こみみかわら版バックナンバー

第117回 中島町別所


町名の由来

能登島にも金沢にも別所はあるけど、
山奥で不便な所を一般的に別所と言うのではないかと思うね。
ここも七尾市中心地から一番遠い在所ではないのかな。
中島町史には西暦1577年、天正5年5月16日、
長連龍(ちょうつらたつ)の兄、長綱連(ちょうつなつら)が
36歳の時に中島町谷内の熊木城を上杉勢から奪回するため宮前の在所に前線を構え、
兵1500を別所村に布陣すると記されているんだ。
別所から谷内に通じる一本の山道があるけどそこを塞ぐ布陣だったんだね。
いずれにせよ安土桃山時代には別所と呼ばれていたということだね。

別所の歴史

在所では久保さんの屋号が丹後で、丹後守(たんごのかみ)と呼んだりしているけど、
応仁の乱で京都の丹後国(たんごのくに)から逃れてきたと伝わっているんだ。
久保家古文書で別所の世帯数、人口、出生、牛馬の数などが記録されていてね、
1730年から1889年の明治22年まで25か26が別所の世帯数で、
人口は220人から250人前後で馬は28頭、牛2頭だったんだ。

第13代藩主前田斉泰(なりやす)が海岸防備状況を視察する能登巡見で別所岳に登っているんだ。
その時、丹後守の久保家で休憩しているんだ。
小学校は西岸小学校別所分校だったけど昭和37年の
2学期から釶打小学校別所分校となったんだよ。
私が小5の時で1学期だけ西岸小学校へ通ったんだ。
道路整備が進み人の流れが西岸から釶打に変ったんだね。
それにしても小学生が別所から遠い西岸まで山道を朝早くから通学したと思うよ。
学校に着いた時にはズボンが朝露に濡れてくしゃくしゃになっていた事を思い出したよ(笑)。

昔と今

別所は天領だったんだ。別所岳に登ると七尾北湾が一望でき地勢的に重要だったんだろうね。
田を開き、炭を焼いて、個人で兎や狸、集落で猪や鹿を獲っていたと言うから自給自足の暮らしだったんだね。
中島へ勤めに出たのが昭和40年代だよ。
谷間の小さな田んぼの石積みを見ると先祖の苦労が分かるんだ。
超過疎地になって、悲しいけどしょうがないね。
在所の事もお互い様で、てんでんに出来る事はせんかいね、出来んことは無理せんとね。
が合言葉だよ。流れに身を任せて今を暮らしていくだけだよ。

まぁの一言

穏やかな日和、山道を進み、別所岳に登る。
わぁー!と思わず声が出た。
故郷の山と海を一望。