけどこれも生駒町の伝統なんだ。

それと防災総合訓練で市が指定の小丸山城址公園に避難したけど途中で座ってしまってたどり着けない人ばかりなんだ。これではいけないと班ごとに歩いて三分以内の堅ろうで高いビルにお願いして町内で避難所を設けたんだよ。
コロナ禍で世の中が大きく変わっていくだろうけど、来年はすべての祭りが出来るよう頑張っていかないとね。

まなかの一言

この百年で七尾の町は大きく変わり、
人生百年時代、不安と楽しみ入り交じり。


第184回 七尾市西三階


在所名の由来

明治時代に東三階と西三階に分村されたそうだよ。それまでは三階村で二宮川の東西と般若野の出村と合わせて三集落があったことから三階になったという説もあるようだね。

室町時代に現在の東三階を中心に開墾が始まり農民が増える中で、天正八年に二宮川の西側が長連龍領、東側が前田利家領となったので実質的には西三階としては四百四十年の歴史があると聞いているよ。

昔の在所

子供の頃は二宮川でアユ、中川でフナ釣りをし、秋にはみんな稲刈りを手伝い、その田んぼでソフトボールをして、冬は裏山で竹スキーをして自然が遊び場だったよ。そして鞍馬天狗、赤胴鈴之助、矢車剣之助を見てチャンバラをして、力道山を見てプロレスごっこだよ(笑)。

夏には漆沢池で泳いで遊んだけど、この池は約三百年前に作られ周囲二キロもあるんだ。明治二十五年八月炎天下、池の修繕工事中に土手が崩れて人夫十名が埋まり必死の救出をしたけど六名が亡くなるという悲しい歴史もあるんだ。
でも名誉な話もあってね、全国ため池百選に石川県から加賀の鴨池とこの漆沢池が選ばれているんだよ。

現在の在所

毎夕五時に「ふるさと」のメロディーが流れ、まだまだ自然はあるけどいつしかセミの鳴き声が聞こえず、ホタルが少なくなって高齢化も進んだよ。だけど老和会が積極的に活動し有志による景観維持など住みよい町づくりに励んでいるんだ。

在所にある曹洞宗の徳雲寺は高階小学校発祥の地なんだよ。宗派を超え在所の寺として二百四十年以上も西三階の人が支えてきたんだ。今は東京から移住してきた松本好全さんが出家して寺を守る傍ら、地域の人に集まってもらって体操教室やビーズ細工など定期的に開いてくれてね。

高階にはお寺が四ヶ寺あってほとんどはその門徒だけど西三階だけは姓ごとに近隣の十四ヶ寺の門徒に分かれているんだよ。各地から人が集まって来た在所なんだろうね。この春、若者二人が都会の学校へ進んだけど、山青き水澄む故郷が志を果たしていつの日にか帰ってこいよと言っているように思えるし、在所の人々もそう願っているんだよ。

あきこの一言

地域の一員として、地域のために尽くす。
そんな人が集まる高階地区の素敵な在所。


第183回 中島町鳥越


町名の由来

四千五百年前の縄文時代から人が住んでいた痕跡がありますが、いつから鳥越になったかはわからないんですよ。釶打は鎌倉時代に富来院から独立して成り立ったことはわかっていますが。

ひとつ言える事は鳥越という地名は全国に沢山あるけど海に面したところは一つも無くてどこも山の中なんです。鳥が山を越えて飛んで来るような場所が鳥越の由来じゃないですかね。

昔の在所

奈良時代に越中の国司、今でいう県知事みたい人ですが、万葉歌人としても有名な大伴家持(おおとものやかもち)が能登を巡幸したときに七尾から舟で熊木に来てここの道を通って富来から輪島、珠洲へと向ったんですね。その時詠んだ歌、「香島より熊来をさして漕ぐ舟の梶取る間もなく都し思ほゆ」が万葉集にありますが七尾湾を渡る船の中で都を恋しく想ったんだろうね。

鎌倉時代の僧で総持寺の二祖、峨山(がざん)禅師が羽咋の永光寺(ようこうじ)と門前の総持寺を行き来した道を峨山往来と呼んでいるけど、その一部が在所のメイン通りなんだよ。

明治七年には釶打に鳥越小学校が出来て後の釶打尋常小学校になるけど、そこに富来の西海出身の小説家で加能作次郎が若い時に着任して藤瀬の藤津比古神社に下宿して週末にはこの道を歩いて家へ戻っていたんですね。
一本の道からも様々な歴史が見えて楽しいですね。

現在の在所

鳥越川で山鯉を釣って遊んだ頃の昭和二十九年には三十七世帯二百五人も暮らしていたんですよ。それが今では壮年団も解散して二年前から新宮大祭には枠旗や奉燈は出せなくなってね。だけど本社から分霊を宿した御幣が在所で一泊することに意味があるから神事だけは大事に続けないとね。

在所を維持するということは人間がすることだから高齢化の中では出来ない事をとやかく言わない。それぞれが出来る事を無理のない範囲でさせて頂く共同体でなければね。

平成二十七年から棚田土手の草刈範囲を少なくするため鳥越桜花公園を整備していますが、芝桜六千株、アジサイ四百三十本、ツツジ三百五十本、枝垂桜二百六十本とこれからが見ごろですね。

