こみみかわら版バックナンバー

古銭コレクター

大林 博文(おおばやし ひろふみ)さん

70才 A型

長年集めてきた収集品を通じて、興味関心のある方に見てもらい、仲間を1人でも
多く増やし親睦を図りたいと思っています。

自分で収集品をかかえていても前へは進めず何かを発信しないとダメなので、自分の
古希祝いを機会に、11月11日ワークパル七尾で記念貨幣展を開催します。

1枚のコイン・1枚の紙幣にも、色々と書体の違いや趣があり、知れば知るほど面白いです。



住 所:七尾市御祓町

お電話:0767-53-1734


はい!社長ですー扇自動車工業


扇自動車工業 山本 美津子 (やまもと みつこ)さん 54才 A型


平成27年に社長(夫)が急死、以後、経営者として奮闘する毎日です。

当社は創業55年、先人の努力の上、長い時間をかけお客様との信用、信頼を
築きあげてきました。支えて下さるお客様に多くの事を教えていただける
ことに感謝し、会社の発展をもって地域に貢献したいと思っています。

車の事はちょっと苦手な女性のお客様でも気軽に足を運べるよう、今秋店舗を
リニューアルしました。

住 所:中能登町黒氏10部146番地
お電話:0767-74-0298


七尾東部中学校 美術部


自分が「これに取り組もう」と決意して、それをやり遂げるという事は意外に
難しい事です。イメージと少し違ったりすると落ち込むし、最後まで集中力を
保つ強い精神力も必要です。
作品が完成した時の感動はとても大きく、やりがいを感じます。
学年を超えて仲が良く、お互いの長所を認めアドバイスし合うのが美術部の
良い所です。(黑丸)

顧 問:戸部 勢津子先生

部 長:黑丸 文月さん / 副部長:折橋 佐和さん


のとじま水族館

石川県で唯一の水族館です。昭和57年に開館して36年経ちました。

今年の4月に回遊水槽をリニューアルし、日本海側の水族館では初めての
プロジェクションマッピングと合わせて、まるで海中散歩をしている気分で、
泳ぐ魚たちを観る事ができます。


第150回 七尾市古城町


在所名の由来

室町時代の七尾城、戦国時代の小丸山城、二つの城があったけど、古い方のお城があったということだ
ね。ここの大手門跡から本丸へと道が続いているんだよ。後で七尾へ入った前田利家が城山を使わなか
ったのは、天然の良港を活用し新しい時代に備えたんだね。琵琶湖畔に信長が安土城、秀吉が長浜城と
船での交易で経済を発展させていたからね。

昔の在所

戦乱が終わり、ここ武家屋敷跡に各地から移り住んできたようで、鹿島の武部から来たという話も聞い
ているんだ。江戸時代には大豆や小豆、大麦や小麦、菜種など栽培し、菜種は所口町の油屋に売って、
12世帯、54人、馬4頭と記録にあるよ。
在所の八幡神社は七尾城内にあったものを移したらしいんだ。

年寄りに聞いたけど終戦後に忠魂碑を建て、その後スキー場を作っているんだね。小池川原町と土地を
出し合って共同で作ったかなり大きなスキー場で市内から沢山滑りに来たそうだよ。

それと城山展望台が出来た時に殿様の子孫で荏原製作所創業者の畠山一清さんを籠で担いで登り、古城
婦人会がめった汁を炊いてみんなに振る舞ったと叔母さんから聞いているよ。

これから

牡蠣棚に使う竹を出していたくらい孟宗竹の林が続き、辺り一面はきれいな畑だったね。今では竹薮
は荒れ、畑も山になってしまったよ。そこを大手門跡から続く遊歩道が通るけど、毎年行なっていた
草刈もここ数年やれていないんだ。シーズンには学生や家族連れが結構来るので何とかしないとなぁ。
山頂の整備と合わせて行政で対応してもらえれば有難いんだけどね。

