こみみかわら版バックナンバー

温故知新 第4回 ちょんこ山物語


宮下 三郎さん(56歳)

気多本宮曳山奉幣祭、本宮さんの春祭り、4月七尾の街に春を告げる。5月に日本一大きいでか山があり、その前月に行われることと、子ども達が引き廻し、ちょんこ山と呼ばれているので、でか山の前座だと思っている人も多いのではないだろうか。しかし、ちょんこ山の歴史は古く、かつては盛大で賑やかな祭りだった。今その運行さえも危ぶまれていく中、ちょんこ山を未来に繋ぐために9年前保存会が立ち上がり、しゃぎりの復活、伝統の継承、歴史を記す取り組みが始まった。ちょんこ山の事を網羅した文献が無かったため、保存会ではその歴史を調べる事にし、その執筆に抜擢されたのが宮下さんだった。

祭りと故郷を愛す

「それだったら宮下三郎さんに聞いたらいいよ」今までこみみの取材中に何度も耳にしたフレーズだ。4人兄弟の末っ子として一本杉に生まれた宮下さん、小1から祭りに参加しているが、当時は芋の子を洗うほど子供が多く、中々山車に乗せてもらえなかったと言う。しゃぎりの練習開始が待ち切れず二時間も前にまだ誰もいない部屋に行ったり、山車の人形の横に立ち晴れがましい気持ちで電線避けの棒を持ったことなどちょんこ山の思い出が多い。

そんな宮下さんは故郷を愛する思いも人一倍だ。畝源三郎のハンドルネームで自身のホームページを立ち上げ、一本杉、七尾、能登の歴史を詳しく紹介している。それを見ると、ちょんこ山の歴史を調べるのに宮下さんをおいて他にはいないことが頷ける。



ちょんこ山の変遷

神輿が巡幸する祭りとしては平安時代後期と考えられたりもするが、曳山そのものは江戸時代の享保2年(1717)、加賀藩士が書いた「能州記行」の記述で確認できる。当時は獅子頭を被った太鼓叩きを先頭に、小旗、賽銭箱、四神旗、台笠、金幡、立笠、鉾、槍、馬、神輿、籠などの百数十人の行列の最後に山車を曳いていた。それも米町の大国様、木町の恵比寿様の2台だけだったことがわかる。阿良町、一本杉、生駒町は毎年交代で歌舞伎を奉納していたという。

それではいつ、なぜ三町が歌舞伎を止め、山車を曳くようになったのか。宮下さんは30冊以上の文献を調べ文化5年(1808)に三町が一斉に曳山に変わったと読み解く。その訳を加賀藩政史との係わりから推測する宮下さん。文化文政期は江戸の庶民文化が最高潮に達した時代であったが、この時期、加賀藩では藩主が短い間に何人も亡くなったり、金沢に度重なる大火があったり、飢饉が起きたりと泣き面にハチの状況で、藩内に歌舞伎や狂言の禁止の通達を出していたことが影響したのではないかと言う。 また昭和33年頃までは御祓地区を巡幸した翌日には、袖ケ江地区も巡幸していたという。

宮下さんは全てを調べ尽くしたわけではないと言うが、「ちょんこ山物語」という一冊が出来上がった。保存会のメンバーも内容の深さに感心し初版20冊だったものが数百冊も増刷され図書館にも置かれた。今、宮下さんは保存会事務局長を務め、ここ数年は文化庁の文化芸術振興費補助金等を活用して車輪の整備を続けている。そして祭り前に一人、ポスターを持って近隣の幼保園を回り参加を促している。先棒を担ぎ走るタイプではないが、縁の下の力持ちとなって地道な活動を続ける宮下さん。 

さて、これから七尾のちょんこ山をどうしていくのか…。物語の続きは、今を生きる者で創らなければならない。