第79回 七尾市中島町豊田
在所名の由来
鎌倉時代から日用川流域が豊田保と呼ばれていたらしいよ。
日用川も明治までは豊田川と呼ばれていてね、まぁ読んで字のごとく、
豊かな田んぼを願って付けたんでないかなぁ。
発音も「といた」と呼ばれていてね、これも明治に「とよた」と
呼ぶようにしたらしいんだけど、今でも「といた」と発音する人は沢山入るよ。
昔と今
昔は在所の宮あたりまでが入り江で海だったらしいよ。
豊田を語るときどうしても話さなければならない人がいるんだ。
的場孫三(まとばまごそ)という豪農で、江戸から明治にかけて
五代続き全員孫三を襲名しているよ。
初代から四代目までが私財を投入し二百年もの歳月をかけ
日用川流域の湿地帯を埋立てていき豊川村のほとんどの田んぼを作ったんだね。
そんな事業を継続していたおかげで、能登でも一揆が多発していた時代に
豊川村では一揆が起こらなかったんだ。
村の秋祭りには自前の大旗をつくり奉公人三十四人に担がせて
参加していたと伝わっているよ。
その旗は山戸田の在所に移って今でもお熊甲祭りに担がれているけど
昭和六十年に町が有形民族文化財に指定するほど由緒ある貴重な旗なんだよ。
それと豊田のトンネルは昭和四年に竣工した石川県で
四番目に古いトンネルなんだけど来年取り壊される予定でね、
子どもの頃、在所では十月頃から莚(むしろ)を作りこのトンネルを
倉庫代わりにして山積みにしていたし、冬になるとトンネルの出入り口には
太くて長いツララがさがり、まるで怪獣の口の牙のようだったね。
そんなのを叩き落して遊んでいたから、ちょっと寂しい気もするよ。(笑)
豊川地区の住民で日用川沿いに桜を四百本植樹し毎年剪定など管理しているよ。
実年会で舟を用意して子ども達を乗せて遊覧するんだけど実に良い景観だよ。
そんな功績が認められて昨年「日本さくらの会」から表彰されたんだよ。嬉しかったね。
かなこの一言
私財を投げ出して村人のために
尽くした人生、的場孫三さんは能登の
二宮尊徳だったんですね。