こみみかわら版バックナンバー

第115回 私の仕事は「ふるさと再生プランナー」です


ピッと閃きパッと動く

松尾悠司さん 36才

転機

地元での働き口が少ないので県外で就職するため輪島の航空学園から山梨県の航空専門学校を経て日本航空へ就職しました。地上職で手取り三十万円以上です。しかし翌年会社が破綻し手取り十四万円になり不安を覚え起業を考えました。

日本航空を再生するため京セラの稲森和夫氏が着任し、こんなのでは八百屋も経営できないと紙一枚、軍手一枚に値札を貼って全社員にコスト意識と経営者感覚を叩き込みました。
これがとても勉強になりスピード感を持って決断することの大切さを学びました。

私は熟慮して仕事を探すより、独立できるなら何でも良いと二十五歳の時に退職し、商品を仕入れて売る転売業を始めました。
自己啓発セミナーへも通いながら経営の実態を知りたいと中小企業でアルバイトを始めます。
酒の配達、立体駐車場のスタッフ、コールセンターなど二十カ所以上のアルバイトを渡り歩き最後にたどり着いたのは飲食店でした。
この時期が一番苦しく明日電気が止められるという日が何回もありましたが、若さゆえそれも楽しく感じました。

二十七歳の時、知人から生絞りジュースの店を立ち上げるので一緒にやって欲しいと言われ、恵比寿でオープンしましたが大失敗。お店を出すということはこんなにコストがかかるのかと思いました。

そのお店には食べログや楽天など集客支援の営業が連日訪れて来ます。ツクツクというネットショップの営業が来た時、直感で「僕がそれを売りたいです」とお願いして代理店になりました。


チョアチキン

ツクツクの顧客が三百人になり会社を設立する時、高校の同級生、堀江幸佑くんが日本航空を辞めたので一緒にやろうと誘いました。

ツクツクの飲食店支援のため自分たちも実店舗をもったほうがよいとカレーとナポリタンのお店を大田区馬込にオープンしました。しかし昼間人が居なくなる住宅地で立地が悪いのに三日目で気づきました。
それでもツクツクの営業には役に立ち、お店へ連れて来て体感してもらう事で成約件数が三倍速で伸びていきました。
ただお店の売り上げが不調なので堀江くんと妻と三人で経営戦略を練りました。

お店の厨房を使ってやれる業態を考えた末、「韓国の唐揚げはどうかな」となり、コリアンタウンの新大久保へ出かけ見込み有りと判断。味は自分の口にあう大衆受けするものにしました。
三ヶ月間で準備をしてオープン!しかしコロナ禍に見舞われます。そこでデリバリーサービスを開始したらカレーの五倍売れたのです。
コロナ禍で困っている知り合いの飲食店に提供したらみんな成功したので大きな自信になりました。

噂が広がり問い合わせが来るようになったのでフランチャイズの展開を考えました。
ノリと勢いで現在、仙台から鹿児島まで七十七店舗になりましたが、将来はケンタッキーフライドチキンをイメージしています。






マンデダーラ株式会社

妻、彩花子(あかね)とは東京で知り合った瞬間からとても気が合い二週間後には一緒に暮らし始めました。
人生最高のパートナーとして頼りにしています。

アイデアがピッと閃くと堀江くんと妻は「えぇ~ッ」と言いながらもパッと動き必ず具現化してくれます。
おかげでビジネスは順調ですが、なぜかビジネスの成功に執着はありません。
それよりも大好きな七尾の将来が気にかかります。

七尾を持続可能な街にしていくことに使命を感じ本社を東京から七尾に移しました。
なぜそう突き動かされるのか自分でもわかりません。しかし自分の着地点はそこだということは見えています。

周りからダラな奴やな、と言われるようなことに挑戦していきたいと会社名をマンデダーラと名付けています(笑)。



チョアチキン食祭市場店 ☎ 0767‐52‐7071


第114回 私の仕事は『ころ柿農家』です。


仕事歴50年 前田トシ子さん 74才

奥深さ

母が「お前も上手になったのぉー」と言ってくれた時、「ほんとけぇー」とさりげなく返事をしましたが、内心はやっと認めてもらえたと、とても嬉しかったです。

子供の頃食べたポタポタした母のころ柿、あの美味しさは忘れる事ができません。ころ柿作りは本当に奥が深いと思っています。五十年たった今でも、あー、こうすれば良かったなぁーと思う事がしばしばで、いつも一年生だと自分に言い聞かせています。

五十年の経験といっても五十回の経験でしかありません。柿の状態や気候など毎年違うのでいつも悩みながらシーズンが始まります。一回目の出荷を終えてようやく勘がよみがえってきます。

ころ柿の里

私は生まれも育ちも嫁先も下後山です。ここではどこの家もみんなころ柿を作っていました。ころ柿の作り方はその人その人で違いがあります。

実家の母が上手だったこともあり、主人と二人で皮剥きの手伝いにいったのが始まりでした。若い頃は勤めをし、三人の子育てをしながら、田んぼもして、その上でころ柿の手伝いをするという具合でした。それでも十年を過ぎたころから本格的に一連の作業を行うことになりました。

ころ柿作りは出荷が終わるともう翌年二月頃から柿の木の剪定を始めます。柿畑での大敵は炭疽病です。ころ柿にする柿は最勝柿ですが消毒をしながら畑の管理を続けます。

秋になり実った柿を採取し、皮を剥いて紐で結んで吊るします。柿を吊るすと今度はカビが大敵です。柿を吊るす部屋は密閉し換気をしながら除湿器を入れ、強く乾燥させるため石油ストーブを焚いて扇風機を回します。このように室温と湿度を調節して柿を管理します。

ころ柿を美味しくする工程で大切なのは揉みです。二週間くらい干すと柿が柔らかくなってきます。その頃を見計らって手揉みすると柿の中の繊維が切れ水分が抜けていきます。吊るした柿も硬いものから照りすぎた柿などあり、それぞれの状態を見ながら揉みの手加減が変わります。これは勘と経験で覚えるしかありません。

この揉みを数日おきに二度、三度、柿によっては四度、五度と繰り返します。私は一つ、一つ丁寧に愛情を込めて揉んでいます。揉みながら形を整えお客様に喜んでもらえるころ柿に仕上げていきます。



おふくろの味

親も兄弟もみんなころ柿を作ってきました。そんな環境で育った私は子供の頃からころ柿を食べるのが大好きでした。私にとってころ柿はおふくろの味でもあり、郷土の味でもあります。だからヨボヨボになっても死ぬまでころ柿を作り続け、食べていきたいと思っています。

箱詰めする時は一個一個の色合いを見てグラデーションにして並べていきます。手間はかかりますが私にとっては手をかけてきた芸術作品の仕上げの段階になります。飴色の、オレンジ色のころ柿が綺麗に並んだのを見ていると食べるのがもったいないと思ってしまいます(笑)。この瞬間が本当に嬉しくこの上ない喜びを感じます。

後山名産のころ柿ですが生産者が高齢化してきたので後継者のことが心配です。嫁に行った娘が手伝いに来ていましたが、今は子育てが優先でこの先どうなるかわかりません。後山のころ柿を絶やしたくないので誰でもいいのでやって欲しいと願っています。

海洋深層水での合わせ柿も出荷していますし、今年はあんぽ柿も頑張りたいと思っています。
たかが柿、されど柿。やりたい事は一杯あり、柿は私の生きがいになっています。



中能登町下後山 前多トシ子 ☎0767-72-2349


第113回 私の仕事は「学芸員」です。


未来へつなげる!

仕事歴27年 北原 洋子さん 59歳

七尾へ

関西でいくつかの仕事に携わりましたが、公務員の仕事は初めてで、芯から冷える寒さにも慣れず「もう無理かな…」と思ったことも。
七尾に嫁いで三十年経ちますが、最初の頃は「よそ者」という壁もありました。そんな時にふと見上げた空の青さ、道端の小さな花、海の香りと、心和む七尾の自然に癒されました。

私は子どもの頃から美術が大好きで、小学生の時、母に連れられゴッホ展で見た「ひまわり」に、子ども心にも「なんか凄いなー」と感じたことを記憶しています。また、中学一年生の時、テレビで見たロダンの「地獄の門」を見たくて、一人で上野の国立西洋美術館へ行ったことも。

高校では芸術コースで学び、大学は京都の美大に進学して油絵を専攻しました。大学を卒業後、いくつかの職を経て絵を描いて個展を開いていた頃、知り合いのお坊さんから高野山に阿字観瞑想の優秀な指導員(僧侶)がいるからと誘われるまま参加しました。

それから十か月後の平成四年十一月に、その僧侶の実家・七尾のお寺に嫁いできました。お寺の仕事を手伝うのかと思いましたが、姑が「私が元気なうちは、外で働いてもいいんじゃない」と言ってくれたことをきっかけに、七尾美術館の開館準備室に勤める事になりました。

