こみみかわら版バックナンバー

第152回 能登島町 閨


在所名の由来

昔は閨と無関が一つの村で、室町時代の古文書には禰屋牟関と書かれているようだよ。閨の入り江の中にある鴫島で行者が寝ながら行う心行をしていたんだ。それで臥(ふせ)行者と呼ばれ、その場所には今でも行者が寝ていたと思われる石畳が残っているよ。

鴫島は今陸続きになっているけどそこを行者鼻と呼んでいるんだ。行者が寝て修業していたので寝屋とも呼ばれ在所名の由来になったようだね。

昔の在所

島八太郎の一人で水蔵右衛門という人が閨にいたようだよ。子孫は残っていないけどね。元の在所はフィッシングパーク辺りにあったと聞いているけど江戸中期以降に今の漁港のある場所に移ったと思われるんだ。それは閨には古屋八郎兵衛と和田磯五郎の二名が流刑されているけど、今の場所に一番先に入った家が古屋さんだと伝わっているからだよ。

石屋、大工、鍛冶屋、木挽き、桶屋などの職人と半農半漁で暮らしを立ててきた在所でね、昔は鱈漁が盛んで丸木舟を漕いで穴水の近くまで行って漁をして船一杯にして帰ってくるんだ。浜に集まった人がそれを貰って軒下に吊るして干してあった風景が懐かしいよ。

松茸もよく採れてね、在所の松茸山は青年団が管理して山ごと入札するんだ。それが若い衆の収入源で北海道や九州に一週間旅行に行っていた時代もあったよ(笑)。雑苔でも採るように竹かごに一杯採れた松茸は味噌漬けにして、干した鱈とが弁当のおかずだったけど最高だったなぁ…。

各家には田んぼを耕す牛を飼っていてね、子どもは朝と学校から帰ってから餌の草刈りが日課だったよ。これをやらないと青柏祭や明治節に七尾へ出かける小遣いが貰えないんだ。七尾で山藤のうどんを食べるのが楽しみだったよ。

現在の在所

ゴルフ場が出来たり、別荘地が出来たり、道も良くなって働きに出て現金収入を得ることも出来るけど、あくせく働かなくてはならない時代にもなったね。

あぜ道を歩いて学校に通っていた子どもの頃のあのチベットのような情景が懐かしいね。にぐ縄を編んでわずかな現金収入を得て支払いは盆暮れのあんな時代に戻れば良いと思うこともあるんだ。そうは言っても前向きに進まないことにはね(笑)。

今在所では耕作放棄地をこれ以上増やさないためにも圃場整備を進めようと話が進んでいる所だよ。

あきこの一言

鴫島に残る史跡と豊かな自然。
人良し、空気良し、水も良し。


第151回 中島町横見


在所名の由来

伝わっている話もないし、在所事に詳しい人にも聞いたけどわからないんだ。

それでいろいろ考えてみたんだよ。今年は能登立国1300年、越前国から羽咋、能登、鳳至、珠洲の4つの郡が独立して能登國が出来たということだけど、ここは旧鳳至郡と隣接する在所でね。そして在所のほとんどが隣の穴水町曽福のお寺の門徒で、そんな事から想像して地勢的に歴史の中で両隣の在所と上手くやっていくために、横を見ていかなければならんこともあったかもしれんね (笑)

誰か本当の横見の由来を知っている人がいたら教えてほしいんだけどね。

在所の昔

年寄りから聞いた話をいくつか紹介するよ。

幕末の頃、在所に佐野太郎左衛門という侍がいたんだ。新潟から来た武士で外の室木さんからお金を借りて北前船の事業を始めたんだ。新造した北前船の初航海でしけにあい沈没して借金だけが残ったんだ。
この侍は在所のためにも働いた人でね。山と海に挟まれた在所の田んぼは千枚田のような段々の田んぼだったんだ。この田んぼに山から水を引く水路を作るとき、夜、在所の人に高張提灯を持たせて、提灯の高さで勾配の目処を付けて水路の位置を決めていったそうだよ。

もう一つ、田岸との境に臼坂という茂みがあって、そこに天狗様が足をぶら下げて昼寝していたんだ。その天狗様の足を侍の子孫が刀で切り落としたんだ。その時大きい雷が鳴り天狗様は能登島に行ってしまったんだ。その後、侍の家の祖父さんが重い病気になり、何とか治してあげたいと願う孫に、枕の下に仏様を敷いて寝れば治るとお告げがあったんだ。それで曽福の門徒寺に頼むけどそんな罰当たりなこと出来ないと断られたんだ。それを聞いた釶打上畠のお寺が人助けのためなら仏様も許して下さるじゃろと貸してくれたら、なんと病気が治ってね。それで佐野家は上畠のお寺の門徒に変わったと伝え聞いているんだ。

現在の在所

山裾にあった在所に昭和7年鉄道が通ったので全世帯が海岸に移ったんだ。海岸線の曲がりくねった細い道が国道となり、在所の山の殆どがゴルフ場建設用地として買収されたりと移り変わりを感じるね。

人が減っていく中、横見を気に入ったと来年4月に神戸から4人家族が移住してくるんだ。このご時世に明るい話題で嬉しいね。

あきこの一言

お侍と天狗様、小さな在所に面白い話。
歴史の中に活かされて、今に暮らす。


第150回 七尾市古城町


在所名の由来

室町時代の七尾城、戦国時代の小丸山城、二つの城があったけど、古い方のお城があったということだね。ここの大手門跡から本丸へと道が続いているんだよ。

後で七尾へ入った前田利家が城山を使わなかったのは、天然の良港を活用し新しい時代に備えたんだね。琵琶湖畔に信長が安土城、秀吉が長浜城と船での交易で経済を発展させていたからね。

昔の在所

戦乱が終わり、ここ武家屋敷跡に各地から移り住んできたようで、鹿島の武部から来たという話も聞いているんだ。江戸時代には大豆や小豆、大麦や小麦、菜種など栽培し、菜種は所口町の油屋に売って、12世帯、54人、馬4頭と記録にあるよ。
在所の八幡神社は七尾城内にあったものを移したらしいんだ。

年寄りに聞いたけど終戦後に忠魂碑を建て、その後スキー場を作っているんだね。小池川原町と土地を出し合って共同で作ったかなり大きなスキー場で市内から沢山滑りに来たそうだよ。

それと城山展望台が出来た時に殿様の子孫で荏原製作所創業者の畠山一清さんを籠で担いで登り、古城婦人会がめった汁を炊いてみんなに振る舞ったと叔母さんから聞いているよ。

