こみみかわら版バックナンバー

第111回 七尾市江曽


在所名の由来

邑知地溝帯が海だった頃、東側陸地と西側陸地の間でここが
幅約1kmと一番狭いことから交通の要所となり、
昔からエミシと呼ばれる蝦夷(えぞ)が住んでいて、
それでこの地を越蘇(えそ)と呼んだのが始まりで、
古代平安時代に越蘇駅と駅名が記され、中世鎌倉時代には越曽や恵曽になり、
近世江戸時代で江曽になったと聞いているよ。

宿駅

平安京を中心に東西の街道に駅がおかれ、
能登では羽咋のよき(現在余喜)の次がここでね、
室塚さんの総本家の裏に駅があったと伝わっているよ。
江戸時代に交通が活発になり高畠、二宮にも駅が置かれ
宿場町が形成されていくのだけど、江曽はそうならなかったんだ。
江戸時代になって飯川に新しい道が出来、畠山時代までの本道が移ったんだよ。
それで飯川が宿場として栄えたんだよ。
新しい道路が出来ると旧道のほうは廃れるのは今も昔も同じだね(笑)。
そんな歴史があるので、おいで祭りの馬も江曽と飯川を毎年交替で通っていたんだ。
今はルートが変わってどちらも通らないけどね。

江戸時代に木挽き23人と記録があるけど、エソ档(あて)が産物だったんだ。
北前船の帆柱に適していると、かほく市の木津まで大八車に積んで運んだらしいよ。
青柏祭のデカ山の柱も奉灯の角材もすべてエソ档を特注して作っているけど、
江曽の山の地勢と土壌が適していたのとカナ档から独自のエソ档に育て上げてきた先人の努力の賜物なんだよ。
養蚕も盛んだったんだ。
戦争中に繊維不足を補うために、子ども達が養蚕場に集まり
桑の木の枝の皮を剥いで軍服用の繊維にしていたそうだよ。
その養蚕場を昨年12月まで江曽の公民館として使っていたんだ。

これから

新しい公民館の落成式を平成28年12月25日に行ったところだよ。
新たな時代に備え、ここを拠点にして在所が結束していきたいね。
手始めに毎週金曜日の10時から、いきいき100歳体操を始めたよ。
その後に踊りやおはじきなどみんなで楽しんでいるよ。
少子高齢化は進むけど、まず今住んでいる人たちが明るく元気で、助け合って仲良く暮らす。
そして伝承すべき行事ごとを伝え残す。
町会長は2年交代制だから短期決戦で目の前の課題を一つ、一つだよ(笑)。

まぁの一言

移りゆく自然、産業、暮らしの中で、
逞しく生きてきた、古くからの在所。