小さな在所だけどみんなの顔が見えるのでまとまりがいい在所なんですよ。

あきこの一言

山里に鳥の声を聞き田園を眺める
古き往来に偲ぶ故郷


第182回 津向町


町名の由来

西暦七一八年、養老二年に能登国が出来た時、能登国の港としての国津(くにつ)を
七尾の港に定め香島津と名付けたそうだよ。
その国津のちょうど向いに位置する在所だったので津の向い、津向と呼ばれたのではないかと
考えられているんだよ。

昔の在所

津向町は海辺にあった十七軒が始まりで半農半漁の暮らしだったんだ。
それが昭和四年操業の岩城セメント子会社の七尾セメントが出来る時に用地買収されて
現在の旧道沿いに全戸移転したんだよ。
そこは小島と津向の地番が交互に入り組んでいるけど町会としては津向町になっているんだね。
セメント工場へ熊淵水上の奥山から石灰石をケーブルで運んでいたけど家の上を通っていたし、
工場にはドイツ製の高い高い煙突が二本立っていたんだ。
当時小学校で家の絵を描かせたら津向の子どもはみんな屋根を白く描いたんだ。
石灰の粉塵が積もっていたんだね。

戦時中にはイセの太陽光発電所の場所に軍隊がグライダー基地を置いて訓練していたそうだよ。
それと旧西湊小学校裏の山を開いて競馬場や射撃場などの娯楽施設があってね、
そこへは常磐町のお姉さんたちも遊びに来ていて当時から津向の若い衆と交流があったんだ。

現在の在所

そんな名残があって今でも秋祭りには神輿を担いで常磐町へ行くんだ。
その時ばかりは台車を使わず威勢よく担いで行くのが慣わしなんだよ(笑)。
青柏祭は唐崎神社のお水取りの神事から始まるけど、その水を津向の「紅葉の池」から汲んでいるんだ。
池の底には五十センチ程の紅葉の形をした石があってきれいな湧水でね、昔は唐崎神社の宮司が
深夜人目にふれないで汲んでいく秘儀だったんだけど近年は日中に行なっているよ。

ここは事業所が多いのでいろいろ協力してもらえるので町会費も年間三千円と安いんだ。
四十年前に在所の風通しを良くするために津友会(しんゆうかい)を発足したけど今でも
二ヶ月に一回集まってわいわいと懇親を深めているんだ。
おかげで総会は和気藹々の内に成立していくんだよ。先輩方が在所の年間行事を絶やさないよう
頑張ってきたので、少子高齢化の中だけど引続きやっていかなければと思っているんだ。

あきこの一言

半農半漁から商工業地域となって、
歴史と近代が交錯する在所。


第181回 能登島佐波


町名の由来

ハッキリした由来は伝わっていないんだ。
ここは山が海岸まで迫って集落が海岸沿いにある在所だけど、
その裏山に笹がいっぱい生えていたことから沖を通る舟や漁師がそれを
目当てにして岸に舟を寄せていたので、笹山に寄せる波がいつしか笹波となり
佐波と呼ばれていったのではないかという年寄もいたけどね。
実際、佐波神社の裏山には笹がいっぱい生えていたよ。

昔の在所

佐波遺跡があるけど、これは六千年も前の遺跡で七尾市内では
最も古い縄文時代早期の集落跡なんだ。
そんな貴重なものとは知らず子供の頃は土器など掘り出しては遊んでいたよ。
明治三十一年から裏山で乾電池を作るマンガンが採掘されていたんだ。
在所の人たちも従事してたけど、ばあちゃんが草鞋(わらじ)の時代に
地下足袋(じかたび)が支給されてとても嬉しかったと話していたよ。
今でも山はマンガンを掘った穴だらけなんだ。

昭和四十一年に七尾の波止場からフェリーが一日五往復就航して
佐波が能登島の玄関口になったんだ。
忘れてならないのが昭和二十年八月二十八日。
勤労動員の能登島や鵜浦の人たちが家へ帰るのに乗った第二能登丸が矢田新埠頭から
佐波の久美に寄って次に向う途中の寺島付近で機雷に触れて爆破したんだ。
米軍が終戦の年に七尾湾に四百個以上の機雷を投下していたんだ。
ドドーンと大きな水柱が上がったと言うよ。佐波の人が舟を出し救助し、
おかゆを炊き出し救援したけど二十八名が犠牲になって浄覚寺前の浜に莚(むしろ)を
敷いて並べられたという悲しい出来事があったんだよ。

現在の在所

寺島、カラス島、嫁島、コシキ島が海に浮かび、「ひょっこり温泉」や
「マリンパーク海族公園」もあり、民宿も三軒あって訪れる人も多いよ。
山を開墾した「のとじまファーム」ではブルーベーリーや野菜を栽培し、佐波漁港から
数人だけど船を出して漁をしているし、近年は数人の移住者が暮らし始めているし、
昔ながらの半農半漁の暮らしが出来る良い所だと思っているんだ。

高齢化が進み現状を守っていくしかないので、神仏に手を合わせ
みんな仲良く暮して行きたいと思っているんだよ。

まみの一言

数々の歴史に人の営みを感じる、
風光明媚な佐波の在所。


第180回 中島町浜田


町名の由来

熊木川河口付近に広がる浜辺を開拓して田んぼにしたことから浜田と
呼ぶようになったと言われているんだ。
鎌倉時代親鸞さんが教行信証をしたためた頃と同時期の古文書に熊木荘の浜田里という
地名が出てくるので、この辺りのことではないかと推定されているんだよ。 

