こみみかわら版バックナンバー

第100回 中能登町芹川


在所名の由来


鹿島小学校近くの勝山地区が元村で濁川付近が出村なんだ。
いつの頃か年貢米の他に特産物も税として収めることになり考えたのがセリだったんだ。
ここは石動山の扇状地で水が豊富で良いセリが採れたんだよ。
それが評判になってこんな美味しいセリが川沿いに沢山出来るんなら、
村の名前をいっそのこと芹川にしたらどうかとなったらしいよ。


芹川の歴史


歴史に重要な勝山城と荒山城があるよ。
七尾城の内紛で重臣温井継宗が勝山城に入り3年間鹿島、羽咋一帯を支配したんだ。
ここは越中に抜ける道であり邑知平野を見渡す戦略上の場所なんだ。
畠山の後、前田利家が能登に入ったとき、越中の佐々成政が7
勝山城に攻め込んで城を奪い袋井隼人に城を任せるんだ。
それを奪い返すため利家の兄、安勝が攻めるけども落ちない。
その後、末森城の合戦の後、もう一度勝山城を攻めて奪い返すんだ。
芹川に袋井姓が多いのもそんな歴史があるんだね。荒山城も歴史があるよ。

信長が明智光秀に討たれたとの報で、石動山の衆徒山伏が天平寺の支配地を
信長によって減らされていたので、今こそと前田利家に反乱を起こすんだ。
死んだ後の法要を生前に済ませ板碑を立て荒山城に立籠もるんだ。
利家はそれを打ち破り360もの寺を焼き打ちにして衆徒の首を並べたというよ
一向一揆を警戒していたので、能登の一大勢力石動山を壊滅させて見せつけたんだろうね。
実は和平派の70ヶ寺が七尾の伊掛山へ逃れていたんだ。

それが利家にすがって石動山を復興し明治時代には
58ヶ寺あったんだが神仏分離令により瓦解したんだよ。


在所の取組


青壮年会の「よらん会」が「あちゃちゃの用心」を復活させたんだ。
江戸時代に火遊びで男の子が二人亡くなったんだ。
二度と無いようにと当時の村人が知恵を絞ったんだろうね。
お盆に男の子だけでお地蔵様の周りを「あっちゃちゃの用心!火の用心!」
と拍子木を叩いて回り慰霊と戒めを始めたんだ。
戦後途絶えていたんだけど、よらん会が子どもの思い出作りと
区民の融和をということで今は女の子も大人も参加してやるんだよ。


まぁの一言


戦国時代は地元でも大変な事が起こっていたんですね。
先祖のご苦労と、今の平和に改めて感謝します。