こみみかわら版バックナンバー

第104回 中能登町久江


町名の由来


在所の山には三筋の谷があり、昔からよく地すべりが発生していてね、
崩れる山、くえる山、が転じて 「くえ」になったという説と、
もう一つは氏神様の 名前からだよ。
在所の久氐(くえ)比古神社の久延毘古神(くえびこのかみ)は古事記に出てくる神でね、
国造りをした大国主命に知恵を授けた物知りの案山子(かかし)が実は足が悪い学問の神でね、
それが久江の守り神なんだ。
この神様を主祭神としているのは日本中でここだけだよ。


昔の在所


この在所は山100丁部、農地100丁部と言われ、農林業と織物が盛んでね。
旧久江小学校の玄関は区の山の木を使ったんだ。
山には明神滝、桃ヶ滝、火乃谷滝と久江の三名滝があり、
豊富な水のお陰で田一坪から1升3合の米が採れて通常の3割増しだよ。
江戸時代には能登上布が織られ、明治に絹織物、昭和10年から合成繊維に変って
昭和60年頃には機場は40軒あったね。  

昔は百瀬川の桜が近郷唯一の名所で、
七尾や羽咋から薪が燃料のバスに乗って沢山の人が花見に来たんだ。
桃瀬川の改修工事で桜を切ってしまい、川の名前も久江川と変わったんだ。
道閑(どうかん)の話もしないとね。
加賀藩の中で鹿島半郡(はんごうり)は長連頼の所領で
ここだけ検地してなかったんだ。
検地の動きが出た時、道閑は十村(とむら)役と言って、
鹿島半群の庄屋の頭で、検地で年貢が上がると農民が
苦しむと反対したら捕らえられて磔の刑にされ、三人の息子も打首になったんだ。
「おいたわしや、とこやちの道閑様は、七十五村の身代わりに」と歌が伝わり、
在所には道閑公園を整備して偲んでいるんだよ。


現在の在所


移住者や交流人口を増やそうと農村ボランティア
を募って各地の登録者に年3回在所に来てもらい草むしりや
区民との交流を通じて久江を発信しているよ。

それと10年前から、まんぞう(万雑)の金額を自己申告制にしたんだ。
不動産、所得や年齢など考慮した算定基準を作り自分で計算してもらんだ。
そしたら収納率が80%から98%に上がったよ。
時代の変わり目だから在所の運営も色々手を打たんとね。


まぁの一言


案山子、道閑、百瀬川、
物語がいっぱい、久江の在所。