昔の在所

江戸時代後半には稼ぎとして縄やわらじなどが記録されているけど、
わら草履(ぞうり)の産地として古くから「浜田草履」として名を残していたそうだよ。
昭和の初めまでは鉄道が無く、浜田の天神橋下から定期船が出て七尾と結んでいたんだ。
昭和三年に能登中島駅が開設し国道二四九号線も通ったら戦後どんどん人が集まって、
中島町の四十五町会の中で一番大きな在所になっているんだよ。

つの時代かわからんけど二月二十日に浜田に大火があったらしくて、
二度と火を出さないようにと毎年その日には火祭りをやっているんだ。
七月の納涼祭も、かつては熊木川に灯籠を流し、舟を出して奉燈や鉦太鼓を乗せて
川下りをして盛大だったけど、今は残念ながら行われていないんだよ。

現在の在所

ここは牡蠣の養殖業者も多くシーズン中は町内外からカキ貝を食べに
数千人が訪れて賑わっているんだよ。
大雨になると熊木川がよく氾濫するので拡幅工事が行なわれるんだけど、
天神地区の登録有形文化財の室木邸をはじめ十戸ほどが移転しなければならないんだ。
転出を予定する家もあり人口減も心配だけど、一方で十五年前に出来た新興団地の
「向陽タウンはまだ」には在所外から移り住む若い人らも多く、今では壮年団の
主流メンバーとなって祭りや社会体育大会などの行事に頑張ってもらっているんだよ。

熊甲祭りの大旗は町で一番大きく、祭りをしっかりやらなければという自負があるけど、
在所の半分が六十五歳以上と高齢化が進んで運行が難しくなってね。
ひょっとしたら今年の祭りであの大旗が見納めになるかもしれないから
九月二十日にはぜひ見に来て下さいね。
在所が広いので新旧住民の付き合いが疎かにならない為にも祭りは大事な交流の場なんだよ。

まみの一言

見栄も張らず、媚びもせず、
大きな大旗、大らかな在所。


第179回 田鶴浜舟尾


町名の由来

約四百五十年前、織田信長時代の古文書に舟尾という名が出てきているそうだよ。
舟尾水門の辺りを白門場(しろもんば)と呼んでいるけど、昔はこの辺りはまだ海で、
そこに船着場があったそうなんだ。
長右衛門船、弥三右衛門船という二隻の百石船がつながれ、越中と交易していたという記録も
あるので、在所では船着場があったから舟尾になったのではないかと言っているよ。

昔の在所

約百七十年前に肝煎りの佐近四郎を中心に二ノ宮川から灌漑用水を引くため山を貫通するマンポを
造っているんだ。マンポは七十メートルで大小二本あって大きいほうは直径四メートルもあるんだよ。
それで舟尾川が造られて四十四ヘクタールの新田を開発しているんだね。

大正時代から牡蠣貝の養殖も始め生産地として栄えていたようで、多い時で十五軒、
昭和五十七年には九軒あって牡蠣剥きする共同作業場を建ててやっていたけど、
今は担い手がなく一軒もなくなってしまったよ。

それと明治時代は和倉、奥原、舟尾、新屋、川尻、垣吉の在所が集まった
端村(はしむら)だったんだ。その中心地が舟尾で小学校や役場があったんだけど、
昭和十二年に分けられそれぞれ七尾と田鶴浜に合併されたんだね。

現在の在所

ご多分にもれず少子高齢化は否めず、祭りの存続が危ぶまれてきたので、昨年から祭り保存会を
立ち上げて区民みんなで参加して盛り上げていこうということになったんだ。
それと自治公民館行事として三世代ふれあい祭りを開催しているよ。
納涼祭では盆踊りとカラオケやゲーム、飲んで食べてみんなが楽しみ、秋にはグランドゴルフ大会を
やって高齢者が楽しみ、十二月には臼と杵でもちつき大会をやって子供達が楽しんでいるんだ。

平成十三年に田んぼの土地改良した時にグランドゴルフ専用の広場、鶴の里公園を
造ってもらったけど、三十二ホールもある立派なゴルフ場で毎年大きな大会も行なって
近隣からも多くの人が集まるんだ。一昨年から大晦日に神社に初詣にくる人たちに
年越そばを振舞っているんだよ。付き合いが希薄にならないようにあの手この手で
在所の中のコミュニケーションを深めていかないとね。

マミのひと言

大きなマンポで新田開発、
今も力を合わせ志を引き継ぐ在所。


第178回 七尾市国下町


在所名の由来

能登国の国衙(こくが)が置かれたことが由来だとする説があるけど、
そのことが書かれた文献がないので事実かどうか分からないんだよ。

国衙とは日本の律令制において地方を治めるために置いた役所のことなんだ。
近くには国分寺や古府など能登国の中心地があったから、なんらかその一角の役割が
あったかも知れないし、役人が住んでいる場所を国衙と言うこともあったらしいいから、
そこに勤める役人が住んでいたのかもしれんね。
そういえば加賀藩の古い地図には国ケと記されていたよ。

昔の在所

六七三年、延宝三年の江戸時代、この辺りに松が植えられたと記録があるんだ。
これは天領となった下と八幡に接する加賀藩領徳田の各在所との境に双方の在所が
立ち会って百姓が納得の上、境に松の木を植えたんだ。その数二三五本だと書いてあるけど、
徳田地区ではその内の一本を名残の松として八幡交差点の近くにて植えて伝えているんだ。
それで八幡の交差点の地下道が一本松と名付けられたんだね。