大正13年に小池川原、古屋敷、竹町の人たちと落ヶ谷の滝で雨乞いしたら16日目に雨が降ったん
で、竜神様にお礼をと、十数人で抱える程の藁で作った大きな大蛇を大谷川に流し、府中の浜に掲げ
て燃やしてお参りしたと言うよ。そして感謝の不動尊を滝のそばに安置したんだ。真舘精三さんと娘
婿の次郎さんが野ざらしではと祠を作ってくれたんだ。

真舘家では毎年11月28日に妙観院さんに来てもらい不動尊をお参りし、元旦は大雪でも不動尊に
参詣してからお雑煮を頂くというから、恩を忘れず人知れずお礼を続けている姿に頭が下がるんだ。
共助とはそんな精神を一人ひとりが持ち合わせることだと教えられるんだよ。

あきこの一言

在所ごとを我が事とする精神、
歴史ある在所に見習う姿あり。


2018年11月10日<332号>掲載 我が家のペット

かえで(メス♀)

ボールが大好きで、性格が男の子みたいです♪

(中島小牧 瀬端さん)


おひで(オス♂)

私にはとても甘えん坊です。そんな可愛いおひでに毎日癒されています。

(良川 林さん)


すみ(メス♀)

若い時は散歩で引っ張られていましたが、今は楽になりました。

(高田町 石島さん)


きなこ(オス♂)

あまり鳴きませんが、たまに鳴くと「わーん」と鳴くユニークな猫です。

(国分町 木下さん)


コロ(オス♂)

散歩の時間になると催促しに「ワンワン」と呼びにきます!笑

(白馬町 登美さん)


チビ(メス♀)

人に優しい性格ですが、狩猟犬です。今はまだ教育中です!まずはイノシシ狩りに連れて行きます。

(白馬町 坂口さん)


くう(オス♂)

食欲旺盛でお散歩が大好きなくうちゃん。家族皆を笑顔にさせてくれる存在です♪

(府中町 谷内さん)


クロ(オス♂)

畑で鳴いている子猫を子どもが拾ってきました。

(小竹 池田さん)


ソラ(メス♀)

甘えん坊で勝気なじゃじゃ馬ですが、可愛いポメラニアンです。

(中能登町 小谷さん)


小太郎(オス♂)

主人を守るため熊とも戦う血統書付きの北海道犬ですが、甘えん坊で、人懐っこいです。

(津向町 小西さん)


ひな(メス♀)

甘えん坊で人が大好きなひなです。

(松百町 高橋さん)


プータン(オス♂)

人の気持ちがわかるようで、私が悲しい顔をしていると、寄り添ってずーっと横にいてくれます。

(相生町 山野辺さん)


ブン太(オス♂)

いつも食欲旺盛なブンちゃん。12歳になってもまだまだパワフルに動き回っています。

(青葉台 谷口さん)


かん太(オス♂)

甘えん坊で可愛いかんちゃん。毎日窓から外を見てパトロールするのが日課です。笑

(青葉台 谷口さん)


温故知新 第4回 ちょんこ山物語


宮下 三郎さん(56歳)

気多本宮曳山奉幣祭、本宮さんの春祭り、4月七尾の街に春を告げる。5月に日本一大きいでか山があり、その前月に行われることと、子ども達が引き廻し、ちょんこ山と呼ばれているので、でか山の前座だと思っている人も多いのではないだろうか。しかし、ちょんこ山の歴史は古く、かつては盛大で賑やかな祭りだった。今その運行さえも危ぶまれていく中、ちょんこ山を未来に繋ぐために9年前保存会が立ち上がり、しゃぎりの復活、伝統の継承、歴史を記す取り組みが始まった。ちょんこ山の事を網羅した文献が無かったため、保存会ではその歴史を調べる事にし、その執筆に抜擢されたのが宮下さんだった。

