温故知新 第12回 布団屋
中川久雄さん(72歳)
人生の3分の1という長い時を、優しく包み込んで安らぎを与えてくれる。これほどお世話になっているのに、いつしか当たり前になって、感謝を忘れ、手入れも疎かにしがちな布団。
今は綿、羽毛、化繊、ウレタンなど様々な素材の布団があるが、昔は畳の上に着物を被って寝ていたという。 戦国時代から江戸時代にかけ綿が普及したことから掻巻(かいまき)布団などの夜着が誕生した。それでも綿(わた)は高級品で江戸時代に遊郭で綿布団が使われるようになった。
現代のように庶民が布団で眠られるようになったのは明治半ば以降のことだ。
今回は七尾初の製綿所としてスタートし創業100年を超える、布団製造販売ムーミンなかがわの中川久雄さんにお話を伺った。
中川製綿所
織田信長の頃、綿花から木綿が作られた。火縄銃の火縄や陣幕、旗指物など軍需品の材料として価値が高まり綿の木の栽培が全国に普及した。板の間に筵(むしろ)を敷いて藁(わら)布団で寝ていた時代が続くが、明治時代にインド綿が大量に輸入され庶民にも手が届くようになった。
それでも綿は本当に高級品で、綿屋が綿一貫売ると、一晩女郎屋で遊ぶことが出来たというから、今なら5万円から10万円くらいだろうか。そんな時流に乗って初代中川留松が高岡で修業の後、七尾今町で中川製綿所を興す。
当初は製綿した綿を大八車に積んで和倉温泉へ運んだ。当時は旅館の女中さんがその綿で布団を仕立てたという。布団の仕立ては和裁の延長であった。一貫(いっかん)3.75㎏から百匁(ひゃくもんめ)に製綿した綿が10枚出来る。敷布団1枚なら16枚やねとバラ売りしていた。
製綿とは俵にギュッと詰め込まれた原綿を仕入れ、綿の塊を弓の弦でピンピンとはじいてほぐす作業だった。 大正七年に電動機付製綿機を導入し、その後二代目、父健三はお店に布団を並べ中川ふとん専門店として小売を始める。そんな布団屋の娘として育った三女の悦子が東京の蒲団技術学院へ進み技術を習得し帰郷。24歳の時、国鉄職員の久雄と恋愛結婚。
綿の木
夢有眠なかがわ
健三が新しい工場を建てこれからという時に突然倒れる。この店を継がなければと29歳の久雄は国鉄を辞め布団の世界に入る。空手有段者で硬派な男が妻に布団の仕立て方を習うところからの三代目であった。
当時は七尾鹿島で15軒の布団屋があったという。冠婚葬祭が家で行われていた当時は親戚が集まり布団が何人前あるということが家の自慢だった。
お店を繁盛させようと張り切る久雄だが、ショックな出来事があった。母に連れられ花嫁道具の布団を買いに来た娘が、「私この店で買いたくない」と帰ってしまった。 間口3軒奥行7軒の布団を並べただけの店。花嫁は夢を感じなかったのだ。久雄は郊外に夢のある店舗を構える決意をし、ただ単に布団を売るのではなく、夢の有る眠りを提供しようと決めた。夢有眠、ムーミン中川の誕生だった。
久雄41歳、平成2年に今町から千野へ移転し夫婦で夜遅くまで働いた。ホームセンターなど、あちこちのお店が布団を売り出した時夫唱婦随の二人は布団のプロとして眠りを売るというコンセプトを立て、良いものにこだわり眠りに特化してきた。
平成23年に3月18日と9月3日、春と秋の睡眠の日が制定され、日本睡眠学会では良い眠りで免疫力を高め未病化を啓蒙している。資格取得などで睡眠のプロフェショナル化が進む中、布団の製造と販売を手掛ける数少ない専門店として、体圧分散を測定し体に合ったベッドや枕を手掛ける。
今、久雄が考案した健康布団は全国からも注文が相次ぎ、高い評価を受けている。