多くは百姓をして暮らしていたけど大工も二人いたから在所の古い家は二パターンあって、
二人の大工が建てた家はそれぞれに部屋の間取りが全部同じなんだよ。

現在の在所

平成四年に国下の集会所、さんご会館を建てたんだ。
さんごの由来は当時在所の世帯が三十五軒だったことと、徳田小学校のシンボルで校歌に歌われる
珊瑚樹から名付けたんだよ。

さんご会館では総会をやって、若御講には八田の乗龍寺さんと千野の正福寺さんに
交替で来てもらい、百歳体操は毎週行なっているんだ。それと平成2年に結成したH2の会の
お母さんたちが集まってかぶら寿司や蓬莱を作ったりしているし、お盆の納涼祭には里帰りした
人たちも子供を連れて集るからこの時ばかりは活気があり嬉しいよ。

どちらかというとおとなしい町だけど、その分意見がまとまりやすくみんなで
協力し合っているんだ。平均年齢も六十八歳ともう限界集落やね。
獅子舞も私が中学の時に踊ったのが最後だったなぁ。一度復活を試みたけど結局は続かなかったんだ。
それでも田んぼはちゃんと維持して耕作放棄地を出さないでいるんだよ。
この先のことは分からないけど、隣の千野町さんにそのうち交じてくれと言っているんだ(笑)。

まなかのひと言

小学生の時、一本松地下道を歩き通学
今、その意味を知る。


第177回 七尾市青山町


在所名の由来

昭和二十二年、満蒙開拓団・青少年義勇団の引揚者が立ち上げた自行農事実行組合と地元農家の
二男、三男と疎開者、引揚者の青山農事実行組合が合併して直津と池崎の山を開拓したんだ。
その時の組合名の青山が町名になったと思われるけど、組合名の由来までは聞いてないんだ。

満蒙開拓団

私で三代目だけど、祖父は鹿島町井田の出身で満蒙開拓団の一員として満州に渡っているんだ。
汽車で下関へ向かいそこから船で満州に渡ったそうで母親が泣いて見送ったと聞かされているよ。
満州に到着すると寝泊りする施設も無くマムシが一杯いる橋の下で何日も寝泊りしなければならず
話が違うとみんな泣いたそうだよ。
引き揚げて来る時、馬から落ちて下半身不随になった男を連れて帰ってきたそうだけど、
当時は足手まといになる人間は見捨てることも多い中、その男は感謝して泣いていたと言っていたよ。

祖父の話の端々から満州では想像を絶する苦労があったと思うんだよね。そんな絆で結ばれた
人たちが開拓してくれた在所だけど、今では開拓当時を知る人が少なくなってしまったよ。

当波元造さんに聞く

父の当波与吉は池崎の出身で東京江戸川に住んでいたんだ。
昭和二十年三月十日の東京大空襲に遭い三月十八日に故郷へ疎開し徳田駅から
歩いて帰って来たと聞いとるよ。そしてこの開拓団に加わったんだね。
開拓団が自前で電柱二十本を立て電気を引いたし立山神社も建てたんだ。
当時は食料が無いからまず自給のために働いたんだね。
白菜や大根、ジャガイモ、サツマイモ、麦と何でも植えたんだよ。

時代が良くなると兼業するようになってね、そうなるとここは不便な所で七尾へ八時に着くには
六時半のバスに乗らなければならないんだ。
それで二代目が嫁さんを貰う時にみんな池崎、松百、石崎へと出て行ったんだね。

現在の在所

五十年前に水害防止のためにと開墾した畑に一万二千本の植林をしたんだ。
それを今年の春先に二十日間かけて伐採したんだ。二十戸以上あった家も今では四世帯になったし、
祭りも私が子供の頃にはもうお参りだけだったよ。

栄枯衰勢は世の習いだけど、ここは苦労人が多く、人情味があってみんな優しい人ばかりだったので、
今も住んでいる人は、みんな仲が良いんだよ。

あんなのひと言

生きるために働き、
苦労したから得られるものがある。


第176回 七尾市小池川原


在所名の由来

「こいけかわら」という人もいるけど、在所では昔から「おいけがわら」と呼んどるよ。
ここは大谷川と庄津川に挟まれた川原だったんだ。埋蔵文化財の調査で3m掘ったら大きな松や
杉の根が出てきたんだ。大谷川の氾濫で堆積していったんだね。

そして能越道の下になったけどキレイな湧き水の小池があったんだ。畠山城主の茶会にこの水を
使ったと伝わっているよ。そんなことから小池のある川原の在所が由来だと察するよ。

昔の在所

埋蔵文化財の発掘調査でベルトの金属製バックルが二個発掘されたことから、千二百年くらい前の
国分寺の長官、今で言えば県知事みたい人の屋敷跡ではないかと言われているんだ。
神社の裏山に畠山時代の大きな砦跡があるんだ。加賀方面からの敵を意識して築いた丸山砦で、
一ノ曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪と並び、櫓が建てられ、土塁が築かれていて、相当の武将が
配置されていたと思うね。当時のものと思われる立派な鎧兜が残されているんだよ。

元和(げんな)年間というから約四百年前には源左衛門という人が畑を田んぼに開墾したと
伝えられているんだ。土地が狭いので徐々に近隣の村にも田んぼを持つようになって、
昭和三十年代の米の出荷量は七百三十俵と矢田郷で一番だったよ。とにかく働き者の在所でね、
苦労するから小池川原に娘をやるなと言われていたそうだよ(笑)。
そんな在所なので今でも耕作放棄地が無いことが自慢なんだよ。
勤勉な遺伝子が引き継がれているんだろうね。奥能登で行なっている「田の神様」の神事も
ここでは親の代まで行なわれていたんだ。