祭りと故郷を愛す

「それだったら宮下三郎さんに聞いたらいいよ」今までこみみの取材中に何度も耳にしたフレーズだ。4人兄弟の末っ子として一本杉に生まれた宮下さん、小1から祭りに参加しているが、当時は芋の子を洗うほど子供が多く、中々山車に乗せてもらえなかったと言う。しゃぎりの練習開始が待ち切れず二時間も前にまだ誰もいない部屋に行ったり、山車の人形の横に立ち晴れがましい気持ちで電線避けの棒を持ったことなどちょんこ山の思い出が多い。

そんな宮下さんは故郷を愛する思いも人一倍だ。畝源三郎のハンドルネームで自身のホームページを立ち上げ、一本杉、七尾、能登の歴史を詳しく紹介している。それを見ると、ちょんこ山の歴史を調べるのに宮下さんをおいて他にはいないことが頷ける。



ちょんこ山の変遷

神輿が巡幸する祭りとしては平安時代後期と考えられたりもするが、曳山そのものは江戸時代の享保2年(1717)、加賀藩士が書いた「能州記行」の記述で確認できる。当時は獅子頭を被った太鼓叩きを先頭に、小旗、賽銭箱、四神旗、台笠、金幡、立笠、鉾、槍、馬、神輿、籠などの百数十人の行列の最後に山車を曳いていた。それも米町の大国様、木町の恵比寿様の2台だけだったことがわかる。阿良町、一本杉、生駒町は毎年交代で歌舞伎を奉納していたという。

それではいつ、なぜ三町が歌舞伎を止め、山車を曳くようになったのか。宮下さんは30冊以上の文献を調べ文化5年(1808)に三町が一斉に曳山に変わったと読み解く。その訳を加賀藩政史との係わりから推測する宮下さん。文化文政期は江戸の庶民文化が最高潮に達した時代であったが、この時期、加賀藩では藩主が短い間に何人も亡くなったり、金沢に度重なる大火があったり、飢饉が起きたりと泣き面にハチの状況で、藩内に歌舞伎や狂言の禁止の通達を出していたことが影響したのではないかと言う。 また昭和33年頃までは御祓地区を巡幸した翌日には、袖ケ江地区も巡幸していたという。

宮下さんは全てを調べ尽くしたわけではないと言うが、「ちょんこ山物語」という一冊が出来上がった。保存会のメンバーも内容の深さに感心し初版20冊だったものが数百冊も増刷され図書館にも置かれた。今、宮下さんは保存会事務局長を務め、ここ数年は文化庁の文化芸術振興費補助金等を活用して車輪の整備を続けている。そして祭り前に一人、ポスターを持って近隣の幼保園を回り参加を促している。先棒を担ぎ走るタイプではないが、縁の下の力持ちとなって地道な活動を続ける宮下さん。 

さて、これから七尾のちょんこ山をどうしていくのか…。物語の続きは、今を生きる者で創らなければならない。



はい!社長です-玉川建設-


玉川建設 玉川 友和 (たまがわ ともかず)さん 40才 A型

建築業全般の仕事をしています。 二十代の頃から独立する事を夢見ながら、
三十代最後に人生最大級の決意をし、今年の4月から玉川建設(株)を設立しました。

『頼んで良かったタマガワにっ!!』と笑顔で喜び合える事をモットーに地元で
根強く根を張って生きたいと思っております。

業者さんのパートナー募集中!!
子宝にも恵まれ、だんご三兄弟のイクメンにも奮闘中!!

住 所:七尾市大手町44番地
お電話:0767-53-2018


御便殿(和倉青林寺)


御便殿とは皇族が休憩する建物です。

明治42年、大正天皇が皇太子の時、和倉行啓の際に建てられました。
当時珠洲から千人、鳳至から二千人の小学生を集めて市内のお寺で宿泊し、
袴を履きお迎えしたそうです。

昭和51年に青林寺に移築されました。


中能登中学校 柔道部


全能登新人大会では男女団体で3年連続優勝しました!