等伯との出会い

開館準備では明けても暮れても「等伯」で、オリジナルハイビジョン番組の製作などに追われました。
等伯は能登国七尾に生まれ、三十四歳頃に上洛、千利休や高僧らと親交を結び、後に長谷川一派を率いて桃山時代に活躍した画家です。全国にある等伯作品の把握もさることながら、機械が苦手な私がハイビジョンシステムを把握するのも大変でした。そして、毎日等伯についての本を読み漁っていくうちに、すっかり「等伯」にのめり込んでいきました。

平成七年の開館と同時に七尾美術館学芸員となり、翌八年から毎年「長谷川等伯展」をシリーズで開催しています。開館して間もない頃の出品交渉では、「七尾?どこにあるんですか」と聞かれたり、小さな美術館、ましてや女性と言う事で舐められることも…。

同業者には「七尾の規模で毎年の等伯展は無謀」と言われながらも、開館十周年の「国宝・松林図屏風展」では二週間で五万七千人以上の方が鑑賞され、子どもたちの様々な感想を聞いて「つくづくこの仕事をしていて良かった」と思いました。また多くの方々の協力や、家族の支えがあって今がある。感謝の気持ちは一生忘れません。

七尾美術館

学芸員は様々な仕事をします。例えば特別展の場合、展覧会の企画、出品作品を考え展示計画作成。出品依頼に伺い、承諾後の画像使用申請、図録やパネルの解説作成。印刷物の作成に、広報はウェブサイト、雑誌、新聞、テレビ、ラジオなど三十件以上です。

作品運搬の際には借用証書や点検表を持参し念入りにコンディションチェックをします。一つの展覧会でも多くの準備があり大変ですが、素晴らしい文化財や美しい作品、楽しい作品と出会えることの喜びは格別です。

そして鑑賞して楽しんでおられるお客様の姿を見た時や、感動の声を頂いた時の喜びは、学芸員冥利に尽きます。子どもたちの目が輝くのを見られるのは、とても嬉しいです。
この夏は、当館初の民族文化に関する展示で、世界のビーズ約200点を公開します。

気が付けば定年までもう残り数年。次の世代に引き継ぎを期待しつつ、まだ自分でもできる協力を続けていきたいと思っています。



石川県七尾美術館
☎0767-53-1500


第112回 私の仕事は「華道教授」です。


憧れを持ち続けて 

花歴47年 島崎 隆楓さん 67歳

寄り添う指導

「この花、奥行きがないね」と指導しようとしたら「先生が自由に生けて下さいと言ったじゃないですか。だから私、自由に生けました」と頑として生け直しをしない生徒がいました。

「初めから自由だけだったら稽古は要らないでしょ。基礎を学んでからの自由なのですよ」と言っても、「これでいいです」と、ずーと下を向いたままです。輪島漆芸技術研修所で華道指導の時です。芸術家の卵なので美に対するこだわりがあったのかもしれません。

そのことが私自身の指導を見つめ直すきっかけになりました。自分の経験や知識を指導するのでなく、生徒が今何を思って何を表現したいのかを聴き、共感して、問いかけ、全面的に直すことはしないで「それだったらここだけ少し直そうね」と気持ちに寄り添う指導を心掛けています。

出会い

千葉県の大学へ入学したのを機に、軽い気持ちでお花でもやってみようかと近所のお花屋さんで華道教室を紹介してもらいました。どうせなら歴史の古い池坊がいいかなってくらいだったのです。気がつけば様々なご縁を頂きながらお花と共に人生を歩むことになっていました。

最初の師から池坊お茶の水学院へ通うよう勧められました。そこでは一ケ月に一回試験があり点数を貯めます。千点になると入門試験が受けられます。入門の前に本気度が試されたのだと思います。師の元で師範の免状まで取得し帰郷しました。

その際に紹介頂いたのが羽咋市在住で石川県池坊会長の高見藤一師でした。十五年以上羽咋まで通い稽古させて頂きながら地元の公民館や学校などでも指導してきました。しかし教えるということは自分が解っていないと教えられないのです。教本もあるけど実際は葉一枚大きさも色もみな違います。とても奥が深く自分一人で悩んでいても限界があります。

それで先達の姿を見て習い続けなければと四十八歳の時、京都池坊中央教授の横山夢草師の道場にて師事することになりました。とっても厳しい先生で「いやぁー大変な所へ来てしまった」と思いました。「こんな花でよく来たね」「ごまかしの花だ」と言われても、その意味さえも分かりませんでした。隣の席の人が指導を仰ごうと先生に「見て下さい」と言うと「どこを見ろというのかね」と。私は怖くて言葉も出ず先生の顔をジィーと見ていると「僕の顔に何かついているかい?」という具合でした。

そんな横山夢草師が生花別伝の一つ、口伝中の口伝、椿三枚半を生ける場に立ち会いました。お花屋さんから軽トラ一杯分の花材が届けられ、その中からたった二本の枝を探し取りました。生け花は腕前だけでなく花材を選ぶ力も必要です。その姿から立派な先生でも思うようにいかないお花の難しさを知りました。

そこでの修行で「お花を生けるとはどういうことか」手がかりを付けて頂いたと思います。その後に池坊中央研修学院へ論文審査で入学し、研究科と特別科を修了後は池坊中央教授の伊貝玉永師に師事しました。そして六十歳の時に池坊で上から二番目の副総華督の免状を頂きました。

池坊

池坊とは京都の紫雲山頂法寺、通称六角堂のことをさします。寺伝によると飛鳥時代に遣隋使の小野妹子が入道して池の畔に坊を営んだのが始まりといわれています。

日本最古の華道流派池坊の歴史の中で、私が知りえる知識経験はほんの芥子粒くらいにもなりませんが、こんな花を生けたいと憧れの心を持ち続けて、生活の合間に無理なく楽しめればと思っております。

華道家元池坊七尾会会長 ☎57-3382



第111回 私の仕事は『医者』です


仁愛・信頼・貢献

仕事歴40年 円山寛人さん 70歳

流れの中で

帰宅して車を車庫に入れたとき「車は玄関先に前を向けて駐車しておけ」と父に怒られました。「夜、往診の電話があったら、その家族が受話器を置いたときに玄関先に先生がいたというくらいの心構えでいろ」と教えられ、その言葉が今の私の原点になっています。

私は平成四年に金沢医科大学病院の勤務医を経て七尾へ戻りました。医者の長男として周囲も私自身もごく自然に将来は医者になるのだと思っていました。

私が子供の頃の父は家庭医のような存在で歯が痛いのもまずは父に診てもらうという感じの患者さんが多かったように思います。
当時は具合が悪くなったらとりあえず往診で診てもらい、必要があったら救急車を呼ぶという時代でした。
父は真夜中でも往診は絶対に断りませんでした。

昭和二十八年開業当時は馬で往診に出かけ、それがバイクになり、車は知事か市長くらいしか乗っていないような時代から往診のためにと購入していました。

地域医療

私は当初外科医を志したのですが父の町医者として地域に関わる姿を見ているうちに、跡を継ぐのならやはり内科医しかないと思いました。
ただ外科医に未練もあり外科的要素もある循環器内科を専門としました。

地域医療は患者や家族とのお付き合いが深く長いものになります。それで父と同じように往診はどんな時でも出向くことを心掛け、二十四時間、三百六十五日、一日たりと気が休まる日がありませんでした。

ある時、往診で処置したお爺さんが元気を取り戻し、医者冥利に尽き家を出ようとした時、玄関まで見送りに来たお婆さんが、大きなため息をついて「あぁー、こんでまたどこも出かけられんわ」と呟きました。
その当時は在宅で病人や老人のお世話をし、最後も家で看取っていくことが多く、その間お世話をする家族も大変な時代でした。

私は退院して家へ戻ってもケアが十分でなくまた悪化してしまう姿を見るにつけ、医者は病気を治すだけでなく患者やその家族も含めて生活を支え、守ることも大切だと思うようになりました。

特段の能力があるわけでもない私が、周りの人に支えられ医者にさせて頂いたと思っています。その恩返しをという気持ちで高齢者の健康維持のため千野町で通所のデイケアセンターを開設することにしました。

デイケア開設には医師が必要だったことから併設でえんやま健康クリニックを開院し消化器内科医の妻にお願いしました。そうした中で入所が必要な人のために介護老人保健施設(老健)を増設し、超高齢化社会を迎える中で終の棲家となる介護老人福祉施設(特養)「千寿苑」も併設しました。

父が地域に根差してきた医療を継承し、患者とその家族にどう寄り添えるのか、何ができるのか。すべてが必要性ある中で自然と裾野が広がってきたように思います。



でか山

常々医療を通じて地域が元気になってもらいたいと願ってきましたが、同時に町を元気にするためには住む人が絆を育むことが大切だと思います。

今、府中印鑰神社奉賛会の会長を仰せつかっていますが、祭りは年代や職業を超えて住民の絆を結ぶ唯一のものだと思います。ただこの二年間はコロナ禍で「でか山」が運行できませんでした。
今年はコロナの状況にもよりますがPCR検査や人員の制限など感染防止対策を徹底して講じながら三町で山車を曳く予定です。