現在の在所

昔は古府の山奥で在所が一家族みたいもんで、それぞれが「よぼし子」の縁を結んでいたんだ。
普段は付かず離れずの距離感で暮していても、何かあったらお互いに助け合う関係だったんだね。
冠婚葬祭は在所全員で行なっていたよ。

若い人も遠くに出て行かず近隣に住んでいる人が案外多くて、やる気のある人がいっぱいいるから
新しい形で在所を盛り立てていってもらいたいと思っているんだ。十一月に臼と杵で餅つき大会を
やって世代間の親睦を深めたけど、何かしないと町内が分散していくからね。

まなかのひと言

小さな在所に、いっぱいの歴史。
地元のこと、知らないことばかり。


第175回 中能登町大槻


町名の由来

二つ伝わっていてね。
この辺は邑知潟へ続いた沼地帯で八幡様の入り口あたりに船着場があって多くの船が着いたことから
「おおつき」と呼ばれたという説と、地勢的に西往来から奥能登へ、眉丈山麓から外浦への交通の要衝で
二宮川左岸の丘陵地に土塁跡が見られるように、この辺りには多くの砦が築かれていて中でも大きな砦、
大きな要塞が大塞(おおつき)砦と呼ばれ、その砦の名前が在所名になったという説があるんだよ。

昔の在所

四六六年前、上杉謙信と武田信玄が川中島で戦っていた頃、ここに両軍合わせて一万人以上で戦った
大槻合戦といわれる大きな戦があったんだよ。
遊佐続光と温井総貞、七尾城の重臣同士が対立したんだね。一五五三年十二月二十七日、
田鶴浜に布陣して進撃してくる遊佐軍を温井軍が飯川から大槻まで広がる末広野で迎え撃んだ。
結果は温井軍の勝利、翌日の羽咋一ノ宮の戦いで遊佐軍は壊滅したということだよ。

この在所は眉丈山系に抱かれた台地に位置してきれいな水が湧くことから
中能登町の水源が二つあるんだ。
それで美味しいお米が採れるので昔はほとんどが農家だったね。
平成二十三年の宮中新嘗祭でお供えするお米は大槻の斉田で作って奉納しているんだよ。

現在の在所

大槻の神社は大日霊女(おおひろめ)神社で女の神様を祀ってあるんだ。
そんなわけかどうか分からんけど女性が多い在所でね。昔は七対三くらいの割で女性が多かったよ。
それで槻和会という婿さんの会が作られていて多い時で二十五人もいたようだよ。
五十年の歴史があったけど人数が減ったので今年解散したんだ。

神輿は菊の御紋でね。明治時代に作られているけど、当時は菊花紋使用が厳禁の時代なのに
どうしてそんなことが出来たのか、どんないわれがあるのか今となってはわからないんだ。
神仏に篤い在所で毎年六月二十日に「田休みまいり」が営まれ西の宮で
阿弥陀如来(光)、大日如来(命)、不動明王(風雨)に
秋の豊作を祈る伝統行事があるけど子どもが少なくなってどう伝えていくかだし、
同じように猪対策で電気柵の予算をもらっても人がいないからどうにもならんのだよ。

祭りや防災訓練の他にボランティアの集いという日を作ってみんなで集るけど、
老人社会の中で在所のあり方をどうしていったもんか思案しないとね。

あきこのひと言

古き里に大きな合戦、神仏に手を合わせる。


第174回 七尾市南藤橋


町名の由来

昭和二十五年に藤橋町から分町した町でね。
藤橋町の北に位置するのにどうして南藤橋なのかと言えば、分町する区域の中を更に区分けして
北、南、西と分けたからだよ。だから南藤橋の北に北藤橋町、西側に西藤橋町が誕生したんだね。

ちなみに藤橋は文禄四年、一五九五年に前田利家が小丸山城を作る時そこに住んでいた人を
こちら側に移して、城の外堀に藤の橋を架けたことが由来らしいね。

昔の在所

ここは昭和十年に鉄道公舎が建ってから住宅が増え続けてきたんだ。
それで分町することになったんだろうね。いわゆる新興住宅地で寄せ集まりの在所だったんだね。
若い世代が多いので、とにかく名前と顔を覚えようということでいろんな行事をやってきたんだ。
聖母幼稚園で盆踊り大会をしたり、鵜浦や千里浜へ海水浴に行ったり、町内全域で宝探し大会を
したけど、当時は子供でいっぱいだったからね。

それとこの町は政治家が育つ街かもしれんよ。
かつて市議、県議、国会議員と政治家が出ているからね(笑)

現在の在所

人口がこの十五年間で二百人も減っているんだ。小学生も百人以上いたけど今は三十人ほどだよ。
聖母幼稚園と近くに七尾中学、七尾高校があるので賑やかな感じはするけど六十五歳以上が
百三十八人と高齢化は否めないね。夏祭りにはここで育った二代目、三代目の若い人が帰省して
奉燈を担いでくれるので盛り上がっているよ。

鉄道の電化で奉燈が電線につっかえて三島町の仮宮まで行けなくなったので今は町内を隅々回る
ことにしているんだ。近年は恒例のバス旅行と平成二十九年より百歳体操を週一回行っているよ。
ここは従来からの班が十八、マンション、アパートの班が十五で合計三十三班あるけど、
外国人も多くごみの問題なども含めどう交流するか課題もあるんだ。

