こみみかわら版バックナンバー

第126回 能登島町日出ケ島


町名の由来

弘法大師がこの地を訪れて、飲み水に困る村人のために筆で岩をなでたところ、
そこから水が湧き出たということで、この地を筆ヶ島と名付けそれが
転じて日ヶ島となったと言う弘法大使説があるよ。

確かに弘法の井戸と言われる跡は今でもあるけどね。
ここで暮せばわかるけどなぜ日出ヶ島なのか一目瞭然だよ。
海辺に立てば富山湾から昇る太陽が能登島と崎山半島の間の水平線に顔を見せるんだ。
凄く綺麗な日の出でなので感動するよ。
そんな日が出る島、日出ヶ島ってのが素直で本当のところだと思うけどね。

昔の在所

能登島は越中の五箇山と共に加賀藩の流刑地で、
134人が島に流されたと聞いているけど、
その玄関口がここ日出ヶ島の港だったんだよ。
当時20あった村の内14の村にそれぞれ配流されていくんだけど、
多くは書画や儒学などの文化人や武士など政治犯だったんだ。
家族を残してどんな思いで海を渡ったかと思うね。
逃げようと思えば三室まで泳げる近さだけど、
家族に危害が及ばないようにと逃げなかったんだろうなぁ…。

子どもの頃は半農半漁の暮らしで刺網、定置、なまこ、蛸などを獲っていたんだ。
私の祖父さんは蛸が入ると蓋の閉まる蛸壺を開発してね
、獲れた蛸を七尾の市場に持って行くときに付いて行っては
うどんや饅頭を食べるのが楽しみだったよ。
その蛸壺は今でも大事に私も使っとるよ。

小学校は隣在所の野崎小学校へ山道を歩いて通ったけど、
当時は在所から在所は細い山道しかなく、どの在所も孤島の中の、
さらに陸の孤島だったんだ(笑)。学校の帰りは山道を遊びながら、
あけび、おんべ、松茸も採って、カキ崎の海ではサザエを獲っては
家に帰ったもんだよ。今は誰も手入れしないので山は荒れてしまったけどね。

これから

時代が変わったんだからこそ、いい意味で変わっていかないとね。
ここは左藤、左川、米田の3苗字の12世帯25名で、
90歳を筆頭に65歳以上が18名なんだ。

祭りの獅子舞も出せないし、報恩講のお参りも集まらなくなったし、
暮らし向きが個人個人になってきているから、
この前みんなで防災訓練をやったんだ。
やればすぐに一致団結だよ。日の出も綺麗だし、魚も美味いし、
在所の存続のために何か一歩を踏み出さないと、と強く思っているところなんだ。

かなこの一言

お日様に恵まれ、魚良し、松茸良し、
みんな仲良し、小さな在所、島の中の島。