これから

牡蠣棚に使う竹を出していたくらい孟宗竹の林が続き、辺り一面はきれいな畑だったね。今では竹薮は荒れ、畑も山になってしまったよ。そこを大手門跡から続く遊歩道が通るけど、毎年行なっていた草刈もここ数年やれていないんだ。シーズンには学生や家族連れが結構来るので何とかしないとなぁ。山頂の整備と合わせて行政で対応してもらえれば有難いんだけどね。

大正13年に小池川原、古屋敷、竹町の人たちと落ヶ谷の滝で雨乞いした16日目に雨が降ったんで、竜神様にお礼をと、十数人で抱える程の藁で作った大きな大蛇を大谷川に流し、府中の浜に掲げて燃やしてお参りしたと言うよ。そして感謝の不動尊を滝のそばに安置したんだ。真舘精三さんと娘婿の次郎さんが野ざらしではと祠を作ってくれたんだ。

真舘家では毎年11月28日に妙観院さんに来てもらい不動尊をお参りし、元旦は大雪でも不動尊に参詣してからお雑煮を頂くというから、恩を忘れず人知れずお礼を続けている姿に頭が下がるんだ。共助とはそんな精神を一人ひとりが持ち合わせることだと教えられるんだよ。

あきこの一言

在所ごとを我が事とする精神、
歴史ある在所に見習う姿あり。


第149回 七尾市阿良町


在所名の由来

江戸初期の絵図には新町どをりと記載されているけど、その後に阿良町と変ったようだね。たいてい阿良町のルーツは荒れた土地に人が住み新しい町が出来ていく中で、荒町とか新町となって、同じ地名が先にあれば、当て字で阿良を用いたりするみたいだね。

昔の在所

前田利家が作った城下町で商家が多く、明治時代には七尾警察署や七尾町役場もあったけど明治28年の大火で町が全焼したんだ。明治33年に七尾町立商業学校が小島から移転してきたけど、これも明治38年の大火で焼失するんだよ。この学校が後に七尾実業、七尾商業、そして東雲高校となっていくんだね。

明治時代に汽船会社を興し北海道航路を開いて活躍した樋爪譲太郎氏のりっぱなお屋敷があったんだけど、戦後アメリカ占領軍が進駐し昭和25年まで拠点としていたんだ。その跡地に東映の映画館やバーなど飲食店が並ぶ繁華街が出来たんだね。八百屋、魚屋、おもちゃ、貸本、菓子、靴、床屋、うどん、時計、乾物、燃料、豆腐、クリーニング、桶、電気、自転車、産婆、等々この町だけで不便なく生活が出来たんだ。本当に活気があったよ。

お隣が馬車の荷台を作っていてね、私の家の前に馬を繋いで荷台や車輪の修理をしていたよ。そこのおばあちゃんが木屑を燃やした灰でジャガイモやサツマイモをふかしては遊んでいる子供達に食べさせくれたんだ。懐かしいよ。

現在の在所

なんと言ってもちょんこ山かな。本宮さんの春祭りで、米町、木町、一本杉、生駒町、亀山町と六台の山車が出るんだ。昔はしゃぎりは長男しかやれないんだ。阿良町は笛、太鼓は子供で三味線は芸者さんを頼んでいたんだ。酔った大人が芸者さんに花を打ち山車の上も賑やかだったよ。昭和34年頃までは御祓川を渡って東部地区も巡幸していたんだけどね。今は少子化で阿良町ではだいぶん前から録音テープを流して曳いているんだよ。

沢山あったお店もほとんど無くなって昔の賑わいは無いし、空家も増えるし、12班から11班に減らしたところなんだ。そんな中でとにかく出来る事を一つ一つ成していくことが大事だと思うよ。防犯灯のLED化は今年で完了するし、夜玄関を出ると賑わっていた昔よりも明るくなったよ(笑)。2月には臼と杵とせいろを準備して餅つき大会を行なったんだ。

子どもたちに日本の文化を伝えるのと、町内のコミュニケーションを深めるためにね。参加できないお年寄りにはあんこときなこの餅を届けて絆を確認するんだよ。大切に残すもの、変えていくもの、今まで以上に求められる時代になったようだね。

あきこの一言

中心市街地の今昔、時の流れに添い暮す。
いつの世も、幸せは己の中に見出すもの。


第148回 七尾市殿町


町名の由来

白山、小松、加賀にも殿町という地名があり、そこは城下や武家屋敷跡が由来のようだけど、ここには確かな話が伝わっていないんだ。城山から山道が通じているので年寄りがロマンとして語るには、畠山の殿様の別荘か隠れ家があったという話や、七尾城が攻められた時の殿(しんがり)を務めた侍が住んだからだとか囁かれている話はあるけどね。調べてみるとね、ここのような段丘の地形を棚と言って、その「たな」が「との」に転化したという説もあるんだよ。

昔の在所

昭和30年過ぎまでは外へ働きに出ることもなく、山に挟まれた土地に男は田畑に山仕事、女はむしろを作って暮らしを立てたんだ。少しでも農地を増やすため山裾を掘削したマンポに崎山川の水を回して元の川を農地にしたんだ。そんなマンポが3箇所あるよ。

江戸時代には田んぼに出来ない畑に煙草を作って「山崎煙草」と称して七尾城下の所口町へ売り出していたようだね。崎山半島の西が七尾湾、東が灘浦で双方を結ぶ山道が何本も横断しているんだ。庵の虫崎からは柑子山、佐々波からは清水平を通って佐野を抜けて七尾へ入り、江泊や白鳥は沢野の柏戸から湯川を通って赤崎へ出て七尾へ入るんだ。殿にも大田や沢野へ通じる山道があってその要衝に地蔵様と板碑があり管理していたけど、現在は国道沿いの大きな阿弥陀三尊の板碑だけを春と秋にお参りしているんだ。

昭和5年から昭和12年にかけて交通不便を解消しようと殿と近隣の在所の人たちで大田までの道を開設したんだ。冬場仕事が無い時に少しずつ進めていったそうだよ。つるはしでトンネルまで掘っているから先人の努力に頭が下がるんだ。そのトンネルが昭和37年に改修工事され昭和40年には国道160号線に指定されたので殿トンネルは在所の誇りの象徴でもあるんだよ。

これから

子供の頃はあぜ道一本、山の中までもきれいに手入れされた里山でね、朝靄がかかれば空気が一段と澄んで山水画の世界が現れ、日本の原風景を絵に描いたような在所だったけど、今は手入れが行き届かなくなってね…。

