第109回 能登島町 無関
在所名の由来
江戸時代に流刑地である島内でここだけ関所が無かったので無関になったという説があるけど、
向田の伊夜比咩神社所蔵の1400年代の古文書で閨・牟関と出てきて、
1500年代の拝殿建立棟札に無関とあるんだ。
流刑は加賀藩が1636年から始めたので、流刑地で関所、だから無関という説はどうなのかなぁ。
それと大和朝廷が後に島八太郎と呼ばれた8人衆を派遣した時、
先住の蝦夷(えぞ)が身の危険を感じて、無関の山に集結して、
ここから船を出し大口瀬戸を抜け越後に逃げたと伝え聞いているんだ。
集結した場所を蝦夷揃いと言い、それが訛ってイスルギと呼んでいる場所があるよ。
この逸話を元に、逃げる事が出来たのは関が無かったからと結び付ける説もあるけど、
在所の年寄りに聞いても本当の所はわからんと言っているよ。
在所の歴史
古老によると、元々ここは長興寺の前に5世帯が住んでいたんだ。
上杉謙信の七尾城攻めの戦乱を受けて中島の長浦から河崎門徒の
10世帯が移ってきて、今の在所が出来て行くんだね。
明治22年には27世帯、181人になっているよ。
県道工事の時に古墳時代の製塩遺跡が出たけど、昭和初期まで揚浜塩田をやっていて、
海岸の奥の田んぼと熊谷さんから5軒は塩田だったと聞いているよ。
無関には二人が流されて来たんだ。流刑者といっても知識人だから、
だんな様と呼んで、字などを習っていたようだよ。
在所の一段高い場所に住んでいて、そこを、
だんな様の高、だんなん高と今でも呼んでいるよ。
その子孫が東京都の副知事になって、戦後先祖を訪ねて来て行ったそうだよ。
昭和30年代からの葉たばこは在所の8割が始めたんだ。
米の倍儲かると言う触れ込みで、確かに一時期は良かったけど、
だんだん合わなくなって皆辞めたんだ。
子供の頃は学校から帰れば蛸つり、夏は水中メガネと網袋を持って
海に飛び込んでサザエを何十個と獲ったもんだよ
無関は全国的に有名な釣スポットでシーズンには太公望が並んでいるよ。
今、小中学生はいないし、青年団も、婦人会も、
老人会も解散しているから、すべての行事は町会でやるけど、
在所といっても班みたいもんだから、冠婚葬祭すべて助け合って生きているんだ。
半分が年寄り世帯だし、行事ごとも無理せんとやっていかんとね。
まぁの一言
小さな在所にいっぱいの歴史。
移ろいに従い、身の丈で暮らす。