単に祭りを楽しむということではなく、室町時代から続く伝統の技をすたれさせないために、そして何より住民の絆を強く結ぶことで、七尾の町に元気を呼び戻してもらいたいと思います。

府中町 円山病院 0767-52-3400


第110回 私の仕事は『鍼灸師』です


この道を歩む

仕事歴40年 道下 清治さん 71歳

きっかけ

十九歳の時、当時は砂利道だった庵町の国道をバイクで走行中カーブを曲がりきれず網小屋に激突。生死をさまよい臨死体験をしました。

命は助かったのですが、二年後に後遺症が現れました。ボーリング場で投げたボールが突然視界から消えたのです。眼科医に五万人に一人と言われる「視神経萎縮」と診断され、矯正は不可能と言われました。視力はほとんど無く五センチから十センチ寄らなければ顔の判別が出来ない強度弱視となり、二年間はうつ状態で引きこもり絶望的な日々でした。

その後名医のいる兵庫医科大学病院を紹介され開頭脳神経手術を受けましたが視力は戻りませんでした。盲学校入学を勧められましたがどうしても受け入れることが出来ず民間会社の障害者雇用で働きました。しかし、ある日突然会社のトイレで吐血、ストレスから来る胃潰瘍との診断でした。

その頃「克己の会」という地元の若い障害者グループとお付き合いし勇気を貰ったことで、二十七歳の時、生きる道を再考し盲学校の門を叩きました。四年間の勉学の後、鍼師、灸師、あんまマッサージ指圧師の国家資格を取得、金沢で修業し昭和五十七年塗師町で開業しました。

妻に感謝

昭和六十年に結婚しましたが、目の不自由な私と人生を歩む覚悟を決めてくれた妻のためにも、この道を究めなければと思いました。

そこで毎月金沢での研修会に通うため七尾駅近辺に住宅と診療所を求め平成元年に現在の南藤橋町に居を定めました。近年は晴眼者の鍼灸師も多く研修会もスライドで行われます。私は双眼鏡とルーペを使って研修会に参加しています。

家では妻が新聞を読んでくれ、外食してもメニューが見えずいつも二人で行動しなければなりません。私の手となり足となって、いつも明るく細やかに支えてくれる妻には感謝しかありません。



東洋医学

視力を悪くして一番ショックな事は学生時代七尾で個人優勝し、飯より好きな卓球が出来なくなったことです。

スポーツ選手が体を痛め練習が出来ず、試合に出られない悔しさが分かるので、何としても治してあげたいとスポーツ選手の治療も積極的に行ってきました。選手が完治し試合で好成績を収めたときは自分の事のように嬉しいです。

東洋医学は四千年の歴史がある経験医学で副作用が無く代表的なものが「内臓体性反射」にもとづく治療です。内臓に病気があると皮膚上の「穴」(つぼ)に現われ、そこを鍼灸で刺激すると内臓や全身の体調が良くなり免疫がつきます。風邪を引きにくくなり、血圧の調整、便通の改善、安眠等の効果があります。

お灸が適応する患者さんには、希望があれば自分で「艾」(もぐさ)を使って施灸する指導をしています。慢性的な膝の水や痛み、手指の腱鞘炎、バネ指、胃腸の調子、子供の成長痛は短期間で良くなります。

これまでにメニエル症候群、耳鳴り、痔瘻、蓄膿症、顎関節症、リウマチ、腰椎脊柱管狭窄症、ぎっくり腰、肩こり、頭痛、三日三晩続くしゃっくりも治してきました。逆子はへその緒さえ絡んでいなければ百パーセント近く治り鍼灸には不思議な力があります。

患部の皮膚、筋肉に手を当て中の状態を診ますが眼で表面を見るよりも触診力が大事です。それ故、視力障害の人が鍼灸マッサージ業に適していると思っています。

気を入れて、心を込めて、手当する。そうすることで自ずと治療効果が表れます。
自分にはこの道以外には進む道は無いのだ。やるからにはこの道を究めたい。
この思い一筋で現在に至りました。
これからも患者さんに貢献できるよう勉強し健康で頑張りたいと思います。

南藤橋町 道下治療院 ☎0120-53-3910


第109回 私の仕事は『理学療法士』です。


人生に寄り添う

仕事歴4年 秋山 美紅さん 29歳

痛いです!

リハビリ中に暴力的になった患者さんがいました。
その時は驚いて、「痛いです!」とムキになってしまいました。
上司に相談すると悪気があるのでなく病気だからお互いにカッとなっていても仕方がないよ、と諭されその通りだと反省しました。
患者さん自身が思うように体を動かせないことの歯がゆさ、いら立ちが募ったのだと思います。
今なら無になって患者さんが落ち着くまで待ちます。

理学療法士の仕事は病気やケガで立つ、座る、歩くなどの動作が出来なくなった機能を
回復するためにリハビリを行います。

ありがとう

私は東京都出身です。
スポーツが好きで高校、大学とチアリーディング部に所属し、プライベートでもスキューバーダイビングを楽しんでいました。
そんなこともあってスポーツトレーナを志し法政大学スポーツ健康学部に進みました。
スポーツジムでアルバイトをしていましたが大学三年で就活が始まる時に「進む道がちょっと違うかな…」と思うようになりました。
健康な人のパフォーマンスを上げるのではなく、障害で困っている人を助けたいと思うようになったからです。

私は子供の頃から「ありがとう」という言葉が大好きでした。
「ありがとう」は言っても言われても嬉しい言葉で、善い事ばかりです。
そんな「ありがとう」を言われるような仕事に就きたいとの思いに駆られ、大学四年の春に理学療法士の資格を取得するための専門学校夜間部に入学し大学と掛け持ちで勉強を始めました。



理想の環境

専門学校の時に都内の病院で実習しました。
患者さんは最初に急性期専門の病院でリハビリを受けますが、少し良くなると今度は回復期専門の病院に転院を余儀なくされます。
そして生活期にまで回復するとまた専門の病院に転院しなければなりません。
人口密度の高い都会では目の前の患者さんを手際よくさばいていくという感じで、人として関わっていくという感じがせずどこかピリピリしていました。

就職先を探すとき父に相談しました。
医療関係に従事している父が「こんな病院もあるよ」と紹介してくれたのが恵寿総合病院でした。
恵寿の経営方針を見て患者さんを急性期、回復期、生活期から介護まで一貫してお世話する理想の環境を知り「これだ!」と思いました。
急性期から介護まで、入院、外来、通所、訪問で三百六十五日リハビリ出来る体制にしてある病院は少ないと思います。



理学療法士

私の担当は十五名で院内と訪問でリハビリしていますが、みなさん楽しんでリハビリをしてくれるので有難いです。
理学療法は奥が深く、脳、骨折、循環器などの疾患ごとに治療方法が違います。
技術面の知識がどれだけあっても十分だと言えません。
患者さんの最適なリハビリを選択するためには、技術面だけでなく個人の価値観を理解することも大切です。
地道で時間をかけ根気よく続けなければなりませんが、訪問リハビリで歩けるようになった患者さんに「出来なくなった事が、また出来るようになるということは、本当に嬉しい事なんだよ」と言われた時、改めてこの仕事に就いて良かったと思いました。

一人一人と目標を共有し、寄り添うことで信頼関係が生まれ、共に人生を考える時、また私自身の人生も見つめているように思います。

恵寿総合病院 リハビリテーションセンター


第108回 私の仕事は『消防司令官』です。


火の用心!

仕事歴30年 池上 弥寿広さん 59歳

憧れの消防士

消防車で道路を走っていると子供がよく手を振ってくれます。
私はそれに対して敬礼で答えます。すると子供たちは満面の笑みで喜んでくれます。
消防の仕事は人を助ける事、火事を防ぐこと、火を消す事です。
そのために日々の訓練のほか、事業所への立ち入り検査、学校や保育所での避難訓練なども行います。
そのため出来るだけ地域に飛び込んで、地域の人と交わることが大切だと思っています。

中学生の時、七尾駅前のオリオンで見た映画タワーリング・インフェルノ。
大ファンだったスティーブ・マックイーン演じる消防士が百三十八階の超高層ビルの火災を
屋上の貯水タンクを爆破させ大惨事を防ぐもので、この時に「消防士かっこいい!」と憧れました。

表裏一体

七尾鹿島広域圏での火災はかつて年間四十件ほどありましたが、ここ数年は十数件で推移しています。
昔はいろり、かまど、練炭、薪風呂、ろうそく、マッチなど火が身近な存在でしたが、
今は電気が普及し火を使う機会が少なくなったことや、地元消防団と自警団の方々と密に連携し、
防火活動に取り組んできたからだと思います。

一方、高齢化社会となり事故や災害などで老人の犠牲者が増えている現実もあります。
防火訓練では、家庭でクリスマスや誕生日のケーキを食べる時、ろうそくの火を見つめて、
この火のお蔭で豊かな暮らしがあり、またこの火で命を落とすこともあるから、火を考える機会にして、
みんなで火の大切さと怖さを理解してから、おいしいケーキを食べて下さい、と話をしています。