高齢化が進む小さな在所なので互いに支え合うためにも、この秋からみんなで道路沿いの荒れた畑に桜の苗木を植えようと話し合っているんだよ。

あきこの一言

トンネルを抜け板碑を曲がれば、
穏やかな空気が流れ、心安らぐ在所。


第147回 中島町河内


町名の由来

山に囲まれていてその中を流れる川沿いに人が住むとそこを河内と名付けるのではないかと思うよ。白山市の旧河内村は手取川と直海谷川の合流点だし、穴水の河内には山王川に支流が何本も合流しているし、ここも熊木川と河内川が合流する場所なんだ。川の内にある在所で河内。本当の由来はわからないけど、地形的には共通しているので頷けるんだよ。

昔の在所

山の木で暮らしを立てて来た在所だよ。山をたくさん持っている家を「おやっさま」と言ってね。その「おやっさま」が毎年1枚の山を切るんだ。それで1年間の生活が出来たのだよ。切出した山に植林し50枚山があれば50年サイクルで循環していくんだ。山師が山を眺め木の石高を見積もり売買するんだ。

河内には「おやっさま」が何軒もあるのでその木を切ったり、山から運び出したりと木こりや歩荷(ぼっか)の仕事が切れることがなく続いたんだ。山道に枝を敷いて「きんま」というそりに丸太3本積んで滑らせたり、1本ずつ縦に担いで山を降りていたね。それや炭焼きで現金収入を得てたんだよ。それと手に職をと大工や左官を目指すんだ。

交通手段が無いからどこにも出れず、男は在所に分家し、女は全員在所の中に嫁ぐからみんな親戚になっていくんだ(笑)。釶内地区にお寺が五つもあるのは山の木のおかげで財力と材料と職人が揃ったからではないかと思うんだよ。

現在の在所

戦後テレビに冷蔵庫と生活が贅沢になり山を3枚売っても4枚売っても足りないし、外へ出た若い者は戻らんし、在所の中は年金暮らしの年寄りばっかりで地元負担の伴うような事業は出来なくなったよ。

そんな中、在所最後の囲炉裏で300年以上灯し続いた火様を守ってきた中谷さんのおばあちゃんが亡くなる時にまた一つ大事な遺産が消えると心配したけど、お隣の岩穴さんの娘婿でお医者さんの森田さんが受け継いでくれ本当に感謝してるんだ。森田さんご夫婦が河内の自然を愛していてね、田舎暮らしを満喫してもらう民泊の計画もあるらしいので明るい話題だね。

10月には真宗の御崇敬(ごそうきょう)という津幡から七尾までの範囲で200年以上続く大きな法会の宿寺が36年ぶりに釶内地区が受け持ち、今回は河内の託因寺で行なわれるので火様の火でろうそくを灯したいと思っているところなんだよ。

あきこの一言

大蛇淵と岩穴の伝説を聞き坂道を歩く。
大きな欅、川の流れ、静かな空気、心穏やかなり。


第146回 田鶴浜高田


町名の由来

鎌倉時代の古文書に高田保として地名が出ているそうだよ。その当時の書状に高田彦次郎、高田弥次郎の名前が出てくるのだけど高田保の領主ではなかったのかと目されているから在所名の由来となったのではないかと思うよ。高田は高田七家と言われる草分け7軒で開発されたとも伝わっているようだね。

昔の在所

二宮川の流域に広がる在所でその水を利用し農耕で暮らしてきたのだけど、この川がよく氾濫して悩まされていたんだ。それで戦後の耕地整理で川の付け替えを行っているんだよ。その付け替え前の二宮川で歴史に残る乱闘事件が起こっているんだ。宗貞寺の前に水辺公園があるけど、そこから県道までの間に17mの高田橋が架かっていたんだ。

明治25年第2回衆議院選挙では中島、田鶴浜、高階、鳥屋地区の投票場が田鶴浜の東嶺寺だったんだ。鳥屋の人はこの高田橋を渡って投票に行くのだけど、ここに田鶴浜消防団「浜竜組」が陣取って投票場に行かせなかったんだ。負傷者多数、死者2名というから凄い話だよ。これは政府自らが衆議院での劣勢を挽回するためにあらゆる手段を使って野党を弾圧したんだ。野党側で現職の神野良の地盤が鳥屋で、政府側は中島の橋本次六を応援したんだ。結果は橋本次六が当選し、野党は事件の首謀者を訴えたけど控訴審で無罪になったんだよ。血生臭い歴史もあるけど、娑婆に暮らすということはそういうことなんだろうね。

現在の在所

20年前に町が宅地造成してから若い世代が移り住んで班が6班から9班に増えたんだ。インターチェンジが出来て商業施設が来て生活は本当に便利になったよ。

ただ近年はご多分にもれず少子高齢化の影響が出てきてね、高田では能登の国二十一番札所の橋爪観音祭と地蔵祭と夏に2回子供奉燈が在所を回るんだけど残念な事に今年は出せなかったんだ。子供たちはろうそく銭を貰うのが楽しみだったんだけどね。

唯一在所中が集まるのが高田伝統の平夫(ひらぶ)の日なんだ。今は一斉クリーン運動として道路と川の草刈り、町内のゴミ拾いを全世帯が参加して行うんだよ。平夫とは全員が平等に人夫として作業するということなんだ。この結束力を秋祭りにも繋いで行きたい所なんだけどね。在所の運営も世代交代の時期に来ているし、そろそろ新しい班から町会長が出て引っ張ってもらえればと思っているんだよ。

あきこの一言

人が住み、村ができ、助け合って暮らす。
昔も今も、高田の在所。


第145回 中能登町小竹


町名の由来

昔は畑だったけど今では山になっている「お林」という120名からの共有地があるんだ。そこに「舘」と呼ばれる砦跡があったんだ。豪族小竹氏の砦でね、その名前が在所名の由来だと古老から聞いているよ。その砦の石が在所の瑞泉寺の石垣に使われ今でも残っているようだよ。

昔の在所

小竹の文化遺産とも言える話があるんだ。江戸時代に隣の久江の在所と境界争いがあったんだ。能登部のかんめんから枯木谷の峠までの尾根伝いを主張する久江とその直線を主張する小竹の争いは藩の奉行所でも採決できなかったので、小竹村の酒井惣左衛門が大事な自分の土地なら食べられるだろうと、主張がぶつかる土地の土を食べ比べすることを提案したんだ。大きな黒椀に土を盛ってたべ始めたら久江の人は二杯食べて倒れてしまったんだけど、酒井惣左衛門は三杯食べて小竹の主張する境界に決まったんだ。それほどまでに争ったのは山にある湯の谷池と新池の争奪戦だったんね。