練習は男女とも同じ内容です。 チーム・個人として、明確な目標を立て、
絶対に成し遂げていくという強い気持ちで練習に励んでいます。

体が小さくても相手を投げ飛ばす技が決まったときは見ていてもスカッとします。
全員がとても元気で明るく、一つにまとまっているチームです。


横山内科医院

上井 ひなの(かみい)さん

20才 A型

高校生の頃からの夢だった医療事務の仕事に運良く地元の七尾で就く事が
できました。

受付は患者さんと最初に顔を合わせるので、笑顔で接して少しでもアット
ホームだと感じてもらえるような環境にしたいです。

自分が学生生活で学んだ知識をたくさん使い、そして人生の先輩から
たくさんの事を学んで多くの事を吸収して、社会人としてレベルアップ
できるように頑張りたいです。



住 所:七尾市御祓町子3番地4

お電話:0767-57-5700


第149回 七尾市阿良町


在所名の由来

江戸初期の絵図には新町どをりと記載されているけど、その後に阿良町と変ったようだね。たいてい阿良町のルーツは荒れた土地に人が住み新しい町が出来ていく中で、荒町とか新町となって、同じ地名が先にあれば、当て字で阿良を用いたりするみたいだね。

昔の在所

前田利家が作った城下町で商家が多く、明治時代には七尾警察署や七尾町役場もあったけど明治28年の大火で町が全焼したんだ。明治33年に七尾町立商業学校が小島から移転してきたけど、これも明治38年の大火で焼失するんだよ。この学校が後に七尾実業、七尾商業、そして東雲高校となっていくんだね。

明治時代に汽船会社を興し北海道航路を開いて活躍した樋爪譲太郎氏のりっぱなお屋敷があったんだけど、戦後アメリカ占領軍が進駐し昭和25年まで拠点としていたんだ。その跡地に東映の映画館やバーなど飲食店が並ぶ繁華街が出来たんだね。八百屋、魚屋、おもちゃ、貸本、菓子、靴、床屋、うどん、時計、乾物、燃料、豆腐、クリーニング、桶、電気、自転車、産婆、等々この町だけで不便なく生活が出来たんだ。本当に活気があったよ。

お隣が馬車の荷台を作っていてね、私の家の前に馬を繋いで荷台や車輪の修理をしていたよ。そこのおばあちゃんが木屑を燃やした灰でジャガイモやサツマイモをふかしては遊んでいる子供達に食べさせくれたんだ。懐かしいよ。

現在の在所

なんと言ってもちょんこ山かな。本宮さんの春祭りで、米町、木町、一本杉、生駒町、亀山町と六台の山車が出るんだ。昔はしゃぎりは長男しかやれないんだ。阿良町は笛、太鼓は子供で三味線は芸者さんを頼んでいたんだ。酔った大人が芸者さんに花を打ち山車の上も賑やかだったよ。昭和34年頃までは御祓川を渡って東部地区も巡幸していたんだけどね。今は少子化で阿良町ではだいぶん前から録音テープを流して曳いているんだよ。

沢山あったお店もほとんど無くなって昔の賑わいは無いし、空家も増えるし、12班から11班に減らしたところなんだ。そんな中でとにかく出来る事を一つ一つ成していくことが大事だと思うよ。防犯灯のLED化は今年で完了するし、夜玄関を出ると賑わっていた昔よりも明るくなったよ(笑)。2月には臼と杵とせいろを準備して餅つき大会を行なったんだ。

子どもたちに日本の文化を伝えるのと、町内のコミュニケーションを深めるためにね。参加できないお年寄りにはあんこときなこの餅を届けて絆を確認するんだよ。大切に残すもの、変えていくもの、今まで以上に求められる時代になったようだね。

あきこの一言

中心市街地の今昔、時の流れに添い暮す。
いつの世も、幸せは己の中に見出すもの。


第37回 「輝け!郷土の星」フラワーデザインの村山 唯さん(東雲高校3年)


第56回技能五輪全国大会の職種「フラワー装飾」で県代表!