心に刻む言葉

中能登消防所では一隊八名のチームが三隊あり、二十四時間体制で救急と防火を担います。
設備や道具の進化に伴い、私たちの技術も知識も進化しないとなりません。
ホースも六五ミリから五十ミリと細くなり軽くなったおかげで機動性が増しました。
また今は水を放水するのではなく水に空気を混ぜて泡状として放水します。これで水の量が半分に減りました。

水の確保がとても重要で日頃から消火栓や防火水槽の点検、川の水量など水利の確認をしています。
利用できる水源が一つより二つ、二つより三つと多いほど消火戦術が有利になります。
火事に「大したことのない火事などない」ボヤであっても大丈夫などないのです。
現場に出動するたびに心に刻んでいる言葉で、私のモットーとしています。



同志

二十四時間体制で勤務し、共に訓練する同僚はある意味、家族以上の絆で結ばれています。
そしていざ火災現場に出動したら、司令として私の一声で危険にさらすこともあり、隊員の命を預かります。
現場では各隊員の意見を集約し、勘と経験とデータから方針の決断は私がして、すべての責任を負います。
そして絶対に殉職させてはならないと思っています。
現場では心無いヤジが聞こえる事もありますが、そんな時も動ぜず消火に集中する隊員の顔を見ます。
仲間の頼もしい顔をみると、落ち着き、勇気、元気が湧きます。
どんな立派な設備や機械があっても、最後は人だと強く実感します。

鎮火して住民から消防さんのお蔭で助かったわ!ありがとう!の一言を頂いた時、体と心の疲れが全部吹っ飛びます。
私は来年定年を迎えますが、退職後の事を考えてフェードアウトするのではなく、まだ一年もあると思って、
若い人に負けないで全身全霊で任務を果たし、最後の最後まで上り調子のままでゴールを切りたいと思っています。

中能登消防署
☎0767-76-0119


第107回 私の仕事は『オーナーシェフ』です。


料理で表現する能登の自然

仕事歴10年 平田 明珠さん 34歳

地元食材にこだわる

もうズタボロでした。一年間はマイナス意識になり本当に辛かったです。
何とかなると思って二〇十六年九月にオープンしたのですが甘かったです。
地元のお客様は牛肉やフォアグラなどの普段食べられないイタリアンを求めて来店されるのですが、
私は地元食材にこだわっていたので、そのギャップが生じてしまったのです。

それでも恵まれていたのは移住者がお店を開くということで多くのメディアに取材された事と、
二〇一七年のRED U‐35(三十五歳以下の全国料理人コンペティション)でベスト二十二人に
入選したことがキッカケで全国からもお客様が来て下さるようになりました。
ただオープン時には自分の思う料理がまだ未完だったのです。

移住のキッカケ

私は東京出身です。
明治大学を卒業して会社勤めをしていたのですが、組織で働く事がしっくりこなく辞めました。
大泉学園の小さなお店で修業を始めイタリア生活の長い女性シェフから基礎をみっちり教わりました。
そのお店は流行のものでなくイタリアの田舎料理を得意としており、食材も自家菜園で栽培し
生ハムなど加工品も自家製でした。厳しいシェフで聞く前にまず自分で調べるよう指導を受けました。
今思うとそれが良かったんです。

二軒目に入ったお店で転機が訪れました。全国の生産者回りをするお店だったのでその時に能登を訪れ、
七尾では宮本水産、高農園、鹿渡島定置、蛸漁の平山さんなどとお会いしました。
東京での開業を思っていたのですが、そんなご縁もあって地方に魅力を感じたのです。

色々な地域で色々なお店がありますが、私が影響を受けた二人のシェフがいます。
和歌山県で農業をやりながら料理を作る。その人にしか出せない世界感、オリジナルに憧れました。
自分だけの何種類もの野菜パウダーが絵具のパレットのようでした。
それは東京では出来ない料理のスタイルでした。
もう一人は淡路島で地域に溶け込んで生産者と小学校で食育を行い、地域で楽しそうに
暮しているシェフです。魚の内臓の料理もそこでしか食べられないものです。
そんな地方の料理人の生き様が魅力的で、私も土地の食材を使って地方でお店を出したいと
移住を決意したのです。



非日常の価値

三十歳で自店は早すぎると思いましたが、人生で一番濃い三年半でした。
今ようやく自分の確立した信念、世界感が見えて来たと思います。
オープン時は地域貢献として地域食材の活用を目標にしていましたが、今は自分の世界を
求めていくプロセスに地域食材があり、地域食材へのアプローチが自分の道になってきました。
全国で地方レストランが注目されていますが、美味しいだけでなく、地元の食材、土地の文化、
料理人の個性などトータルで磨かれていかないとなりません。
山に入り、畑に入り、仕入れの中で見る景色や感じた事を料理に変換し、三十人以上いる
地元生産者の方々と能登の里山里海の恵みに感謝して、一緒になって自然豊かな能登を
表現することが私たちの目指す料理の形です。

オープンした時は地元と県外のお客様に対してどちらにも中途半端だったと反省しています。
今は自分の表現したい料理を研ぎ澄ませ、非日常の価値を提供して、時間をかけても
全国に向けてお客様を作っていくと決めています。
方向が決まった事で徐々に県外からのお客様が多くなり、地元の方でも地域の魅力が再発見できる
と楽しみに来て下さる方も増えてきました。自分の世界感を完成させるため努力を続けます。



白馬町 ヴィラ・デラ・パーチェ
☎0767-58-3001


第106回 私の仕事は『漁師』です。


賭場と化す漁場に挑む

仕事歴56年 岩政 武光さん 75歳

海との出会い

「この自然を大事に漁を続けて下さい」とスウェーデンのグスタム国王から言葉をかけて頂きました。
平成九年に国王夫妻が能登島を訪れたとき、シルビア王妃が釣りを楽しみたいということで
水先案内をした時のことです。水族館沖で夜中に仕掛けたはえ縄を上げてもらいました。
大きなコチがかかっていたのでホッとしました。

私は大阪に生まれました。
父が戦地に出兵中、母が私を抱いて空襲の合間をぬって命からがら能登島通の実家に戻りました。
戦争が終わり父も帰還、家族は能登島で暮らすことになりました。
そんな時、通の在所に一隻の川舟が流れ着き在所で話し合った結果、失業中の父に
漁師でもやって見ればと船がもたらされました。その船で父が櫓を私が櫂を漕ぎ
ハチメやキスを釣って作事町の魚問屋へ出して暮らしを立てました。私が五才の時です。

パン職人を目指すも

漁の手伝いをしながら西島中学校に二年間通いましたが、将来の事を考えて
中島のパン屋さんへ丁稚に入り中島中学校へ転校しました。
パンの箱を十二段積んだ自転車で砂利道を走り配達を終えてから登校しました。
四年間お世話になりましたが本当にパン屋としてやれるだろうかと疑問になり
能登島へ戻り櫓舟を買いました。十九歳の時です。

その時父が瀬嵐の沢田造船でヤンマーのエンジンを積んだ新造船を作り光進丸と名付けました。
父と漁をしながらこの時私はエンジンをバラし、掃除して、組み立ててと、
エンジンの構造を覚えました。そして二十三歳の時に、妻ふみ子と結婚します。

海を覚える

妻と二人三脚の漁が始まります。在所では同年代二十軒の内十五軒が漁師でした。
私は張り切って七尾湾はもとより富山から小木の端まで漁をしました。
空模様を見て他の人が出漁しない時でも、このくらいなら大丈夫だと海に出るのですが、
嵐になりエンジンの中に水が入り突風の中エンジンをバラして修理して命からがら
帰って来たことが何度もありました。
あの頃は無鉄砲で台風も恐ろしいとは思わなかったです(笑)。

広い海域で漁を追い、岩場で舵や船底を傷めながら海を覚えて行きました。
お陰でなまこ漁では人の倍以上の水揚げが出来るようになり、
みんなにどこかで養殖をしているのかと言われました(笑)。



第七光進丸

日本初

トラフグ漁は当時半日で何十万円の水揚げが出来たので海には百隻以上のはえ縄船が並びました。
混乱を避けるためスタートの位置と時刻を決め無線で「全船スタート!」と号令をかけますが
その役を担いました。はえ縄は五百mの幹縄に五十本から六十本の枝縄に針をつけ一皿となります。
餌をつけながら海にはいていくのですが、十皿なら五㎞、二十皿なら十㎞となります。
同じ道具で同じ餌でも何十匹も釣る船もあれば一匹も釣れない船もあります。
一匹が五万円、六万円になりますから、みんな形相を変えて漁をしていました。

ある時、オスばかり釣れたのでひょっとしてこの辺りに産卵場所があるのではと漁師の勘が働き、
水産試験場に応援してもらい考案した網で春先に週三回ほど砂をすくっては卵を探しました。
三年目に卵が見つかり日本で初めてトラフグの産卵場所発見となりました。
今、七尾湾の魚貝は減少しています。
放流や養殖などを通じて天然物も育て海への恩返しをしたいと思っています。



2人3脚、おかげさま♥

能登島通町 岩政
☎0767-85-2051


第105回 私の仕事は『移動スーパー』です。


何でもお申し付け下さいませ!