水の無い小竹にとっては死活問題だったんだよ。酒井さんのお陰で小竹が救われたんだけど、酒井さんはそれで死んでしまったんだ。

命を賭けて在所を守った酒井さんのご恩を忘れてはいけないと屋敷跡に猿田彦神社を建て、お墓は峠に向かって建てられているんだよ。この話には続きがあってね、山のため池から小竹に水を引くことが難しい地形だったんだ。それで宝達金山の職人を雇って4本の隧道を掘って1.2㎞の江黒用水を引いたんだ。

現在の在所

ガチャガチャと24時間聞こえた機織工場が1軒も無くなり、子供のいない家が数軒あったけど、今は子供のいる家が数軒と寂しい限りだよ。在所の4つの組も今年から3つに再編し、壮年会も解散し納涼祭もやれないんだ。女性会、長寿会も会員が増えないし、みんな気楽な生き方を求めるご時勢だね。いろんな活動に積極的に参加して絆を強めることが在所の活力だと思うんだ。

そして出た人が戻り、移住者も魅力を感じる様な在所にするために、古くからのしきたりやしがらみも時代に合わせて変えなければならんと思うよ。唯一在所が結束するのは祭りとため池の堤防やそこへ通じる道路の草刈りなんだ。そう思うと今でも酒井惣左衛門さんに救われている在所なんやね。

あきこの一言

お墓の前で枯木谷の峠を見上げる。
麓に並ぶ家々は、命を捨てた酒井惣左衛門さんが守った在所。


第144回 中島町瀬嵐


在所名の由来

「せあらし」でなく「せらし」と発音するんだ。室町時代には瀬良志で、江戸時代には瀬嵐になっているようだけど由来はよくわからんよ。中島には熊甲祭の藤津比古神が瀬嵐に光臨して、鎮座地を決めるためにここから弓を放ち谷内の加茂原に落ちたという伝説があるんだ。熊甲神社の御神体は朝鮮渡来というから瀬良志というのも朝鮮からの由来のような感じもするけどね。

昔の在所

古墳が30基以上も発見されているから古くから人が住んでいたんだね。万葉集の「香島より熊来を指して漕ぐ船の楫(かじ)取る間なく都し思ほゆ」の歌は大伴家持が越中国の国司として能登を巡行したときに、七尾の港から中島の熊木まで船で渡った時詠んだ歌なんだ。当時能登は越中国に属していたんだね。もう一首、「香島嶺(かしまね)の机の島の小螺(しただみ)をい拾ひ持ち来て・・・」この歌の机の島が瀬嵐の机島で、確かにしただみがいっぱい採れたよ。この辺りが万葉の里と呼ばれるのはそんな由来で、それで万葉の里マラソンはここ七尾西湾を一周しているんだ。

ここは丸木舟の里でね、昭和20年代には七尾湾一帯で1000隻以上の丸木舟が利用されていたけど全部瀬嵐で作られていたんだ。舟大工も私が子どもの頃でも6軒あって各地から弟子も集まっていたけど要の技術は地元の人間にしか教えなかったと聞いたことあるよ。技を継承するために作られた最後の一隻がお熊甲の祭り会館に展示してあるんだ。

小学生の頃、日曜日に天気が良ければ弁当持って家中で丸木舟に肥しを積んで向かいの種子島(たがしま)に渡って畑仕事を手伝わされたけど、朝行けば夕方まで帰れないので本当に嫌だったよ(笑)

現在の在所

祭りで結ばれている在所やね。都会に出た人は正月も盆も帰らんと熊甲祭りに帰ってくるんだ。祭前夜は在所の両端にある奉幣宿と神社を鐘太鼓を鳴らし朝まで数時間おきに往復し、早朝5時から舟に神輿や大旗を積んで海を渡り熊木川を上って祭りに出るんだ。祭りが終わり夕暮れの海に鐘太鼓の音と共に提灯を灯した舟が遠くに見えると、港では無事を祈り帰りを待つ人々の間に、得も言われぬ連帯感が生まれるんだ。

そしてすべての祭り道具が故郷を想い都会で暮らす関東瀬嵐会の寄付なんだよ。本当に団結心の強い在所でその証が祭りなんだ。

あきこの一言

櫓を漕ぎ渡る種子島、二艘仕立ての祭り舟。
万葉のロマン漂う瀬嵐の在所。


第143回 七尾市岩屋町


町名の由来

元々は藤橋町の田んぼだった所に、昭和27年に市営住宅20戸が建てられ新たな町としてスタートしたんだ。藤橋の在所から離れ岩屋化石や岩屋の清水あたりから山裾に広がる田んぼしかないこのあたりを岩屋と呼んでいたのでそのまま岩屋町としたんだね。よく間違えられるんだけど岩屋化石や岩屋の清水のある場所は西藤橋町地内で岩屋町は鷹合川が御祓川に合流するあたりの小さな区域なんだよ。

昔の在所

若い夫婦が市営住宅に移り住んで来たんだ。市営住宅の周りにも家が建ち始め子どもの頃は小中学生で20人くらいいたね。駅前の御祓小学校に通ったけど私が小学2年の時に小丸山小学校と名前が変わったんだ。御祓校下は街なかの子が多かったので、岩屋の子はへんぴな遠い所から来ていると思われていたよ(笑)。

岩屋化石へ行ってはサメの歯や貝殻を採ったり、鷹合川で泳いだりうなぎを獲ったり、裏山で竹スキーしたりして遊んだんだ。川からの用水路も町内に流れてホタルが飛んでいたし、タイリクバラタナゴがいっぱい獲れたんだ。鷹合川が氾濫していたので河川改修した時に用水路への流れを止めてしまったんだ。そうしたらあの綺麗な魚が絶滅してしまったんだよ。

これから

小丸山バイパスが開通したお陰で賑やかな街に変わったよ。大通りに面して衣食住のお店が並びお年寄りは助かっているよ。歩いて5分でなんでも賄える超コンパクトシティーだからね(笑)。大通りから一歩入れば閑静な住宅街だし生活するには便利な所だと思うよ。新しく誕生した小さな町会なのでお祭りもないし行事も春と秋の大掃除くらいかな。