フラワー装飾とは、花束やパーティー会場の飾りつけ、ブライダルブーケなど生花を用いてアレンジメントする技能のことで、フラワーデザインの国家資格です。そのフラワー装飾技能士2級に今年合格した唯さんは、山口県で開催される高校生フラワーアレンジメント全国大会と沖縄県で開催される技能五輪全国大会(23歳以下)に石川県代表で出場します。高校生で2級合格は石川県では歴代4人目の快挙です。県代表の連絡を受けた唯さんは、昨年、村上結乃先輩が選ばれていたので、自分も出たいなと思ってはいたのですが、「まさか本当に!」 とビックリしたそうです。

東雲高校フラワーデザイン部

生花部が前身のフラワーデザイン部は創部10年を迎え現在は女子6名、男子1名の部員が週1回から3回の練習をしています。実業系の東雲高校には資格取得を目指す気風があり、フラワー装飾の資格を取りたいという生徒の声に、顧問の宮本信子先生が独学で勉強して部を立ち上げました。

現在は宮本先生、出村豊先生、澤野毬乃先生が1級を取得しており、また金沢のフラワーデザインスクールの福岡千恵先生を講師に招き手厚い指導の下、2年連続で全国大会と技能五輪へ出場となる実績を上げています。



フラワーデザイン部

頑張り屋

お花と聞くと、おしとやかな感じがしますが、実はフラワー装飾は体育会系に劣らず激しい競技です。与えられた花材で課題(テーマ)を制限時間内で表現し審査されます。技能五輪の競技時間は5時間、私語禁止の会場でスケッチ、花束、ブライダルハーフ&ブートニア、ウィンドウディスプレイを制作します。集中力と体力が勝負の中、見る人に、そーなんだ、そんな発想があったんだと感じてもらうために、全体構成、色、形を調和させます。そして秀でた作品にするためのアイデア、最後の一工夫をどうするかでしのぎを削る戦いだそうです。

大会ではとってもお腹がすくんですとニコリと話してくれた唯さんですが、実は陸上部にも所属し、なんと県の高校総体では5000m競歩で3位入賞を果たしています。1年生の時は最下位だったと言うので、唯さんは相当な頑張り屋に違いないと思い、競歩とフラワー装飾をどう両立させたのか聞いてみると、3年生になって2級を受ける時、陸上部の向田先生も応援してくれたので絶対合格しなければと、陸上の練習を済ませ午後7時から10時まで市内の花屋さんで指導を受けたと言います。

やはり!そんな努力をしていたのかと感心し、指導する先生方にも唯さんの事を聞いてみました。福岡先生は、素直で諦めず最後まで頑張るので成長もするし、結果も出るのだと話し、宮本先生は普通なら挫折し投げ出してしまうところを諦めず、メンタルがとても強い子だと話してくれました。

唯さんは今、受験勉強や学校祭などやることが一杯ある中で大会に向けて練習に励んでいます。 優しくて頑張り屋さんの唯さんの人柄が表れる素敵なアレンジメントで技能五輪、頑張って下さい!楽しみにしています。



五輪をモチーフに


はい!社長です-宮斫工業-


宮斫(みやはつり)工業  宮崎 一治 (みやざき かずはる)さん 59才 O型

コンクリートを切る、削る、穴を開ける斫(はつり)という仕事をして30年。

空家の解体現場では家財の処分も行いますが、先祖を祀る仏壇や神棚などの扱いに
困る事があり、それで遺品整理士の認定を受け設備も整えて会社内に遺品整理部を
併設しました。

仏壇は僧侶の読経後に、お焚上げの儀を行います。 家の歴史や先祖の思い出など
ご家族様の想いを真摯に受け止め整理を行っています。

住 所:七尾市矢田町白土1-5
お電話:0767-54-8770


花嫁のれん館(馬出町)