仕事歴3年 道下 利明さん 54歳

移動スーパー「とくし丸」

「また来て~、待っとるよー」そういう言葉が嬉しくて毎日がとても充実しています。
前はお弁当のお店をやっていたのですが体調を崩して辞めました。
ちょうどそんな時に移動スーパー「とくし丸」がテレビ東京の番組「ガンブリア宮殿」に
紹介されていたのを見たのです。あんなに喜んでくれる人がいる仕事なら自分もやってみたい
と思っていたところ、どんたくが「とくし丸」をやるということをメディアで知りすぐに
話を聞かせて頂き、石川県初の移動スーパー「とくし丸」一号車を担う事になりました。
その三ヵ月後に金沢で二号車が走り現在五号車まであります。

それぞれが個人事業主となっての独立採算制です。
能登地区では今のところ私一人です。エリアは七尾市街地を中心に近郊を週五日間回っています。
「とくし丸」とは徳島県が発祥の地であることと、買物弱者の救済ということから篤志の意味も
込めて名付けられたそうです。

無駄な買い物はさせない

全国的な高齢化の中で買物が自由に出来ないお年寄りが急増しています。
便利な世の中になったのですが生活に必要な魚・肉・野菜の生鮮三品すら
買えない人たちがいるのも現実です。
冷蔵設備が付いた軽トラの「とくし丸」に刺身、鮮魚、肉、惣菜、豆腐や油揚げ、野菜に果物、
卵に醤油や味噌、お寿司、お米、飴にジュース、トイレットペーパーやシャンプー等の
生活必需品を一杯にして決められたルートを時間通りに移動していきます。
皆さん心待ちにしていて二十人も集まる場所もあります。

私は商品を用意して売りに歩くのではなく、買物に出られないで困っているお年寄りに代わって、
どんたくから買い物をして届けているという、いわゆる買物代行だと思っています。
お米でも調味料でも人それぞれに好みが違いますが、そんな声を聞かせて頂いて
後日届けるようにもしています。買物とは本来楽しいことなのに、
お客様が自分の思いと違う物を我慢して買っていく姿は悲しいことです。
欲しいものを喜んで買っていく時の笑顔が私の喜びとなっています。



さぁ、出発!

もう一つの価値

この仕事をしていて感じるのは、直接的であれ間接的であれ人は多くの支えがあって
生かされているということです。私自身多くの人との出会いから絆が生まれ、
やさしい笑顔や言葉を頂き生きる勇気や元気を貰っています。
朝どんたくベイモール店で今日回るお客様の顔を思い浮かべながらピッキングして
「とくし丸」に積み込みます。
出発するときどんたくの女性スタッフさんが笑顔で「いってらっしゃい」と声をかけてくれると
「よし!今日も頑張るぞ!」という気持ちになります。移動先では常連となった地域の方々から
色々な事を教えてもらいます。



支えあいの「とくし丸」

私は食習慣に片寄りがないか、食が細くなっていないかなど感じることがあればアドバイスし、
「元気でおってね」「体に気をつけてね」と声掛けします。
また常連さんの顔が見えないと「あの人どうしたんね?」と聞いたりします。
まさしく、とくし丸が井戸端の役割も果たしているのです。
そんな事から警察の方々と協力して地域をゆるやかにですが見守る役割も担うようになりました。
またラジオ七尾の番組「七尾もしもし探検隊」で移動先から電話中継もしています。
お顔の見えるお客様に、見て、触れて、感じて、選んで、楽しんで買って頂くために、
雨の日も風の日もそして雪の日も走り続けたいと思っています。

「とくし丸」一号車
☎090-2121-7533


第104回 私の仕事は『雪月花歌劇団員』です。


歌劇という文化を

主演男役 陽月 れなさん

縁に導かれ

男役の私にまで「かわいいねっ」「頑張ってねぇー」と言って頂き、
こちらが元気を貰います(笑)。
老人施設などへ慰問する日は朝が早いので辛いのですが、最後にお年寄りと
握手をした時の温もりに報われます。

私はOSK日本歌劇団に所属していました。OSKとは大阪松竹歌劇団の略称です。
「歌の宝塚、ダンスのOSK」と称されていましたが二〇〇三年に解散したのを機に
当時の一部のメンバーで加賀屋の雪月花歌劇団として発足しました。
これはOSKの地方公演として以前から加賀屋のシアタークラブ花吹雪で
公演をしていたことがご縁になったのです。

男役に憧れて

横浜出身ですが、幼少の頃ディズニーのショーを観て私も踊りたいなぁと思っていました。
高校生の時ウエストサイドストーリーの映画を観てジョージチャキリスに憧れましたが、
それは異性としてではなく自分もあのようにかっこよくなりたいと思ったのです。


そんなことからOSK日本歌劇学校に入学し、ジャズダンス、クラッシックバレー、
日本舞踊、声楽と稽古を積みOSKに入団しました。歌劇はチームで舞台を創ります。
経験が浅くてもステージに立つということは先輩の技術に並ばなければなりません。
そのため先輩は後輩に厳しく指導します。注意され、時には叩かれ、今ならパワハラと
言われそうですが当時はそれが当り前の世界でした。
私は後輩にどこに力を入れて、どのタイミングで止まって、ここはワンテンポ待ってなど
具体的にコツをアドバイスしています。ステージでは男役と娘役に分かれ、ダンス、歌、舞踊、
殺陣など様々なジャンルを組み合わせ、型にはまらない独創性ある物語を演出します。

どのジャンルにも基本の動きがあり正しく出来ればキレイですが、
たとえダンスが上手でなくても芝居心のある人は踊れるようなそぶりで踊ってしまう。
そんなメンタルの人が歌劇をやれるのだと思います。

地元の歌劇団として

OSKでの初舞台が加賀屋のショーでした。そんなご縁で何度も和倉に来るようになりましたが、
ある時「あの子が将来ここのトップとして来る子だ」と言って頂きました。
その頃の私は、次世代のトップスターを目指し努力していたのですが、その言葉を聞いた時、何故か
将来地方公演先のトップをやるのかもしれないと予感が走りました。
導かれていたのでしょうか、今こうして雪月花歌劇団として十六年が経ちました。



花吹雪のステージ

これからはコアなファンや観光客だけでなく地元の皆様にも今まで以上に
私たちの事を知って頂き、地元で歌劇の裾野が広がるよう努力をしなければと思います。
老人施設への慰問もその一環ですが、子供たちにも見てもらえる場があればと思います。
写真でなくライブのワンシーンを見ることで理解が深まります。
吹奏楽部の生演奏でショーをしたり、ママさんコーラスといっしょにショーをする。
また幼稚園のお遊戯会で歌手として参加するなど様々な団体とコラボできればいいなぁと思います。

私たちは午後三時に楽屋入りし、夜八時半からショーが始まり、後片付けをして家に帰るのは
深夜という毎日ですが、時間を作り市民の皆様と交流を深められればと思います。
また全国でも数少ないプロの歌劇団が七尾にある事を知って頂き、地域の活性化に
役立てて頂ければとも思います。そんな思いを巡らせているとあっと言う間に朝になり、
青林寺の鐘が聞こえてくることもしばしばです(笑)。



寿老園を慰問

加賀屋雪月花歌劇団
☎0767-62-4111


第103回 私の仕事は『茶道教授』です。


縁に導かれ

仕事歴22年 室木 宗美さん

出会い

人生の不思議を感じます。金沢市宝町で生まれた私は父の仕事の関係で小中高と七尾で暮らしました。
中島高校一年生の時、父の勧めで裏千家のお稽古を始めます。型にはめられることを好まない私は、たかがお茶一服になんでこんなに決め事があるのか不思議に思ったくらいでした (笑)。
金沢に戻り短大で茶道部に入ると学生同士の会話も楽しく、熱心な先輩とのお稽古やお茶会に参加するうちに茶道の道理が少しずつわかるようになり、自分でもビックリするくらい稽古にのめり込みました。

卒業後銀行に勤め、また稽古を始めたいなと思っていたとき、高校の同級生と竪町でばったり出会います。さりげない立ち話の中で「お茶したいんや」と言ったところ、「それなら宗和流を習えば」「先生紹介してあげるよ」と言ってもらい、そんなご縁で宗和流の出島社中に入門したのです。

茶道宗和流

創始者の金森宗和は飛騨高山城主の長男でしたが京都に上り宗和流を興しました。京では公家の間に広まり、三代藩主前田利常も金森宗和の長男七之助を招聘したことで石川県にも根付きました。
武士点前で袱紗(ふくさ)を右につけるのが特徴で、道具揃いも雅やかなことから姫宗和と呼ばれています。

