こみみかわら版バックナンバー

第86回 能登島 南町


在所の由来


南の田んぼは、隣の曲の地番が多いんだ。
昔、曲の人がその田んぼを作っていてね、隣と言っても山道を歩くか、
舟で回るか、大変だったんだよ。それで番人小屋を建て稲を見てたんだ。
それでこの当たりを稲見(いなみ)と呼んでいて、その人たちが定住し、「いなみ」が「みなみ」に転化して、いまの南になったという話だよ。在所のほとんどは曲門徒だし、きっとそうなんだろうね。


昔の生活


私の興祖父の新衛門が文化13年(江戸時代)に生まれ、
しんにょも浜と呼ばれる浜で塩を作っていたらしいけど、島は昔から製塩と漁業、
自給の農作物で暮らしていたんだ。私が子供の頃でも半農半漁だったね。

初めて賃金を稼ぐことができたのは、戦後在所で創業した川田組が護岸工事を始めた頃だよ。
私も若い頃に竹で編んだカゴにセメントを入れミキサーに放り込んだ経験があるよ。
それと藁で「にぐ縄」を編んでいたね。小指より細い縄なんだ。
土壁を作るときの竹を編んでいく縄でね、壁屋さんは「こうまい縄」と呼んでいたよ。

南は分校で小学校5年から半浦の本校へ通ったけど、4キロの山道を歩くか、
朝6時の定期船で閨まで行ってそこから2キロを歩くかだったよ。
遅くまで遊んで帰る時は細い山道を歩くけど、暗くて恐ろしかったよ。
そんな道沿いに「クロンボーシ」と呼んでいるお地蔵様があるんだ。
昼でも寂しい山道なので、在所の石材屋、川田幸次郎(当時39歳)が
昭和2年に村民のためにとお地蔵様を建てたんだ。
黒いお地蔵様でね、名前の由来かもしれんね。
そこが山奥から稲や薪を背負って来て一服する場所になったんだ。


今を生きる


小中高合わせても7人、限界集落の寸前だよ。
祭りも平成17年を最後に神輿、獅子舞は出してないよ。
田んぼも在所全体で14町部あるけど、
今は一人で10町部以上やらんと採算が合わんでね。
先祖代々の田んぼを荒かせないので作ってはいるけどね。

猪も爆発的に増えているよ。電気柵を作っているけど、裏庭の畑まで荒らしていくよ。
将来在所をどうして行くか妙案がないけど、
在所のオカザキ電機には若い女性も働きに来ているので昼は賑やかだし、
夕日は綺麗だし、奥島製畳は西本願寺の平成大修復で畳床を納めて名を上げたし、
嬉しいこともあるもんだよ。(笑)先を心配し過ぎてもしょうがない。


かなこの一言


今、頑張れることを頑張り、今を喜び、
今に感謝する。達観の境地、納得です。