こみみかわら版バックナンバー

第116回 中能登町小田中


町名の由来

小さい田んぼの中の在所だったのかねぇ。
親王塚の前にある大きな石は舟をつないだ石だと
伝わっているのでそこまで邑知潟だったようだよ。
私の親世代は鹿西の能登部を向岸と呼んでいたから、
今のように田が広がっていなかったんだ。
鎌倉時代の古書に小田中保と、平家物語にも
小田中の親王塚と出てきているから、
そんな頃にはすでに小田中と呼ばれていたんだね。

神仏の歴史

親王塚は、第十代崇神天皇の第5子で能登の国造りに
大変な功績を残した大入杵命(おおいりきみのみこと)の墓なんだ。
4世紀後半に作られたといわれ、北陸随一の大きさで貴重な
出土品からも当時ここが能登の中心地だったことが伺えるんだよ。
その親王塚のてっぺんに大入杵命を祭る御祖神社があって、
在所では神輿を担いで登って祭りをしてたんだ。

明治になって神社が今のお宮に合祀され、人が登ることも禁止されたけどね。
この地区が御祖(みおや)となったのはこの神社の名前からなんだよ。
在所を流れる長谷川上流に能登国観音霊場10番札所の初瀬観音があるけど
毎年7月9日、10日にお参りするんだ。
七尾から参拝者も来るので当番を決めて朝早くからお世話させて頂くんだ。
昔は在所をあげてお参りしたけど、近年は少子高齢化が進み
在所でもお参りする人が少なくなって寂しいんだよ。
それと上杉謙信の能登攻めで在所に33もあったお寺が全部焼かれた歴史もあるんだよ。

福俵

昔、小田中に福田の在所の飛地があって、
そこの池に棲む大蛇が田んぼを荒らし困っていたんだと。
それで若い娘を人身御供に出していたけど、
その家の人は悲しみ小田中の神社の久志稲田姫に相談したら
気多大社の大国主命にお願いしてくれて大蛇を退治してもらったんだ。
そのお礼にと福田の人達がそこでとれたお米三石三斗を小田中の神社に奉納し、
それが伝統行事となって今でもおいで祭りが小田中の神社に入るとき、
福田の人が三升の福俵を黒塗りの三方に載せ正装で行列の最後に並ぶんだ。
年が明けた気多大社の新年祭でその福俵のくじ引きが行われるんだ。
なんと昨年、小田中にこれが当たったんだよ(笑)
良い縁起が続くよう、みんな仲良く頑張っていきたいね。

まぁの一言

まだまだいっぱいの、
歴史物語が詰まった在所