それともうひとつ大きな問題が能登唯一の開かずの踏切だね。
回送電車など駅構内での入替などもあり、何分間も踏切が上がらないことが日に数回もあるんだ。
町内の道路は狭いし、踏切を渡れば右折、左折と混み合い、そこに自転車と住民や高校生が並んで
本当に危ないんだ。駅前と駅裏を結ぶ陸橋を架けるか地下道を作ってほしいと町内では願っているんだ。

七尾の中心地をどう描くか今こそ行政と政治が一体となって力を発揮して頂きたいと思いますね。

あきこのひと言

新しい街、生まれて暮せば、
かけがえのない故郷。


第173回 田鶴浜川尻


在所名の由来

明快だね。ここは七尾湾西湾へ流れる二宮川の河口付近に成り立った在所だから、
川の先っぽ、川の尻ってことなんだろうね。それしか考えられないよ(笑)。

昔の在所

古文書からの推測によると関が原の戦いの前後数十年の間に川尻村が出来たらしいよ。
驚いた事に江戸時代から世帯数がほとんど変わっていないんだ。人口は半分になったけどね。

田んぼと漁で暮らしを立てて来た在所で江戸時代には新しく開いた田んぼの灌漑用水を確保するため
八間(十四・五六メートル)の掛樋(かけひ)を川に掛けて用水を渡していたそうだよ。
今は圃場整備をして水は行き届くけど今度は雨水が自然廃水できないんだ。
オランダのように大きなポンプを二台も設置して七尾湾に汲み上げて排水しているんだよ。

明治時代には雑魚やエイ、タコ、立貝の漁業許可を得て漁をしていたんだ。
海は遠浅で子供の頃にはアサリが一杯獲れて海岸で流木を燃やして焼いては食べていたけど懐かしいね。
すだれのように竹を編んだものを設置する「やな」と呼ぶ定置漁法も盛んだったよ。元は端村の川尻で、
明治9年には和倉町の川尻になって、明治十四年から田鶴浜の川尻になっているんだ。

在所の自慢

在所の荒石比古神社は総持寺の山門や東嶺寺を手がけた名工柴田真次が建てたんだ。
莚(むしろ)で囲って完成するまで中を見ることならずで、完成して宮が現れたとき、
あまりに立派だったのに村人は皆ぶったまげたと伝わっているんだ。
この神社は伝承によると神功皇后征韓の帰り嵐で船が難破してここに漂着し、その部将が
垣吉に居住し守護神を奉納したことが始まりでそれを現在地に移しているんだ。
それで神社の扉には菊の御紋が掘ってあるよ。

小学生3人、中学生3人、若い衆3人、残念ながら今年の秋祭りは初めて獅子舞を中止したんだ。
昔は祭だといえば学校も休ませてくれたけどね。今は人足が集るように祭りを土曜日に変更しても
学校の行事や大会と重なって祭りを優先できない時代になったね。
ここの獅子舞は氷見の阿尾の人に泊り込みで来てもらい習った越中獅子なんだ。
獅子が本当に生きているように踊り、かつては鹿島郡の獅子舞大会で優勝したこともあったよ。

職場でもそれぞれが棒を持ち木のコロやカンナを持っては振り付けを練習してみんなが熱かったよ。
そんな時代がだんだん遠のいていくけどしかたがないね。

あきこのひと言

川と田と海に囲まれる在所
人々が由緒ある神社を囲む。


第172回 七尾市佐々波


在所名の由来

なぜ佐々波なのかはっきりしたことは分からないんだよ。
個人的には下佐々波から上佐々波と海岸線が長く、昔は岩場と岩場の間の長い砂浜にいつも
さざ波が寄せていたから、佐々波という地名になったんじゃないかと思っているんだ。

昔の在所

昔から漁業で栄えた在所で、定置の大敷網で暮らしを立てて来たんだ。
在所の桑原さんの家では先祖九左衛門が前田利家から扶持を受けて代々庄屋を勤めてきたんだ。
今も祭りでは宮を出たらまず桑原さんの家へ出向くのが慣わしなんだよ。
明治時代には戸長役場や郵便局が置かれ近郷十七カ村の行政の中心地になっていたようだね。
戦後は勝木多計男さんが大敷の近代化に尽力してくれて飛躍的に発展したんだ。

大敷には尻尾がついていて泳いでくるものは何でも獲れるよ(笑)。能登島水族館の
初代ジンベイ鮫はここで獲れたんだ。十一月から一月のブリが稼ぎ頭だけど近年は減少傾向でね。
それと海洋少年団の石川県での発祥の地が佐々波なんだ。ボーイスカウトの海版だよ。
私も港まつりでは鼓笛隊として参加して手旗信号なども披露していたんだ(笑)。

大敷網

昭和三十二年に佐々波鰤網組合が発足して定置漁業の近代化が図られてきたんだ。
岸から一キロ半沖の水深五十一メートル地点に全長六百メートルの三号網があり、
水深七十一メートルに全長五百六十メートルの二号網、水深九十五メートルに
全長三百九十メートルの一号網とあるんだ。それぞれ形も違うんだよ。
灘の海は潮の流れが速く海が川のようになって動いているんだ。
魚の習性を研究して網の形も研究されてきたんだね。

朝四時前に仲船、沖船、天馬船、運搬船が連なって出港していき、五時過ぎには
第一便の運搬船が港に戻り選別作業して七尾と氷見の市場に届けるんだ。
平成五年に法人化し、網の改良や機械化、施設の整備を進めてきたんだ。
灘の大敷網は定置網の業界では全国トップの水揚げを誇っているんだよ。
平成二十三年一月に六万七千尾達成の大漁で浜は賑わったよ。

