こみみかわら版バックナンバー

第115回 七尾市三島町


町名の由来

江戸時代には竹町で、明治5年に三島町と改名されたんだ。
なんで三島になったかわからないんだ。
ここは元々海に沿った町で子どもの頃は魚釣りや蛸釣りして遊んでいたけど、
ふと海を眺めると、沖には能登島と雄島、雌島が浮かんでいるんだね。
この三つの島を眺める在所なので三島町になったんではないかと想像しているんだよ。

昔の三島町

七尾港を中心に栄えた町でね、昔は回船業を営む船主が9軒もあったんだ。
慶応元年に架けられた慶応橋の袂に、今は国分にある明願寺があったんだ。
その跡地に七尾警察署が建ち、今は七尾商工会議所になっているよ。
その隣にある在所の金刀比羅神社は石動山の梅の宮本殿を移して、
さらに海上安全の神様、讃岐の金比羅さんから御霊を分霊してもらったんだ。

明治28年の七尾の大火は三島町の莚(むしろ)納屋から出火して
御祓川の西側900戸を焼失してるんだ。
学校も役場も銀行もお寺も病院も全部焼けたんだ。
私が子どもの頃の三島町は多くの人が行き来していたよ。

昭和15年に開館した七尾劇場には日曜日ともなると行列が出来ていたなぁ。
慶応橋から常盤町までは幅3間の道路で当時は七尾で一番広い道路だったよ。
三島町の隣が新地歓楽街で港町ならではの賑わいがあったね。
家が下駄、草履の店をしていたんだが、その頃は年が変われば新しい下駄を履く習慣だったので、
台に好み鼻緒をすげて仕上げるのに新地のお姉さんたちがよく出入りしていたのを覚えているよ。
そんな時代は七尾実業の学生が高下駄をカラコロ、カラコロと七尾駅から一本杉を歩いていたしね。

これから

時代は変わってきたけど料亭の福井亭や七尾に一軒だけになった造り酒屋の
布施酒店などが今に面影を残しているかな。
金刀比羅神社では毎月10日に定例祭が執り行われて、
本宮神社の宮司を招いて玉串を捧げて七尾港の安全と在所の安寧を祈っているんだ。
新年会や運動会などは婦人会がよくお世話してくれるし、
夏祭りは青年部長の浅野さんが頑張ってお世話をしてくれるので、
高齢世帯が多くなってきているけど、町内が一致団結できているんだ。
本当に有難いことだよ。これからもみんなで力を合わせて様々な問題に取組んでいかなければね。

まぁの一言

喧騒の表通りから一本入る、
港町の香がほのかに感じる三島町。