近年はここでも御多分に洩れず少子高齢化が進んでしまい楽しみといえば1月の総会と懇親会で顔を合わすことなんだ。それで隔年で和倉温泉に行くようにしているんだよ。祭りも旅行も無いけど顔の見える町会なので近所同士の仲が良いのと、同年代同士で行き来しているので昔からまとまりが良い在所になっているね。冠婚葬祭など町内の情報はすぐ伝わり協力しあっているんだよ。最近は空地や空家も増えているんだけど、住みよい場所だから来てくれれば大歓迎しますよ(笑)。

あきこの一言

辺境の地で興した在所、
歴史を知り隔世の感。


第142回 七尾市白馬町


町名の由来

伝わっている話では、源頼朝が政略的に源氏の守り神、鎌倉の鶴岡八幡宮を全国の要所に勧請させてその分神を鎮座させていった当時に、能登國七尾から下町の守友さん、飯川町の高田さんと若林町の荒牧さんの先祖が鶴岡八幡宮に出向き、係りの飛助のお供をして御神体を神馬に乗せて運んできたんだ。飛助は騎兵隊の補佐係で役目が終わったので神馬と共にこの在所に永住したんだね。その神馬が白馬だったことが由来だと言われているんだ。

飛助の子孫が登美昭夫さんの家で、その白馬に水を飲ませ、体を洗っていた池が今でも屋敷の中に残っているよ。運んできた御神体は現在徳田町の久志伊奈太伎比咩神社に合祀されて若宮八幡宮として祀られているよ。

昔の在所

莚(むしろ)の一大生産地で遠い昔から白馬の角莚として特産品だったんだ。江戸時代後期に北海道の松前でニシンの豊漁が続き、ニシンを入れる莚の需要が高まり、農家を営む殆どの家の作業場には莚を織る器械を据え付けて、副業として家々で競争して徳田特産の八幡莚として織っていたんだ。納屋には藁(わら)が積み上げられ、これをやわらかくする機械もあって小学校の子どもは縄(なわ)を作るのが仕事だったそうだよ。

莚は荷馬車に積んで七尾港へ運んで、貨物船に積んだらしいよ。昭和10年代まで生産が続いたようだね。高田石材店の裏に前野、中野、奥野と三台地が連なりそれは見事な野畑が広がっていたよ。野菜や葉たばこを栽培していたけど、今は所々が植林され当時の広大な野畑は姿を変えてしまっているね。ちょっと残念だけどしょうがないよ。

これから

さん田川、鷹合川、坂井川、佃川、白馬川と5本の川が流れ、総延長10km以上あるので河川愛護デーの草刈では追いつかず大変なんだ。それで班毎に割り当てて常日頃から草刈など整備してもらっているんだけど、お陰で最近はホタルがたくさん飛ぶようになったよ。ここは班単位で町会運営の協力をしてもらっているんだ。

集会所も毎週班毎に掃除をしてもらうし、白馬町子供の広場で毎年行なう在所の運動会も班対抗なんだよ。今年で44回を迎えたけど、少子高齢化で世話も大変になってきたし何時まで続けるのかという意見あるけど、これが在所全体の絆が強まる唯一の行事なので頑張って続けていかなければと思っているんだよ。

あきこの一言

国の歴史に通じる、郷土の歴史。
先人の営みに思いを寄せる。


第141回 七尾市柑子町


町名の由来

もとは柑子山だったんだ。昭和29年に七尾市と合併する時に山の字を取って柑子町になったんだ。山の中というイメージ払拭したかったという話だよ。柑子とはミカンの一種で、沢山栽培されていたことが町名の由来らしいよ。

昔の在所

江戸時代に庵村から独立分村した在所でね。柑子は山方(やまかた)四ヶ村と言って、外林、小栗、清水平と山の中の在所で、庵や佐々波の在所は浜方と呼んでいるんだ。何百年前か分からないけど元の集落は、山の峠に50軒ほどあったそうだよ。私の先祖と吉田家の先祖が室町時代の蓮如上人の弟子の寺男として能登に布教に来てここに住んだと伝わっているんだ。その吉田家の場所に建てた寺が後に庵へ移った西方寺なんだよ。

昔はシーサイド公園辺りが柑子の網場で漁もしていたそうだけど、大方は山、畑、田んぼで暮らしていたんだと思うよ。この辺りでは一斗ブリという言葉が残っているけど、大きなブリ一匹と米一斗を浜方と物々交換していたんだ。

明治22年には戸数12、人口77人と記録にあるけど、明治30年頃に大火があって村が全焼しているんだ。その頃から村を出て行く人が出始めて数世帯が北海道開拓団として出ているよ。炭を入れる俵を1枚10円の手間賃で作っていたり、庵の大敷に薪を売ったり、浜方の女の人がタラやブリを売りに来たりしていたね。私が子どもの頃で16軒の在所だったんだ。

これから

なんも無いよ。年金暮らしの2世帯がそれぞれに暮らしているだけだよ。猪、狐、狸、兎、イタチ、最近カモシカも見かけたよ。獣の出る山の中での暮らしていると、寂しくないかとか、怖くないかとかよく聞かれるけど、人間の方がよっぽど恐ろしいよと答えているんだ(笑)。

なんにも出来なくなったけど、祭りの日だけは2世帯で宮でお参りはしているんだ。昔は祭の日も仕事を終えてから宮へ集まってお神酒を頂いて夜に神輿を担いたんだ。神主さんには泊まってもらって、翌朝に地蔵石にお参りをするんだ。この地蔵石は明治時代に浜方の虫崎の人が担いでここを通った時に動けなくなり、神様が宿っているので柑子山の人で守ってくれと言われてそれから在所で守っているんだよ。田んぼも草ぼうぼう、鳥居も朽ちて、消滅していく在所だけど、3人でそれなりに日暮らしをしているよ。

あきこの一言

人が住む所、歴史あり。こみみで歴史を伝える使命を感じる。


第140回 中能登町水白


町名の由来

何で水白と書いて「みじろ」と言うのか本当の所は良く分からないよ。在所では「めじろ」と発音しとるけどね。天正5年というから上杉軍が七尾城を落とした年の気多社免田記には「見しろ村」と書いてあるそうだけどね。ここには久江川と小竹川の支流が流れ込んでいて、在所の中をきれいな水が流れているんだよ。個人的には水がきれいだから、いつしか水白と書くようになったんではないかなぁと思っているんだ。

昔の在所

伝わっている話として、水白に木曽義仲が布陣した時、在所の八幡神社に立ち寄って祈願しているようだよ。倶利伽羅峠の合戦の前にここを通ったのかもしれんね。それとここには鍋塚という古墳があるんだ。鍋をひっくり返したような丸い円墳なんだよ。戦時中に芋を植えたので、今は段々になっているけどね。

