こみみかわら版バックナンバー

第121回 中能登町東馬場


町名の由来

古文書によると鎌倉時代の馬庭(ばんば)村が、
室町時代に分村して鹿西の西馬場、鹿島の東馬場となったようだね。

ここは邑知潟地溝帯の上にある在所なので、
湿地帯から平野になっていく過程で馬を遊ばせたり、
餌を食べさせるような場所になっていったのではないかなぁ。
三角池の近くに今も馬洗場(ませんば)と呼んどる場所があるし、
そんなことで馬庭と呼ばれ、そして馬場となったと思うんだよ。

在所の歴史

山裾に位置する西馬場にはお寺があるから、昔の馬庭村の人はそこに住んで、
ここは馬の庭でしかなかった場所だったと思うんだ。
そこに人が住みだし集落が出来てきたので分かれたのではと想像してるんだよ。

東馬場にはお寺が無く、散り門徒で能登部や井田、水白など近在のお寺の門徒が多いので、
その辺りから移り住んで来たんではないのかなぁ。

戦前、軍需工場があったんだ。
それが敗戦で昭和23年に滝尾織布株式会社に変わったんだ。
織機が176台もある大きな工場でね、私の母親も勤めていたし、
在所中の人が勤め現金収入を得ていたので生活の基盤が安定した在所だったよ。
二交代の勤務で夜道が危ないからと在所中に街灯がついたんだ。
当時では大変珍しい事で、周りから田んぼの中に夜でも明るい在所があると揶揄されたよ(笑)。

それが昭和31年6月に工場が火事で全焼したんだ。
その頃から八台機場(はちだいはたば)と呼ばれた織機八台の家内工場がブームになるんだ。
在所でも多いときで46軒の機場があったけど音がうるさくて夏でも窓を開けられなかったよ。
在所の中の空気が動きっぱなしという感じなんだ。
慣れたらそれが普通になってね。
盆と正月に機械が止まると、在所中がシーンと寝静まったようになったよ。

これから

中能登中学の裏に新興地もあり若干世帯も増えているので、
祭りが出来るだけでも良しとせなならんね。
子供の頃、田んぼで聞こえたカエルの声が織機の音に変り、
それが無くなった今、土水路から基盤整備された田んぼではカエルの声も聞こえないし、
ホタルもいなくなって世の移り変わりを肌身で感じているんだ。

高齢化が進み空家が増えたけど、在所の中が荒れないように空き家対策をして、
住みやすい東馬場を守っていくために、真剣に考えなならん時が来たように思うこの頃だよ。

かなこの一言

邑知潟が平野になり人が住んだ。
人が住むとこ歴史あり。