漁港の堤防には美大生が描いた大きな絵が並び、鮮魚の直売もやっていた時期もあったんだ。
高齢化も進み在所で大敷に携わる人も減ってきたけど、団結心だけは繋いでおかなければと
思っているんだ。

あきこのひと言

高台の二宮金次郎と海を眺める。
港にブリとタイの大きなオブジェ


第171回 能登島百万石


在所名の由来

昭和三十四年に石川県営パイロット事業の一環として、閨、通、田尻、久木の各一部、
六十ヘクタールを開墾した開拓地で、加賀百万石にちなんでたくさんの穀物ができるようにと
命名されたそうだよ。

当時を知る瀬成良信さん

昭和三十五年に十六戸の農家が入植しているんだけど、当時からの瀬成良信さんが詳しいので
一緒に話を聞かないとね。瀬成さんは親戚だった当時の能登島石橋町長から勧められ父親と一緒に
入植したそうです。

八ヶ崎出身で作事町に新宅していたけど、まぁやってみるかということで入ったけど
二十七歳は最年少だったよ。戦後パイロット事業が展開していた時期で入植者は全国から集ったんだね。
一人当たり三町三反歩(約3ha)の配分だったよ。掘っ建て小屋からスタートしたんだ。
お互いに頑張りましょうと一杯飲んでいたから結束力があったよ。一年後に小さな家を建て、
十年後には神社を建てようということになり島山神社を建立したんだ。

パイロットの事業計画ではリンゴ栽培だったのでやっては見たけどパッとしなくてね、
それで自由に好きなものを栽培しようということになったんだ。
ここは粘土質の赤土なので三年間ほどジャガイモを植え、その次にタバコを植えるようになったけど
タバコは専売公社が買い付けしてくれるので安定していたよ。不作でも六割は保証してくれたからね。

今八十七歳だけど六十五歳からタバコが下火になり七十歳でタバコは終わったんだ。
次に何を作るかという選択になってね、そこで息子たちが始めたのがネギだったんだね。
今は孫も一緒にやってくれているよ。

現在の在所

今は瀬成さんのように農業をやっている家が九軒あるけど、それぞれでいろんな取組をしているんだよ。
高農園さんは有機栽培でいろんな野菜を作って全国のレストラン向けに出荷しているし、
本格的に畑をするには広々としていて良い環境なんだね。それと農家以外の家も七軒あるんだ。
私のように自然の中でのんびり暮したいという人にも良い所でね。
排他的なことは一切なく新しく来た人に優しい在所で、のん気に暮らすにも良い環境だよ(笑)。

少子化と一極集中で能登島全体の人口も半分の二千五百人ほどになって高齢化も進んでいるけど、
つながりを持って仲良く暮らしていけばこんな安全で安心な場所はないと思えるんだ。

あきこのひと言

開拓者精神で半世紀を越え、
穏やかな笑顔、継続は力なり。


第170回 七尾市松百町


町名の由来

詳しい由来は聞いていないけど、畠山の家臣で松百(まつど)という人の
知行地だったという話もあるようだよ。海岸の方を渋江浦と呼んでいるけど、
昔は渋江村があったんだ。それが松百と合併しているんだね。

幻の松百鮓

全国に有名になった松百鮓(まっとうずし)の話が伝わっているんだ。
現在は作る人も、食べる人もない幻の鮓だけど、江戸時代には加賀藩から徳川将軍に献上されていて、
古くは畠山時代からすでに贈答品や城主の宴席に出される珍味だったようだよ。
ただ何の鮓なのかよくわからないんだ。在所では魚のベットだという話も聞くけど、
いくつかの記録によると、中世では巻貝で近世ではゴリ、ボラ、やどかりなどが記されているようだよ。

いずれにせよこれらの具材はどれも赤浦潟で獲れたんだろうね。
そもそも具材にこだわらなかったのか、その品種が少なくなって具材が変遷していったのかは、
今となってはわからないね。面白いのはその鮓桶(すしおけ)にタツノオトシゴを添えていたらしく、
蛇の鮓と言われて全国に広まったようだよ。
明治時代になって加賀藩の庇護が無くなり、少なくとも大正時代には作られなくなったようだけど、
時代が変わって需要もなくなったんじゃないのかなぁ。

現在の在所

赤浦潟では冬場にワカサギ釣りを楽しむ人が多いけど、鯉ヶ浦漁業共同組合では
毎年七月に鯉の稚魚二十キロ、三月にはワカサギの卵を百万粒放流しているんだ。
元、弁財天社の市杵島姫(いちきしまひめ)神社は、琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)明神を
勧請したそうだけどその御神体を誰も見たことは無かったんだ。

平成十九年の能登半島沖地震で社殿を修復するときに初めて拝んだけど女の神様だったよ。
秋祭りでは十年前まで神輿を担いで火渡りをしていたんだ。眉毛が焦げるほどの火の中を
渡っていたけど今は人手不足から中断しているんだ。青壮年団員も六十歳までに延長し、
更に六十五歳まで顧問役としてやってはいるけど若い人が少なくなってね…。

高台にある七尾病院とは災害時に協力しあう防災協定を結んでいるけど、
全員が安全で安心して暮していけるよう住民間の連携も更に深めていきたいと思っているんだよ。

あきこのひと言

赤浦潟の穏やかな湖畔を歩き、
幻の鮓、火渡りの神事、古を想う。


第169回 七尾市富岡町


町名の由来

なぜ富岡になったかわからないけど、小丸山の城下町に東と西に地子町があって
ここは西地子町の一部だと聞いているよ。
その中でもここは明治の初めごろまでは通称で瀬戸浜と呼ばれていて、
遠浅の砂浜で小船の陸揚場となっていたそうだよ。