江戸時代後期の文化13年に外観の調査をして、明治39年に正式に発掘調査したら石棺や銅鏡、刀や鉾が出てきたんだ。偉い人の墓に違いないけど、誰だかわからないので、羽咋市大町の長谷寺にも聞いたけど結局分からなかったと記録されているよ。鍋塚に自分達の親世代が町の許可を得ないで内緒で桜の苗木を植えたんだ。町も黙認してくれたんだろうけど、今となっては桜の名所になるくらい立派に育って、春には多くの人がカメラを持ってやってくるよ。

これから

ありがたいことに親と同居している世帯が多いので、子供も多いよ。そうは言っても、高齢化は進むし、空き家も増えてくるし、どうしたもんかと思うね。平成20年から始めた圃場整備も10年越しになったけどようやく終わりが見えてきてホッとしているよ。時代の流れでいろんな問題が出てくるけど、その時、その時、一つ一つを考えて解決していくしかないと思うよ。

今年は7月に在所の防災訓練をやって、秋には子ども会も含めて公民館で餅つきをしたいと思っているんだ。旧家が多いので臼を持ってきてやれば子ども達も喜んでくれるし、大人も懐かしんでくれるんじゃないかと密かに計画中だよ(笑)それと宮の山の間伐をしたけど、手ごろな丸太がいっぱいあるから欲しい人がいたら電話してもらえればどれだけでもお分けしますよ。

あきこの一言

細い在所道を歩く、緑多く澄む空気、水の流れが音する在所。


第139回 中島町河崎


町名の由来

旧富来町日用村を源流にする日用川が豊川平野を流れ
七尾西湾に注ぐけど、その下流に集落を形成している
最後の在所がここで、川の先っぽの在所、
河崎となったと伝わっているよ。

昔の在所

在所の裏山に戦中戦後は畑をしていた二町歩程の平地があるけど、
そこには昔は七堂伽藍があり立派な社もあったと伝わっていて、
上杉謙信に焼き払われてしもうたと年寄りが子どもに聞かせていたもんだよ。
今在所には徳照寺という立派なお寺があるけど、これは西岸の長浦にあった真言宗の
お寺がこれも上杉勢に焼かれたんだけど、再興にあたり河崎に移り浄土真宗に改宗しているんだ。

この徳照寺に平安時代の宮廷音楽の雅楽の楽団があるんだよ。
明治時代に在所の金森萬造、岡野市太郎、国田久太郎という
進取の気風あふれる男達が取組んで雅楽三人衆と言われていたんだ。
現在も引き継がれ門徒12名で編成されていて、能登で四つしかない
貴重な楽団として1月と10月の報恩講で演奏しているんだよ。

ここの祭りは秋が9月9日と田んぼ時期と重なるので、
春を主体に行なう様になった歴史があるんだ。
子どもの頃は、祭り道具の奪い合いするほど子供がいたし、
在所の9割が御招待していたほどの夜遅い祭りだったけど
今はそんなことなくなってきたね。

これから

昭和30年には102戸、現在106戸、世帯数は変らないけど人口は半分になっているんだ。
中島駅に近くお店や事業所も多い在所だったけど、
人口が減った分だけ何事も負担が大きくなっているんだよ。
道路愛護のえほりの面積は変らないけど出てくる人が減っているからね。

在所の金森総本家の子孫で元北陸学院大学教授の金森俊朗先生が
2010年にペスタロッチー教育賞を受賞したことは誉れに思っているんだ。
この賞は民衆教育に貢献した人に贈られ宮城まり子、山田洋次、黒柳徹子、
アグネス・チャンなど有名人も受賞しているんだよ。
先生の教えのように固定観念に捉われず、物事の本質を見極めて、
何をどう捉えて、どうしなければならないか、それをみんなで考えていけるようになりたいね。

山あり、川あり、田んぼあり、まず第一として恵まれた
在所の財産の手入れをすることで、在所のみんなが繋がっていける、
そんな集いの場に出来たらいいなと思っているんだ。

あきこの一言

お寺の前を流れる日用川の桜並木
静かな田園に心地よい春風


第138回 能登島町八ヶ崎


町名の由来

能登島に臥(ふせの)行者がいたんだ。泰澄(たいちょう)大師の弟子でね。
昼夜臥しての心行で悟りを求めていたので、臥(ふせの)行者と呼ばれ、
奈良時代に泰澄と共に霊峰白山を開いたほどの行者だよ。
この行者が飛鉢の法で、沖を航行する船に仏具の鉄鉢を飛ばして供物を布施させていたんだ。
その鉄鉢が流れ着いたので鉢崎となったという話だよ。
それが室町時代の古文書では蜂崎となり、江戸時代では八ヶ崎になっているようだね。

昔の在所

八ヶ崎には4名の流刑者が配流されたけど有名なのは寺島蔵人(くらんど)だね。
藩政批判で流刑されたけど待遇がよかったようで
何かと在所の人々にも気を使ってくれたようだよ。
約4ヶ月後に62歳で亡くなるのだけど、
その間書いた手記や描いた絵から当時の暮らしが伺えるんだ。

配所跡に石碑を設置してあるけど、これは加賀藩ご用達の
和菓子の森八から昭和11年に在所へ届けられたそうだよ。
蔵人邸も森八も金沢の大手町にあるから何かしらの縁があるんだろうね。
ここは「やりもらい」が多い在所やね。
同じ家同士で嫁を貰い合うんだよ。
半農半漁の小さな在所ゆえの互助の手立て、知恵やったんやろね。

終戦直後に在所の事業として田んぼの耕地整理を始めているんだ。
軍の諜報機関にいたという穴水出身の幽経さんという人が移り住み、
その人が陣頭指揮をして進めたと聞いているんだ。それが今の田んぼなんだよ.