私は茶道宗和流に導かれたのか、それが偶然なのか、必然だったのか、宗和流を勧めたあの同級生と結婚しました。嫁ぎ先の母が宗和流の教授でしたが、お茶については一切何も言いませんでした。
最初の師が金沢の出島先生であり筋を通してくれたのです。母は自宅で、私は熊木公民館で稽古を行っていましたが、四年前に母も師も亡くなり、今は主人と母のお弟子さんにも助けて頂き中島宗和会を引き継いでいます。

師の言葉・母の姿

師から「あんた師範や教授の免状貰ってうれしい顔しとってもダメねんぞ、責任がついてくれんぞ」と、師を支え、裾野を広げ、宗和を守ることを諭されました。
私はその言葉を胸に十年前より中島保育園の年長さんにボランティアで茶道を教えています。園児に楽しくて自信がつくように教えるためにどうするか考えたとき母の姿が浮かびました。



小学生と園児のお茶会

お稽古やお茶会から、ほっぺを真っ赤にしてルンルンで帰ってくる母は本当に楽しそうでした。母にお弟子さんがたくさんいたのは母自身がお茶を楽しんでいたからだと思います。それで教えるのではなく、私自身が園児たちと楽しもうと思いました。子供たちは純粋で褒めれば褒めるほどコツを掴みあっと言う間に覚えて、お茶を立てお運びが出来るようになりお茶会を楽しみます。
卒園後引続きお茶を習う子も多く、中島宗和会では小中学生の稽古日を設けています。そして五月の蓮浄寺の花まつり、八月には保育園で小学生が浴衣を着て後輩の園児たちに、十月の熊木フェスティバルでは敬老会や地域の人に来て頂き、年三回の子供茶会を行なっています。子供たちも本当に楽しそうで、茶道は敷居が高いという先入観が無くなり、大人でも出来ないことをやっているんだと自信を持ちます。

師の言葉をどこまで実践できているのか自問しますが、今の私に出来る事はこれくらいかなと思って頑張っています。少子化が進み、華道、書道など「道」の稽古をする人が少なくなっているように感じますが、この子たちが小学生、中学生と茶道を続け、高校や大学を出て地元に戻ったとき、また宗和に戻ることを願っています。



中学生のお弟子さんと

茶道宗和流 中島宗和会
☎0767-66-0117


第102回 私の仕事は『看護師』です。


この道を歩む

仕事歴31年 種谷 敦子さん 52歳

キャンディ♡キャンディ

「笑顔が変わらないなぁー」と二十五年ぶりにお会いした元患者さんに言って頂きました。
私が能登病院に勤め始めた頃、病棟で「その笑顔で元気になれるわー」とよく言ってくれた人です。

私は神奈川県川崎市出身ですがご縁があって七尾へ嫁ぎました。
看護師になるきっかけは小学生の時、少女漫画なかよしに連載されていたキャンディ・キャンディの従軍看護婦の話を
読んで憧れ、その時に自分は将来看護婦さんになるんだ!と決めました。
高校を卒業し迷わず北里大学病院付属看護学校に進みました。
お転婆で世話好きな一人っ子の私は、とにかく小さな子供が好きだったこともあり
卒業と同時に北里大学病院の小児病棟に勤務しました。

小児病棟

幼児病棟に配属され保育園児くらいの子のケアをします。
骨折、白血病、心臓病などの入院患者には、家族は面会が出来ても付き添う事は出来ません。
病棟の看護師は時には保母さんやお母さんの役割で子供たちに接し病気と成長を見守ります。
生まれてから一度も病院を出た事のない子を散歩や幼稚園見学に連れて行くうちに家族同然に成長の喜びを
感じるようになり、今でも交流が続いている家族もあります。
子供たちに頼りにされるので頼りにされる努力を惜しみませんでした。

夜の見回りの時泣く子をおんぶして回り、本を読み聞かせ通常の生活に近い状況を作り
笑顔を絶やさないよう心がけました。
ご家族にも子供たちにもどうやって安心してもらえるか?頼られるためにどうするか?、
を考え続けた三年間でしたがそれが私の基盤となりました。
能登病院が平成十二年に現在の高台に移転した時、
小児科の清酒外文先生と古田揮美子婦長と一緒に小児科病棟を立ち上げました。
昔の経験を活かして子供たちが安心できる病棟を目指し、病室はクマさんの部屋、ゾウさんの部屋などとし、
プレールームには季節ごとに飾りつけをしました。

ドクターヘリ

小児科勤務が多かったのですが現在は救急救命と認定看護管理者として仕事をしています。
前院長の橋本正明先生が「能登の命も都会の命も同じ」、都会で出来る事は能登でも出来るように
頑張ろうなと言われ十年も前からドクターヘリの署名活動を行ないました。

ようやく昨年九月に石川県ドクターヘリが導入され珠洲から救急車で二時間弱がヘリなら十五分間で到着します。
救急救命はどんな患者さんが運ばれてきても助けなければという使命感が強くチームとしての一体感があります。
治療中に看護師の勘が働くことがありますが、あれっ?と思ったら必ず立ち止まり、
必ず口に出して二人で確認します。大きな変化ではないけれど、何かが潜んでいる場合があるからです。



ドクターヘリ

地域医療

若い人がどんどん都会に出ていきますが、自分が生まれ育った故郷がここにあります。
父母、祖父母、友人の命を守るのはここに生まれ育った人間が良き人材となって担うことが大切だと感じています。
時代の変化に合わせて若い医療従事者が活躍しやすい環境や、地域の人々が暮しやすい医療システムを早急に築かなければならない時代に入り課題も山積みです。

そして看護師には夜勤があり、また災害が起これば家庭を置いてでもやらなければならない使命がありますが、
家族の協力があってこそ仕事に打ち込めます。
本当に家族には感謝しています。



公立能登総合病院
☎0767-52-6611


第101回 私の仕事は『児童発達支援管理責任者』です。


教えるつもりが教えられ

仕事歴6年 山花 剛さん 62歳

転機到来

自分が一番傲慢だったんです。私は甲子園を目指し中島中学から星稜高校へ進み、あの山下監督に厳しく鍛えられ以来三十年間の野球人生を送って来ました。金沢経済大学で十年、北陸大学で十年、航空石川で三年間の監督人生でした。監督として、教員として学生に素直さと謙虚さを説いてきましたが、今の仕事に就きそんなこと言っている自分が一番傲慢だったと気付かされました。教員の最後は七尾特別支援学校での五年間でした。この時の経験が人生の転機になりました。

着任した初日、一日黙って見ていて下さいと言われ見学したのですが、カルチャーショックでした。様々な支援が必要な生徒に寄り添い、親身に対応している姿は今までの自分の世界とは異なっていたのです。
二日目、生徒の紙パンツを普通のパンツにはき替えようとしていた時にその子がおもらしをしたのです。つい独り言で「あぁー、言ってやー」と呟いた時、後ろで見ていた先生から「言えたらあなたが要らないのです…」とその一言で目が覚めたのです。その通りだと思い、「よし!やってやろう」と腹を決めました。

放課後デイ

五年間、この子たちの手となり足となり、口となって、成長を願い接して来ました。些細な事であっても出来ていなかったことが出来ると、成長の一助になっていることを実感し野球での成長を見るより感動がありました。それでも支援学校で出来る事には限界があります。

私は退職を機に一人一人の能力に寄り添い学校と家庭を繋ぐ役割を担う放課後デイを立ち上げることにし、昨年七尾で五番目の放課後デイサービスを開所したところです。その時相談した恩師から、教育とは、教える、躾ける、押し付けるのではなく、得意な所を引き出して、育てる事だよと助言を頂きました。それで出来るだけそれぞれの個性に合わせられるようプログラムを考えています。幸い場所が田舎なので(笑)、田んぼ、畑、運動広場も併設して出来るだけ自然と触れ合える環境にしています。



アットホーム!

