こみみかわら版バックナンバー

第118回 能登島田尻


町名の由来

在所のある山ヶ地区は、通、田尻、久木、この三つの小さな在所が
集まって力を合わせてやってきた歴史があるんだ。
そして田尻は、通の分家の在所なんだよ。通の二男、三男が
新宅するのにここで住み出したんだろうね。
そしてこの場所は、通から見れば、地形的には田んぼの先、
田んぼの尻に当たることから、田之尻と呼ばれていたんだ。
それで田尻になったと聞いているよ。

昔の在所

田んぼが少ないので漁で暮らしを立ててきた在所だよ。
田尻港を出れば立ケ島、中ノ島、鱈島と三つの島があるけど
その周辺は瀬だらけの海なんだ。
瀬には魚が集まるから刺網、引き網、
もったりと呼ぶ小型の定置網などで近海ものが沢山獲れたんだね。
昔はそれを中島の助作やよんじょもなどの魚屋さん
が買いに来てくれていたと聞いているよ。
寒天の原料になるエゴ草も採れて長野県へ出荷していたと言うよ。
私が子供の頃、まだ能登島はバラス道だったんだ。
そんな時に田尻の道だけコンクリート舗装されていて裸足で走って遊んでいたよ。
これは在所の共有地、ボロボロ鼻付近の海辺の山を売ったお金で整備したという話だよ。
昔は東回り、中ノ島回り、西回りと能登島を定期船が回っていたんだ。
ここは西回りで南、無関、閨、田尻、通、半浦と回っていたんだ。
当時は郵便配達も学校へ通うのもみんな山道と定期船で移動してたんだね。

現在の在所

祭り、駅伝、運動会など通、田尻、久木が三ヶ地区として
一緒に組んで来たんだけど、昭和20年代生まれの人が引っ張って来たんだ。
能登島の駅伝は今年59回を数えるけど過去には連続10回以上優勝しているんだ。
そんな時分は2ヶ月前から練習に引っ張り出されて走らされたけど、
今その世代も年をとって次の若い衆も少なくて昔の活気は無いよ。
通と田尻の境にある八幡神社は通と共有の神社なんだ。
祭りは中島の枠旗祭りと同じ形態でね、昔は神輿2つ、
旗3つを出して各在所と久木の塩田跡の釜屋敷で枠旗を練っていたそうだけど、
私が子供の頃ですでに久木も田尻も枠旗を出せず、今は神輿も出せないのが現状だよ。
まぁ在所が家族のようなもんで、ほのぼのと暮らしているんだよ。

まぁの一言

恵みの海に育まれた在所
対岸の西岸が近くに見えた。