これから

40年以上運営してきた八ヶ崎海水浴場も主体の女性会が
面倒見れないと言うのでどうするか在所で話し合ったんだ。
出番は月に3日から5日あるけど、若い人は会社休めないし、
今までやってきた人は齢をとるし、お客も3分の1程に減っているので
閉鎖の方向で考えていたけど、勿体ないので在所で運営することにしたんだ。

昨年地域づくり協議会から猪のミンチやカレーをやりたいので
施設を貸してほしいという話があり、一緒に力を合わせてやっていくことにしたんだ。
週末には若い人が集まり改装しているよ。戦後の田んぼの基盤整備もしたいと思うけどね。
高齢化と猪の影響で荒地になる一方だし、集落営農するにしても整備しないとね。
価値ある農地にしておかないといずれ担い手がいなくなる事が心配なんだよ。

あきこの一言

それぞれの時代を生きる人、
陽だまりで聞く八ヶ崎の歴史。


第137回 中島町田岸


町名の由来

鎌倉初期の古文書に多気志と書かれていることは聞いているけど、
なぜ多気志になったのかは分からないよ。
在所裏の段々畑に縄文時代の田岸遺跡が発見されているので、
古くから人が住んでいたのは間違いないようだね。
渓谷が海岸に迫る地形を谷崎(たんぎし)というので、それが転化したという説もあるみたいだね。

昔の在所

先輩から話を聞くと、戦中は食べるものが無くて、
米は供出して白いご飯は1年に1回も食べればという生活だったらしいよ。
それで裏山で食べられる野草は何でも採ってきて、
海ではたばこ貝やガサミを獲っていたと言うよ。

戦後は富山から燃料にする雑木を買いに船が着いて積んで行っていたようだよ。
海に面しているけど小魚は獲っても本格的に漁業を営む家は無くてね、
まぁ、山と田畑で自給自足で暮らしていたんだろうね。

現在の在所

盛りだくさんの活動をしてるんだ。この時期なら、田んぼの鯉のぼりだよ。
平成22年に在所に15年ぶりに子供が生まれたんだ。
男の子でね、それでみんなで祝おうと在所中から箪笥に眠っていた
鯉のぼりを集めたのが始まりでね、その輪が広がり
田岸に縁のある人達からも寄せられて、現在は45匹を毎年田んぼに
ワイヤーを張って泳がせているんだ。のと鉄道から見えて観光客を楽しませてもいるんだよ。

女性会は季節の花をプランターに植え国道沿い並べ、
そこに鯉のぼりや七夕、熊甲の枠旗、風車など季節のミニ飾りを
設置して道行く人を楽しませているし、老人会は休耕田にコスモスを植えて
電車の乗客を楽しませているんだ。
小さな在所ゆえみんなで助け合ってきた伝統と、
故郷愛が全員野球のモチベーションになっているんだね。

これから

イルカが来る海に昇る日の出、山並みに射す光、
昼と夜の狭間に見える一瞬の光景、本当に愛すべき古里だよ。
高齢化や人口の減少は避けられないけど、身の丈に合わせつつも、
田岸の良さを維持していかんとね。

毎年5月には「田休み慰安会」と称して老若男女が集会所で
親睦を深めているし、5年前から「田岸の郷」という広報誌を毎月発行して
在所の出来事をみんなに知らせているんだ。
強い絆を絶やさない事が在所の命題だと思うんだよ。

あきこの一言

穏やかに、仲良く暮らす人々の、
古里を思う気持ち伝わる。


第117回 中島町別所


町名の由来

能登島にも金沢にも別所はあるけど、
山奥で不便な所を一般的に別所と言うのではないかと思うね。
ここも七尾市中心地から一番遠い在所ではないのかな。
中島町史には西暦1577年、天正5年5月16日、
長連龍(ちょうつらたつ)の兄、長綱連(ちょうつなつら)が
36歳の時に中島町谷内の熊木城を上杉勢から奪回するため宮前の在所に前線を構え、
兵1500を別所村に布陣すると記されているんだ。
別所から谷内に通じる一本の山道があるけどそこを塞ぐ布陣だったんだね。
いずれにせよ安土桃山時代には別所と呼ばれていたということだね。

別所の歴史

在所では久保さんの屋号が丹後で、丹後守(たんごのかみ)と呼んだりしているけど、
応仁の乱で京都の丹後国(たんごのくに)から逃れてきたと伝わっているんだ。
久保家古文書で別所の世帯数、人口、出生、牛馬の数などが記録されていてね、
1730年から1889年の明治22年まで25か26が別所の世帯数で、
人口は220人から250人前後で馬は28頭、牛2頭だったんだ。

第13代藩主前田斉泰(なりやす)が海岸防備状況を視察する能登巡見で別所岳に登っているんだ。
その時、丹後守の久保家で休憩しているんだ。
小学校は西岸小学校別所分校だったけど昭和37年の
2学期から釶打小学校別所分校となったんだよ。
私が小5の時で1学期だけ西岸小学校へ通ったんだ。
道路整備が進み人の流れが西岸から釶打に変ったんだね。
それにしても小学生が別所から遠い西岸まで山道を朝早くから通学したと思うよ。
学校に着いた時にはズボンが朝露に濡れてくしゃくしゃになっていた事を思い出したよ(笑)。

昔と今

別所は天領だったんだ。別所岳に登ると七尾北湾が一望でき地勢的に重要だったんだろうね。
田を開き、炭を焼いて、個人で兎や狸、集落で猪や鹿を獲っていたと言うから自給自足の暮らしだったんだね。
中島へ勤めに出たのが昭和40年代だよ。
谷間の小さな田んぼの石積みを見ると先祖の苦労が分かるんだ。
超過疎地になって、悲しいけどしょうがないね。
在所の事もお互い様で、てんでんに出来る事はせんかいね、出来んことは無理せんとね。
が合言葉だよ。流れに身を任せて今を暮らしていくだけだよ。

まぁの一言

穏やかな日和、山道を進み、別所岳に登る。
わぁー!と思わず声が出た。
故郷の山と海を一望。


第116回 中能登町小田中


町名の由来

小さい田んぼの中の在所だったのかねぇ。
親王塚の前にある大きな石は舟をつないだ石だと
伝わっているのでそこまで邑知潟だったようだよ。
私の親世代は鹿西の能登部を向岸と呼んでいたから、
今のように田が広がっていなかったんだ。
鎌倉時代の古書に小田中保と、平家物語にも
小田中の親王塚と出てきているから、
そんな頃にはすでに小田中と呼ばれていたんだね。

神仏の歴史

親王塚は、第十代崇神天皇の第5子で能登の国造りに
大変な功績を残した大入杵命(おおいりきみのみこと)の墓なんだ。
4世紀後半に作られたといわれ、北陸随一の大きさで貴重な
出土品からも当時ここが能登の中心地だったことが伺えるんだよ。
その親王塚のてっぺんに大入杵命を祭る御祖神社があって、
在所では神輿を担いで登って祭りをしてたんだ。