活かされて生きる

スタッフは支援学校の元先生や看護師さんなどで経験と智慧があります。日頃色々と相談しながら運営を心がけていますが、先月子どもたちとその家族で神戸へ行って来ました。甲子園の近くに中島町出身の先生がいる放課後デイサービスがあり、そのご縁で都会と田舎が交流できればと話が進んだのです。運よく甲子園で星稜高校の一回戦があり、みんなで観戦して盛り上がりました。

現在小二から高二までの生徒が集まりますが、私自身まだまだ修業の身だと感じています。それは一人一人の個性を見極めるには、とにかく口出しせず待たなければなりません。あれやれ、これやれ、では成果が出ないのです。でも待つ仕事は楽なようで結構しんどいです(笑)。

先日高校時代の山下監督から金沢工業大学の野球部監督就任の要請がありました。なぜ私なのですか?と訊ねると、日大のアメフト問題などスポーツ界で不祥事が相次ぐ中、勝負だけでなく、人としてのモラル教育がやれる監督を紹介してほしいと頼まれたからお前なのだ、と言って頂きました。スタッフの理解と応援もあり秋から監督を引き受ける予定です。野球で傲慢だった私が、子どもたちによって人間的に成長させられた事で、また野球の世界から声がかかるという因縁を不思議に感じています。



才能を育てる

中島町 放課後デイサービス・サンフラワー
☎66-6010


第100回 私の仕事は『ジェラートマエストロ』です。


祖母の隠し味

仕事歴3年 堀川 宙さん 21歳

戸惑い

宙さんですね?とお客様にお声を掛けられることもあり戸惑っています(笑)。
昨年4月にお店がオープンしてまだ1年が経っていないのですが、多くのメディアに取材されなんだか恥ずかしいです。ジェラートマエストロとは日本ジェラート協会が正しい知識で安全で安心で美味しいジェラートを提供するための認定資格で平成22年からスタートした制度です。
現在102名が合格していますが私が日本最年少の合格だったことから注目が集まったようです。

きっかけ

小学校から帰ると祖母が毎日台所で料理をしていました。牛乳配達店は朝早いので午後4時には祖父の晩酌のおつまみを作っていたのです。私は祖母の横に立ち興味深く見ていました。煮干をお鍋に入れそれをまた出したり、甘味を出すのにお塩を使ったりと小学生の私には不思議なことがいっぱいあったのです。
祖母は料理の隠し味だよと教えてくれました。隠し味に興味を持った私は食べ物を作る仕事がしたいと思うようになり、作文に大きくなったらアイスクリーム屋さんになりたいと書きました。
高校は迷わず鵬学園の調理科に進み、卒業後は東京八王子の「ダルチアーノ」に就職しました。植木耕太社長はイタリアからジェラートを日本に初めて持ち込んだ人です。数多くのレシピを手がけレシピで味が分かるという凄い人です。2年間指導をして頂き本場イタリアにも出向いて昨年帰ってきました。



人気のトリプル

二人三脚

父は家で仕事の話をしなかったので、普通に牛乳屋さんの仕事をしているお父さんだと思っていました。今、父と一緒に仕事をするようになって改めてスゴイ人だと感じています。
ジェラートが美味しいのは、父たちが開発した能登ミルクがあるからこそなんです。能登ミルクは能登の酪農家6軒で搾られる牛乳です。現代は牛乳の生産性を高めるため牛一頭から35ℓ搾乳するのが一般的ですが、能登ミルクを作る牛は一頭から12ℓしか搾れません。非生産性ですが子牛が一日で飲む量がそれくらいだそうです。放牧主体で農薬を使ってない牧草で飼育した牛からなど9項目の基準を満たしたものが能登ミルクになります。能登ミルクが商品化できパティシエの辻口博啓さんに飲んで頂いた時に「やっぱ美味いわー」の一言が大きな励みになったそうです。

能登ミルクが完成してもすぐに売れたわけではありません。投資をして商品が完成しても売れなければ困ります。だから父も必死だったのだと思います。実は父がジェラートを作り卸していたのです。そんな姿を見てそれなら私が父に代わってジェラートを作ってあげたいと進路が決まりました。父は私の夢を叶えるために投資をしてお店を開いてくれました。今でも朝早くから牛乳配達をしてお店の開店から閉店まで手伝ってくれます。そんな姿から学ぶ事が沢山ありますが、まずは自分達が楽しんで仕事をしなければならないということです。自分達が楽しむことでお客様が楽しめるお店になります。だから父も私も毎日いろんなアイデアを考えています。私は地元食材と祖母から教わった隠し味を使ったジェラートを試作し、父は店内にいろんな仕掛けを工夫しています。お客様が「わぁ~」とか「かわいぃー」と入って来ますが何よりの褒め言葉だと思っています。そして何より一番楽しんでいるのは父だと思います(笑)。常に前を向いて仕事をする父のことを最近はちょっと尊敬もしています(笑)。これからも驕ることなく頑張っていきたいです。



3月5日、幕張メッセでの全国大会に出場!

和倉町 能登ミルク
☎0767-62-2077


第99回 私の仕事は『宮司』です。


あるがままを、あるがままに

仕事歴4年 清水景子さん 50歳

運命

泣いてお断りしましたが社務所に集まった役員は全員無言です。9月19日夜11時、静かに時が流れ、私が宮司を務めざる得ない空気が支配していきました。4年前、中島町熊甲大祭前夜のことです。兄が親戚である久麻加夫都阿良加志比古神社の宮司を務めていたのですが病気療養のため私に白羽の矢が立ったのです。私は禰宜(ねぎ)として参列するつもりではいたのですが、いきなりの大役に正直戸惑いました。

宮司の世界はほとんどが世襲制です。血筋と状況を鑑みると出来るとか出来ないでなく、逃げる事も避ける事も出来ない定めを感じ、あるがままを受け入れるしかないと諦めた瞬間、宮司としての覚悟が決まったのです。

人生は必然

私は兄一人、姉二人の末っ子で、能登部神社の娘として育ち七尾高校から国学院大学を卒業し会社勤めをしました。両親は二人の姉と同じように私にも平穏な幸せを望んでいましたが、私はお膳立てされた人生を歩むより、子どもの頃からの夢が諦め切れず獣医師を目指すことにしました。

この時、母は神主の資格をとることを条件に獣医への道を認めてくれました。何かあった時は兄を助けてやってほしいと言っていましたがまさか現実になるとは思いませんでした。父は女が神主にならんでもいいと大反対していました(笑)本当に人生はどう転ぶかわかりません。

小6の卒業アルバムに獣医になって動物をみまもりたいと書きました。「治したい」ではなく「看護りたい」です。その意味を今更ながら実感している自分がいます。今獣医師として毎日手術や治療をし、また最後を看取りますが、動物は亡くなる時必ずあいさつをしてくれます。

飼主は少しでも生きて欲しいと願うのですが、ペットとしての定めをあるがままを受け入れ最後まで飼主に寄り添い、心臓が止まるまで生き抜いて、自然体で寿命を全うしていくとき、私は「よく頑張ったね」と声をかけます。すると穏やかな目になり「ありがとう」と魂の声が聞こえます。あるがままの人生を受け止めていくということでは獣医も神職も通じるところがあります。

神に現世利益を願う人が多い昨今ですが、そうではなく今を生きる人々が、今のあるがままを感謝するのです。目に見えない存在に畏敬の念を抱き、手を合わせ、頭を下げ、恐れ多くもと、今のあるがままにご加護を願うのです。神職はその民の願いを神へ仲立ちするのです。

自然体で

平成13年に兄が宮司に就任したとき同時に私も禰宜に就任しました。平成26年に兄が他界し跡を継ぎますが経験が浅くとても不安でした。祭事の意味を理解しないまま形式的に祝詞を読んでいましたが当時はそれしか出来なかったのです。申し訳ないのと情けないので一杯でしたが、地元の皆さんに温かく見守って頂きなんとか務めてきました。



どぶろくで直会(なおらい)

どぶろくも母から受け継ぎ、祭事にて神と氏子に振舞うだけの分量を地元の新米で作っています。今、父や祖父の書き残した祝詞を読み返しそれぞれの神事に込められた意味の理解に努めています。歴史ある神社の宮司としてまだまだ造詣を深めなければなりませんが、獣医師としての勤めもありどちらも中途半端にならないよう臨んでいます。

やりたいことをやり、やらなければならないことをやる、そんな日々が続きますが何かに捉われることなく自然体で取組めるようになり幸せを感じています。氏子の皆さんと共に祭事を通じて今まで以上に親しみある神社にしていきたいと願っています。



厳かに参道を

中能登町 能登部神社 ☎0767‐72-2176


第98回 私の仕事は『空手師範』です。


仕事歴12年  吉村 裕さん 54歳

人生の転機

武道家らしくしろ!その一言が弓道師範である父の教育方針でした。御祓中では剣道一筋、七尾では剣道とケンカで負け知らずでした。ケンカと言っても正義感からですよ(笑)。

星稜高1年の時、自分の力がどれほどかと極真会館七尾道場に入門しました。先に入門していた同級生がいたのですが勝てません。その同級生に勝つことを目標に真剣に稽古し高2で極真石川県大会優勝。高3で極真北信越大会ベスト4、極真全日本選手権に最年少出場で3回戦まで進みました。極真は実戦空手で突きと蹴で相手を打撃するので常に恐怖との戦いでした。

高校を卒業してのとしんに勤めますが24歳の北信越大会が人生の転機になりました。その決勝戦、相手は120㎏の巨漢です。歯が飛び血だらけの戦いになりました。敗れましたがその試合を観ていた佐川急便の役員から声がかかったのです。佐川急便が急成長しており根性とやる気ある人材を求めていたようです。

佐川急便時代

転職すると政界を巻き込むあの東京佐川急便事件が起こります。創業者の佐川清会長が金沢に身を寄せ、私は行員と空手の経歴から佐川会長の秘書兼ボディガードを命じられ24時間体制で4年間仕えました。

佐川会長はいかなる時もドライバーの事を最優先に考えていました。その姿から私も道場生のことを最優先に考えることの大切さを学びました。佐川時代に鳴和道場をしばらく預かる事になった時、母が余命宣告を受けたのです。佐川では待遇も良く仕事も順調だったのでかなり迷いましたが、長男として母の余命に寄り添うことを決め退職しました。