花嫁のれんとは、幕末頃から加賀藩の能登・加賀・越中で始まった
婚礼の風習です。

花嫁が実家から持参した暖簾が仏間の入口に掛けられ無垢の花嫁が
一回だけくぐります。

くぐる前は娘さんで、くぐった後はお嫁さんとなり、覚悟の暖簾とも言われます。


七尾市観光ボランティアガイド はろうななお


現在24名の会員で、主に日本百名城の七尾城址や一本杉通りと花嫁のれん館等、
4つのコースを担当し、 観光バスツアーやグループのお客様を“おもてなし”の心で
ガイドしています。

「ありがとう」「良かったよ」の言葉が励みとなって、 七尾そして能登の観光の為に、
引き続き頑張っていきたいと考えております。   (会長 佐野藤博) 


環境日本海サービス公社

八藤 綜一(はっとう そういち)さん

24才 O型

大学を卒業後2年間金沢で働いていましたが、地元七尾の為に少しでも貢献したい
と思い、環境日本海サービス公社に転職し、下水道課で下水道処理施設の点検や
修繕などの仕事をしております。

先輩や上司の方々に指導してもらいながら日々仕事に励んでおります。

また、地元に帰ってからは小中学生に相撲を教えており、子供たちが心身ともに
成長できるよう一緒に頑張っております。



住 所:七尾市昭和町61番地

お電話:0767-53-0437


第96回 わたしの仕事は『船長』です。


仕事歴 2年  酒井 志津代さん 62歳

船するから手伝え

38年間勤めた石川サンケンを定年退職しカラオケ喫茶を開いてのんびり暮らそうと思い、兄に相談したところ返って来た言葉が「船するから手伝え」でした。子どもの頃から仲が良く大人になっても飲んだり歌ったりと二人で遊んでいましたし、いつも私を気に掛けてくれていた兄貴の言うことやし、まぁーいいか、という思いで船に乗る事にしました。

兄は食祭市場の遊覧船の船長として長らく勤めていたのですが、船の老朽化で会社は営業を終えることにしたのです。それで兄が新しい会社を立ち上げて運航を引き継ぎました。

ところが

平成28年10月から姉も加わり3人で運航を再開しました。遊覧船は12月から冬期の運休に入りますが、その2ヶ月間はとても楽しいものでした。兄は話上手でユニークな人柄でお客を喜ばせ、私はそんな姿を見てやりがいのある仕事だなと思い始めていました。しかしこの時の兄は癌の治療を受けており気合で頑張っていたのです。

そしてついに入院することになりました。「兄ちゃんがおらんとわてやれんし…」と励ましたのですが、兄は「大丈夫や、われの性格ならやれるわい!」と逆に励まされました。兄は弱った体で船に乗り「ガイド中も何が流れとるかわからんし海から目を離すな」「能登島が見えん日は船を出すな」と教え、病室でも「お客に嫌なことがあってもそん時は笑っておらなダメやぞ」「花火大会は小さい船がいっぱい出とって危ないから、頼まれても出したらダメやぞ」などと教えてくれました。

私は兄の代わりに船長をやらなければならないのだと覚悟を決め、2級小型船舶操縦士の免許を取りますが不安が募ります。「難しいけど、やってみて赤字やったらどうする?」と聞くと「出来るだけやってみて、赤字が続いたら無理せんでもいいよ」と言ってくれました。



うぉっ!ウミネコが!

船出

兄が亡くなり、兄の大親友が手伝ってくれることになりました。中古で購入した遊覧船は白く殺風景だったので青く塗りカモメの絵を描きました。遊覧船の運航を兄の意思を継いだ妹がやる、ということが話題になり新聞やテレビに取上げられたことで仲間が駆けつけ応援してくれ、前の会社の先輩や後輩もいっぱい乗りに来てくれました。私は人と話すことや、世話好きでもあったのですが、仲間との日頃のお付き合いの大切さを改めて実感しました。