明治になって神社が今のお宮に合祀され、人が登ることも禁止されたけどね。
この地区が御祖(みおや)となったのはこの神社の名前からなんだよ。
在所を流れる長谷川上流に能登国観音霊場10番札所の初瀬観音があるけど
毎年7月9日、10日にお参りするんだ。
七尾から参拝者も来るので当番を決めて朝早くからお世話させて頂くんだ。
昔は在所をあげてお参りしたけど、近年は少子高齢化が進み
在所でもお参りする人が少なくなって寂しいんだよ。
それと上杉謙信の能登攻めで在所に33もあったお寺が全部焼かれた歴史もあるんだよ。

福俵

昔、小田中に福田の在所の飛地があって、
そこの池に棲む大蛇が田んぼを荒らし困っていたんだと。
それで若い娘を人身御供に出していたけど、
その家の人は悲しみ小田中の神社の久志稲田姫に相談したら
気多大社の大国主命にお願いしてくれて大蛇を退治してもらったんだ。
そのお礼にと福田の人達がそこでとれたお米三石三斗を小田中の神社に奉納し、
それが伝統行事となって今でもおいで祭りが小田中の神社に入るとき、
福田の人が三升の福俵を黒塗りの三方に載せ正装で行列の最後に並ぶんだ。
年が明けた気多大社の新年祭でその福俵のくじ引きが行われるんだ。
なんと昨年、小田中にこれが当たったんだよ(笑)
良い縁起が続くよう、みんな仲良く頑張っていきたいね。

まぁの一言

まだまだいっぱいの、
歴史物語が詰まった在所


第115回 七尾市三島町


町名の由来

江戸時代には竹町で、明治5年に三島町と改名されたんだ。
なんで三島になったかわからないんだ。
ここは元々海に沿った町で子どもの頃は魚釣りや蛸釣りして遊んでいたけど、
ふと海を眺めると、沖には能登島と雄島、雌島が浮かんでいるんだね。
この三つの島を眺める在所なので三島町になったんではないかと想像しているんだよ。

昔の三島町

七尾港を中心に栄えた町でね、昔は回船業を営む船主が9軒もあったんだ。
慶応元年に架けられた慶応橋の袂に、今は国分にある明願寺があったんだ。
その跡地に七尾警察署が建ち、今は七尾商工会議所になっているよ。
その隣にある在所の金刀比羅神社は石動山の梅の宮本殿を移して、
さらに海上安全の神様、讃岐の金比羅さんから御霊を分霊してもらったんだ。

明治28年の七尾の大火は三島町の莚(むしろ)納屋から出火して
御祓川の西側900戸を焼失してるんだ。
学校も役場も銀行もお寺も病院も全部焼けたんだ。
私が子どもの頃の三島町は多くの人が行き来していたよ。

昭和15年に開館した七尾劇場には日曜日ともなると行列が出来ていたなぁ。
慶応橋から常盤町までは幅3間の道路で当時は七尾で一番広い道路だったよ。
三島町の隣が新地歓楽街で港町ならではの賑わいがあったね。
家が下駄、草履の店をしていたんだが、その頃は年が変われば新しい下駄を履く習慣だったので、
台に好み鼻緒をすげて仕上げるのに新地のお姉さんたちがよく出入りしていたのを覚えているよ。
そんな時代は七尾実業の学生が高下駄をカラコロ、カラコロと七尾駅から一本杉を歩いていたしね。

これから

時代は変わってきたけど料亭の福井亭や七尾に一軒だけになった造り酒屋の
布施酒店などが今に面影を残しているかな。
金刀比羅神社では毎月10日に定例祭が執り行われて、
本宮神社の宮司を招いて玉串を捧げて七尾港の安全と在所の安寧を祈っているんだ。
新年会や運動会などは婦人会がよくお世話してくれるし、
夏祭りは青年部長の浅野さんが頑張ってお世話をしてくれるので、
高齢世帯が多くなってきているけど、町内が一致団結できているんだ。
本当に有難いことだよ。これからもみんなで力を合わせて様々な問題に取組んでいかなければね。

まぁの一言

喧騒の表通りから一本入る、
港町の香がほのかに感じる三島町。


第114回 七尾市湯川


在所名の由来

一軒だけある湯川温泉宿の龍王閣は、江戸時代の湯治場だったんだ。
この温泉は在所を流れる崎山川から湧き出ているんだよ。
川の中から湯が出ているので湯川になったんだね。
火傷など皮膚病に効く、昔からの秘湯でね、
鎌倉時代の古文書にすでに湯河村と書かれているんだよ。

昔の生活

谷間の集落なので平地が少ないんだ。
それで山を開墾したら石灰を含んだ赤土でね、
そば、ごま、ごぼうを植えてたけど、
ごぼうに適した土で長くて美味しいごぼうが採れるんだ。
湯川と隣の岡町は、ごぼうの元祖名産地だったんだよ。
ごぼうの七日炊きという料理があって、囲炉裏の鍋に七日間炊いて、
すった胡麻をまぶして、報恩講様の時のごちそうの一品として出すんだよ。

石崎と輪島の海女がカゴを担いで来ていたけど、魚と米の物々交換だったね(笑)。
越中の人も着物や床の間の飾り物を売りに来ていたね。
母さんたちが何人もで組んで松任へ稲刈りの出稼ぎに行っていたけど
土産にスイカを買ってきて貰うのが嬉しかったなぁ。

ホウダツ

裾に大小のトンネル水路が何本もあるんだよ。
田んぼを広げるのに崎山川を付け替えしたのと、
川から取り入れた水を田んぼに引く水路を山裾を掘って作ったんだ。
普通はマンポと呼ぶけど在所ではホウダツと呼んでいるんだ。
明治時代から工事が始まったんだけど、その職人が宝達村の人たちだったんだ。
宝達の人が何十年もかけて掘っていたのでホウダツと呼ばれていったんだね。

これから

兎、狸、狐、猪のほかに、最近は熊、鹿、猿まで現れるんだ。
耕作する人が減って山や畑が荒れたら獣が入って来たんだね。
子どもの頃は貰い湯したり、半客と言って罠を仕掛けてもじなや
兎を捕獲した家にみんな集まって鍋にして楽しんだもんだよ。
若い人に獲り方や、さばき方を伝える必然性もない時代だけど、
そんな昔の生活様式を残しておこうと、多目的コミュニティーセンターを
建てて在所中から民具を集めて展示したんだ。
湯川に来て昔の暮らしや自然を満喫して温泉に入ってもらえれば嬉しいね。
この地に合った村おこしを探しているけど、高齢者も多いので、
のどかな里に、なごやかに暮らしていかれればと思っているんだ。

まぁの一言

気持ちが穏やかになる、
日本の原風景を感じる在所。