温故知新 第10回 染物屋
岩井元次さん(84歳)
今も敷地に残る高い煙突を見上げ、石炭を焚くことが一日の始まりだったよと懐かしむ岩井元次さん。往時の賑わいがなくなったけど馴染みのお客様の顔が見られることが楽しみで店を続けていると言う。
岩井さんは染物屋の三代目として生駒町に生まれる。祖父の岩井元吉が明治に創業し、父の敬次が跡を継いでいた。祖父と父の名前から一文字づつ貰い染物屋の跡取りとして育てられた。
染物屋
あの等伯も畠山家臣の奥村家に生まれ、染物屋の長谷川家の養子となり絵を学び始めたというから染物屋の歴史は古い。元次さんも子供の頃から手伝いをし、小島町にあった商業高校を卒業し家業に就く。
当時はまだ着物文化が色濃く残っており、人生の節目や晴れの日に多くの女性が着物を身に着けた。紋付、付け下げ、色無地などは白い反物を染めて仕立て、留袖や訪問着などの絵羽柄の模様づけは金沢か京都の友禅染に出した。
染物屋のことを紺屋とも言いうが、昔は紺色に染める藍染職人のことを言った。「紺屋の白袴」というが、これは「医者の不養生」と同じように専門家なのに自分の事には手が回らないという意味で使われる。そしてもう一つ、白い袴を汚さずに仕事をするという染物屋の職人気質を表している言葉でもある。
岩井屋染物店
1反が12メートル。着物になるまでに染物屋では染色、湯のし、洗い張りなどの工程があり、たくさんのお湯が必要になるのでボイラー免許を取得して毎日2時間かけてお湯を沸かしたと言う。
かつては1日に7反、8反と持ち込まれ、長い反物を敷地の奥庭までいっぱいに引っ張り天日干しにし、仕事と生活を混在させ暮らしてきた。
当時の女性は着物を楽しんでいたと言う。着物は三回の染め直しが出来るのだ。若い時の桃色の着物も歳を重ねると袖を通しにくくなる。そんな時に染物屋に持ち込み、糸を解いて脱色し、新たな色に染め直し、湯のしをして、もう一度仕立て直すと着物が生まれ変わる。いわば染物屋は着物のリフォーム屋だったのだ。
みんなが着物を楽しんでいた時は去り洋服の時代になった。綿や絹は染めるが合繊は色が定着してくれない。体が利かなくなり根気も無くなってきた。それでも着物を楽しむ人がいる限り、七尾唯一の染物屋として使命を果たさなければと思っている。
着物文化
女性に人気の花嫁のれん。僅かな生地を染めた一枚の暖簾に秘められているものは何かと考える。生地の肌触りや絵柄の美しさだけではない。それは母の娘を想う心が詰まっているからだ。手塩にかけた娘、嫁に出すということ、嫁になるという事の意を知る母が、娘の幸せを一枚の暖簾に託し願う。楽しいばかりではない人生。深夜、一人箪笥の前に座り暖簾を出して見つめ、手を握りしめ涙する娘の姿が見える母。
暖簾と共に嫁ぐ娘に持たせた着物も、多くは母の着物を染め直し、仕立て直したものが多かった時代。そんな女性の節目に関わってきた染物屋が一番に覚えることは生地の強弱を見極めることだった。箪笥に眠っている着物、面倒でも年に一度は土用干しをしておいてほしい。手入れさえしておいてもらえば、着物と母と祖母の思い出はいつでも蘇させることが出来ると言う。
着物の楽しみを教える人が少なくなり、箪笥を開けなくなった時代。全国で肥やしとなっている着物はおよそ20兆円にもなるという。なんとしても日本の誇れる着物文化を繋がなければならないと言う染物屋の顔には、まだまだその一翼を担っていく覚悟が見えた。