そして何より驚いたことは、名物船長だった兄を慕っていたお客様が沢山いたことです。県内外からリピートのお客様がお土産を持って来るのです。事務所にある兄の写真にお供えをとお花とウィスキーを持ってくる人もいます。先日も東京から見えられたご夫婦が兄の死を知ると船着場で号泣するのです。思い出にどうぞ乗って下さいと促しますが、ショックで気力を失ったと乗らずに帰られました。遊覧というより兄に会いに来る人が後をたたず、「これゃ、頑張らなならんなぁ」と強く思いました。

穏やかな七尾湾でも漁師のように天気を先読みし、海の底を知らないとなりません。兄が案内していた話を覚えこの夏も朝から晩まで声を出してガイドしていたら、お盆過ぎに声が出なくなってきて慌てました。ストレス発散のカラオケにも行かずに養生しましたよ(笑)。大変な事は色々ありますが、「七尾に遊覧船があって良かった」「有難う、楽しかった」というお客様の言葉を励みに、楽しみながら出来るだけ頑張ろうと思っています。



七尾湾遊覧のクルー


第148回 七尾市殿町


町名の由来

白山、小松、加賀にも殿町という地名があり、そこは城下や武家屋敷跡が由来のようだけど、ここには確かな話が伝わっていないんだ。城山から山道が通じているので年寄りがロマンとして語るには、畠山の殿様の別荘か隠れ家があったという話や、七尾城が攻められた時の殿(しんがり)を務めた侍が住んだからだとか囁かれている話はあるけどね。調べてみるとね、ここのような段丘の地形を棚と言って、その「たな」が「との」に転化したという説もあるんだよ。

昔の在所

昭和30年過ぎまでは外へ働きに出ることもなく、山に挟まれた土地に男は田畑に山仕事、女はむしろを作って暮らしを立てたんだ。少しでも農地を増やすため山裾を掘削したマンポに崎山川の水を回して元の川を農地にしたんだ。そんなマンポが3箇所あるよ。

江戸時代には田んぼに出来ない畑に煙草を作って「山崎煙草」と称して七尾城下の所口町へ売り出していたようだね。崎山半島の西が七尾湾、東が灘浦で双方を結ぶ山道が何本も横断しているんだ。庵の虫崎からは柑子山、佐々波からは清水平を通って佐野を抜けて七尾へ入り、江泊や白鳥は沢野の柏戸から湯川を通って赤崎へ出て七尾へ入るんだ。殿にも大田や沢野へ通じる山道があってその要衝に地蔵様と板碑があり管理していたけど、現在は国道沿いの大きな阿弥陀三尊の板碑だけを春と秋にお参りしているんだ。

昭和5年から昭和12年にかけて交通不便を解消しようと殿と近隣の在所の人たちで大田までの道を開設したんだ。冬場仕事が無い時に少しずつ進めていったそうだよ。つるはしでトンネルまで掘っているから先人の努力に頭が下がるんだ。そのトンネルが昭和37年に改修工事され昭和40年には国道160号線に指定されたので殿トンネルは在所の誇りの象徴でもあるんだよ。

これから

子供の頃はあぜ道一本、山の中までもきれいに手入れされた里山でね、朝靄がかかれば空気が一段と澄んで山水画の世界が現れ、日本の原風景を絵に描いたような在所だったけど、今は手入れが行き届かなくなってね…。

高齢化が進む小さな在所なので互いに支え合うためにも、この秋からみんなで道路沿いの荒れた畑に桜の苗木を植えようと話し合っているんだよ。

あきこの一言

トンネルを抜け板碑を曲がれば、
穏やかな空気が流れ、心安らぐ在所。


等伯像「青雲」


あの有名な国宝松林図屏風を描いた七尾出身の画聖長谷川等伯。

3年前、食祭市場横のマリンパークの一角に七尾湾を背にし、
京都の方角を向き建てられ、高さは2.5mあります。

絵筆を持ち、笠に手を添え、天を仰ぎ いざ行かん!
と京へ旅立つ勇姿です。