こみみかわら版バックナンバー

第107回 中能登町春木


町名の由来


平安時代、春枝王(はるえおう)又は(はるきおう)とも呼ばれる皇族が
能登国の19代国司として中央政府より派遣され、
この在所に館をおいて住んでいたんだよ。
その名前から春木になったという言い伝えがあるんだ。
この春枝王によって七尾に能登国分寺が出来たんだ。


春木の歴史


原始時代から中世までの遺跡が9ヶ所あり、昔からずーっと人が住んでいたんだね。
昭和30年に田んぼの中から珠洲焼きの甕(かめ)が大量に見つかって、
千年前の中国、宗の時代の古銭が6万枚も入っていたんだ。

在所にはため池が9個あり、田んぼの水を賄っているけど豊富な水は春木の悲願だったんだ。
江戸時代、八郎兵衛と三郎右エ門の二人の肝煎り(世話役)が
渓谷の山水を集めて池に入れるための隧道を掘ったんだ。
一番大きな新池はその時に作られた池で今でも枯れる事がないんだよ。
隧道は明治、大正、昭和と何度も崩落と修復を繰り返して来たんだ。
総延長1.8kmもあるそうだよ。子供の頃その隧道の中に入って遊んだこともあったけど、
江戸時代に燈明を灯し手で掘っていったと思うと、先人の苦労を忘れちゃいけないね。
産業は織物と瓦が盛んだったんだ。

明治から大正にかけて絹や麻を織り、昭和には合成繊維で東北からの
集団就職も受け入れ賑やかだったけど今は2軒だけだよ。
瓦も原料のしめ粘土が近くの山から採掘され大正から
昭和にかけて繁盛し瓦工場も7ヶ所あったんだ。
それと肥田電気の本社もあって何かと力添え頂いているよ。

昭和20年に軍需工場の強制疎開で大阪から来て根を下ろしたんだ。
今、在所では定年後の人たちで春木保存の会、里山を守る会を立ち上げて
県道や河川の草取や山の手入れをしたり、圃場整備した田んぼを守るため農業法人も立ち上げたんだ。
春と秋の祭りには、どちらか晴れた日に獅子舞を出す事にしてるんだよ。(笑)

「春木区」として地縁団体の登記をし、自治会規約も作ってあるけど、
高齢化が進む中、将来に向けてもうひとつ考えていかんとならん時代になってきたね。


まぁの一言


連綿と続く人の営み、悠久の歴史を感じる在所。
時代を生き抜く力強さ。人間ってすごい。