ちなみに地子(じし)とは領主が田畑や屋敷地などを賃貸料として課す地代のことだけど、
町名となるのは城下を作るときに商人や職人を多く集めるために地子を免除する町を作る場合もあって、
その代わりに町には人足役や伝馬役、領主御用達の負担が課せられるという話だよ。
七尾の東西の地子町がどの辺りか、どんな制度だったか詳しく知りたいね。

在所の今昔

在所の西宮神社のすぐ裏が海だったよ。
貸ボート屋も何軒もあって海水浴もしていたし、タコもよく釣れたね。
桟橋もあってポンポン船が能登島と行き来していたけど、
ここは能登島の西島にルーツを持つ人が多いよ。
お盆に墓参りに帰る時は手土産に肉を持って船が沈むくらいいっぱい人が乗っていたよ。
そんな時代は府中の波止場に能登島会館があって高校生の寄宿舎になっていたんだ。

西宮神社は石動山のお寺を移築し恵比寿様を祀ってあるんだ。
恵比寿様は商売繁盛の神様なので建立のとき御祓地区のお店が商売繁盛を願ってこぞって勧進したんだ。
昔の秋祭りはすごかったよ。
本宮神社に向うとき亀山町から馬出の橋までの直線を白木の神輿を松本町の人と三、四十人で
担いで勢いよく走るんだ。橋を渡るなと止め戻されるので、亀山町まで戻ってはまた突っこむんだ。
三回目で御祓川に腰までつかり体を清めて川を渡ることが出来たんだ。
前日には川底の石をあげて準備していたね。

先輩から聞いた話では戦時中に国から配給のサツマイモを町内の砂利道に並べて家族の人数を聞いては
配っていたらしいよ。終戦直後には小学生たちが線路沿いを歩き徳田にある軍の弾薬庫に行って、
三十センチの砲弾を持ってきては信管をはずし火薬を取り出して道に並べて遊んでいたんだ。
そんなある日砲弾が炸裂して子どもが一人亡くなる事故が起きているんだ。
そんな時の砲弾が西宮神社の社殿に箱に入れて飾ってあったけど、昨年自衛隊が回収していったよ。

近年は少子化で年寄りの多い町になってしまったけど、それだけに防犯防災の意識は高くて
お膝元の恵寿病院の災害時の訓練に参加してトリアージの患者役をやったり、
AEDの訓練をしてもらったりしているんだ。今は神社の改修工事をしているけど
人が暮らす限り歴史は刻まれていくから過去も未来も大事にしたいね。

あきこのひと言

城下の一角にて存在感を示してきた在所。


第168回 七尾市沢野町


町名の由来

鎌倉時代には沢野村があったそうだけど由来となるとよくわからんなぁ。
尾根沿いの在所で川が無く沢が流れているので地形的に沢野になったのかもしれんね。
それと戦国時代に畠山の家臣でここの在地領主として沢野殿がいたそうだけど、その沢野殿がずっと以前からここを支配していて、その苗字が在所名になったのかもしれんしね。

昔の在所

城山からの尾根沿いに、松尾、上沢、中村、栢戸(かやど)と広範囲に四つの集落が点在するけど、お寺を中心にして成り立ってきた在所だよ。
在所の真證寺が五百二十年以上経っていてほとんどが門徒だから、仏事を中心にまとまっていたんだろうね。

特産品は昔からごぼうでね。土壌が適しているので大きいごぼうが育つんだ。
江戸時代には藩主前田家へ献上したごぼうが加賀藩の特産品として徳川将軍家にも献上されたんだよ。

沢野ごぼう

今では太いごぼうが有名だけど、最初その価値がわからなくて公設市場に細い普通のごぼうを出荷していたんだ。市場では群馬産が人気で沢野のごぼうは売れなくて、花を買った人におまけにつけて配っていたくらいだったよ(笑)。
そんな時、中日新聞が山に捨ててある太いごぼうを撮影して記事にしたら加賀屋総料理長の宇小さんの目に止まってね、すぐ持ってきてくれと連絡があったんだ。

私と白井さんとで細くてきれいなごぼうを何十本も持っていったら、違う!と言われてね。料理に使うのだから京都の堀川ごぼうのように太いごぼうが必要だと教えてもらったんだ。

それで沢野ごぼう生産組合では太さ三センチ、長さ七十センチを沢野ごぼうの規格品とし、みんなでなんとしても沢野ごぼうを世に出したいとグリーンツーリズムなど様々なプロモーションを試みたら知名度が上がったんだよ。

伝統の寸劇

祭りの余興で小四から中三までの男の子だけで演じ、ラッパ、警察官、お猿のかごや、でかんしょ、桃太郎などの演目で全部に教えがあるんだ。祭りに演じると祝儀をもらえてね、翌日には集った祝儀でお菓子を買ってリーダーが分けるんだ。子供の自治なんだよ。

百海や庵の海にみんなで歩いて海水浴にいったりして上下関係を築いていたんだね。
そんな中で事の善悪を学んでいくんだけど、子供が少なくて二十五年前に寸劇が出来なくなったんだ。
伝統が途絶える事は寂しいけどね。この先とにかく平和で暮されればと願うのみだよ。

あきこの一言

ごぼうを作って、お参りし、
祭りを楽しんだ山の在所。