町名の由来
西暦七一八年、養老二年に能登国が出来た時、能登国の港としての国津(くにつ)を
七尾の港に定め香島津と名付けたそうだよ。
その国津のちょうど向いに位置する在所だったので津の向い、津向と呼ばれたのではないかと
考えられているんだよ。
昔の在所
津向町は海辺にあった十七軒が始まりで半農半漁の暮らしだったんだ。
それが昭和四年操業の岩城セメント子会社の七尾セメントが出来る時に用地買収されて
現在の旧道沿いに全戸移転したんだよ。
そこは小島と津向の地番が交互に入り組んでいるけど町会としては津向町になっているんだね。
セメント工場へ熊淵水上の奥山から石灰石をケーブルで運んでいたけど家の上を通っていたし、
工場にはドイツ製の高い高い煙突が二本立っていたんだ。
当時小学校で家の絵を描かせたら津向の子どもはみんな屋根を白く描いたんだ。
石灰の粉塵が積もっていたんだね。
戦時中にはイセの太陽光発電所の場所に軍隊がグライダー基地を置いて訓練していたそうだよ。
それと旧西湊小学校裏の山を開いて競馬場や射撃場などの娯楽施設があってね、
そこへは常磐町のお姉さんたちも遊びに来ていて当時から津向の若い衆と交流があったんだ。
現在の在所
そんな名残があって今でも秋祭りには神輿を担いで常磐町へ行くんだ。
その時ばかりは台車を使わず威勢よく担いで行くのが慣わしなんだよ(笑)。
青柏祭は唐崎神社のお水取りの神事から始まるけど、その水を津向の「紅葉の池」から汲んでいるんだ。
池の底には五十センチ程の紅葉の形をした石があってきれいな湧水でね、昔は唐崎神社の宮司が
深夜人目にふれないで汲んでいく秘儀だったんだけど近年は日中に行なっているよ。
ここは事業所が多いのでいろいろ協力してもらえるので町会費も年間三千円と安いんだ。
四十年前に在所の風通しを良くするために津友会(しんゆうかい)を発足したけど今でも
二ヶ月に一回集まってわいわいと懇親を深めているんだ。
おかげで総会は和気藹々の内に成立していくんだよ。先輩方が在所の年間行事を絶やさないよう
頑張ってきたので、少子高齢化の中だけど引続きやっていかなければと思っているんだ。
あきこの一言
半農半漁から商工業地域となって、
歴史と近代が交錯する在所。