細やかに指導

武奨館創設

母が亡くなり空手で生きると決意し鳴和道場を正式に引継ぎました。一昔前は大人の世界だった極真がこの時8割がジュニアでした。私は子どもを教えた経験が無く本当に悩み、各大会に足を運び全国の強豪道場がどんな指導をしているのか目で見て、肌で感じ、自分に落とし込みました。不思議な事に何の策も無く、ただ一生懸命にやっているといつしか道場生が増えていったのです。

空手甲子園と言われ本当にレベルの高いJKJO全日本ジュニア空手道選手権大会で入賞者を出す事を目標にし、6年目で準優勝者が出た時は嬉しかったです。そして3年前ついに優勝者が出てこれからと言う時、予期せぬ事から極真会館と袂を分かつことになりJKJOの大会に出場できなくなりました。この時も道場生のことを最優先に考え各道場を回り保護者に説明し判断を委ねました。

しかし誰一人辞めませんでした。私は頑張らないとならない!と強く決意し2年前に武奨館を旗揚げしました。その後も入門者が増え続け石川富山で13道場、門下生が350名になりました。今は誤解も解け昨年からJKJO北陸地区とWKO北陸ブロックの代表に就任しフルコンタクト空手全体を見る立場です。

七尾道場から昨年10月のIBKO第9回全日本空手道選手権大会一般男子軽量級で20歳の外谷由河君が優勝しました。外谷君も幼稚園から空手を始めていますが、私は一人一人の変化を見逃さずに指導します。礼儀礼節の徹底、気合いを入れた返事や挨拶は稽古以前の問題として教え、稽古で苦しい時でも諦めず継続する大切さを教えます。

苦しんでいる仲間がいれば手を差し伸べ心から応援する。そうする事で自分が苦しい時、周りが助けてくれるのです。一人一人の心技体、その成長を見ることが何より嬉しいのです。



七尾道場門下生

武奨館 吉村道場 ☎ 076-225-3520


第97回 私の仕事は『料理人』です。


仕事歴 11年 黒川 恭平さん 30歳 

緊張の瞬間

肉の塊をカットしその断面を見る時が一番緊張しました。魚料理が済み、次は肉料理をお出しするのですが、時間を逆算して肉に火入れをしておき直前にカットします。お客様の好みの焼き加減に仕上げなければなりません。これで大丈夫だと思っていても焼損じる時があります。そんな時シェフから怒られるのがとても怖かったです。パリの二つ星レストランでの修業時代です。

日本では火入れするポジションで牛を焼いていたので自信があったのですが、フランスでは子羊、うずら、鳩、鹿など初めて扱う食材が多く火の入りも違うのでその感覚が身につくまでが大変でした。

道のり

保育園の時、将来の夢が「コックさん!」でした。両親が営むレストランは夜も営業して家族団欒の時間がとれない環境でしたが、働く両親の背中を見て育った私は中学生の時に料理人になると決めました。七尾高校理数科に入学しましたが担任の先生に大学には行かず料理の専門学校へ進みたいこと、フランスで修業したいので英語だけは一生懸命頑張ることを宣言し理解してもらいました。野球部にも入り七高初の県大会準優勝もでき、本当に英語と野球だけに専念した高校時代でした(笑)。私は目標を立てないと物事が進まないのです。目標が立てば次に何をするかが決められ、それに向かって進めるのです。

京都調理師専門学校に入学した時に、5年間日本で修業しそれからフランスへ行く目標を立てました。京都のフレンチ懐石「祇園おくむら」で5年間修業しますが、この間にソムリエの資格とフランス語検定3級を取得しました。そしてフランス料理界の巨匠、吉野建さんのパリのステラ・マリスに勤めることが決まりました。しかしそのお店のスタッフ全員が日本人だったのです。会話も当然日本語でフランスへ来た意味を考えると少し違うと感じシェフに相談して結局2週間で辞める事にしました。次のお店ではテスト期間として肉を焼くのですがシェフに怒られ続けた1週間でした。それでも何とか頼み込み雇ってもらいました。ここでは美味しく召し上がって頂くために少しの妥協も許さないシェフの姿勢から星付きのレストランとはこういうことなのかと気付かされました。

それで私は2時間半の昼休憩に肉屋から苦手な肉を買ってきて練習を始めました。そんなことからシェフの見方も変わり信頼関係が築けたように思います。帰国の際には送別会をしてもらい包丁を頂きました。実力不足を実感しパリでの先輩の紹介で大阪のラ・シームで働くことにしました。しかしシェフの育てたいがための厳しさに耐えられず、また同い年の同僚とも上手くいかなくなり挫折して辞めてしまったのです。傷ついた心を癒やしたいと気軽なビストロにしばらく勤め故郷に帰りました。



香箱カニのフラン

能登に生きる

七尾へ帰ると大阪のラ・シームが二つ星にランクされ、その同僚が日本代表で出場したコンテストで世界チャンピオンになったのです。挫折した自分が甘かったのかと葛藤し、結果を出さなければとの思いで日本最大級の料理人コンペティション「RED U‐35」に出場しました。

昨年はかすりもしませんでしたがリベンジした今年は3次審査まで進み567人中ベスト22人に残りました。大会には七尾から日本料理の川嶋亨さん、イタリアンの平田明珠さんも出場しました。今3人で料理を通じて能登の素晴らしさをもっともっと発信しなければと交流を深めています。



優雅なひとときを

和倉町 レストラン ブロッサム
☎0767-62-2410


第96回 わたしの仕事は『船長』です。


仕事歴 2年  酒井 志津代さん 62歳

船するから手伝え

38年間勤めた石川サンケンを定年退職しカラオケ喫茶を開いてのんびり暮らそうと思い、兄に相談したところ返って来た言葉が「船するから手伝え」でした。子どもの頃から仲が良く大人になっても飲んだり歌ったりと二人で遊んでいましたし、いつも私を気に掛けてくれていた兄貴の言うことやし、まぁーいいか、という思いで船に乗る事にしました。

兄は食祭市場の遊覧船の船長として長らく勤めていたのですが、船の老朽化で会社は営業を終えることにしたのです。それで兄が新しい会社を立ち上げて運航を引き継ぎました。

ところが

平成28年10月から姉も加わり3人で運航を再開しました。遊覧船は12月から冬期の運休に入りますが、その2ヶ月間はとても楽しいものでした。兄は話上手でユニークな人柄でお客を喜ばせ、私はそんな姿を見てやりがいのある仕事だなと思い始めていました。しかしこの時の兄は癌の治療を受けており気合で頑張っていたのです。

そしてついに入院することになりました。「兄ちゃんがおらんとわてやれんし…」と励ましたのですが、兄は「大丈夫や、われの性格ならやれるわい!」と逆に励まされました。兄は弱った体で船に乗り「ガイド中も何が流れとるかわからんし海から目を離すな」「能登島が見えん日は船を出すな」と教え、病室でも「お客に嫌なことがあってもそん時は笑っておらなダメやぞ」「花火大会は小さい船がいっぱい出とって危ないから、頼まれても出したらダメやぞ」などと教えてくれました。

私は兄の代わりに船長をやらなければならないのだと覚悟を決め、2級小型船舶操縦士の免許を取りますが不安が募ります。「難しいけど、やってみて赤字やったらどうする?」と聞くと「出来るだけやってみて、赤字が続いたら無理せんでもいいよ」と言ってくれました。



うぉっ!ウミネコが!

船出

兄が亡くなり、兄の大親友が手伝ってくれることになりました。中古で購入した遊覧船は白く殺風景だったので青く塗りカモメの絵を描きました。遊覧船の運航を兄の意思を継いだ妹がやる、ということが話題になり新聞やテレビに取上げられたことで仲間が駆けつけ応援してくれ、前の会社の先輩や後輩もいっぱい乗りに来てくれました。私は人と話すことや、世話好きでもあったのですが、仲間との日頃のお付き合いの大切さを改めて実感しました。

そして何より驚いたことは、名物船長だった兄を慕っていたお客様が沢山いたことです。県内外からリピートのお客様がお土産を持って来るのです。事務所にある兄の写真にお供えをとお花とウィスキーを持ってくる人もいます。先日も東京から見えられたご夫婦が兄の死を知ると船着場で号泣するのです。思い出にどうぞ乗って下さいと促しますが、ショックで気力を失ったと乗らずに帰られました。遊覧というより兄に会いに来る人が後をたたず、「これゃ、頑張らなならんなぁ」と強く思いました。

穏やかな七尾湾でも漁師のように天気を先読みし、海の底を知らないとなりません。兄が案内していた話を覚えこの夏も朝から晩まで声を出してガイドしていたら、お盆過ぎに声が出なくなってきて慌てました。ストレス発散のカラオケにも行かずに養生しましたよ(笑)。大変な事は色々ありますが、「七尾に遊覧船があって良かった」「有難う、楽しかった」というお客様の言葉を励みに、楽しみながら出来るだけ頑張ろうと思っています。



七尾湾遊覧のクルー