こみみかわら版バックナンバー

第128回 七尾市報国町


町名の由来

報国造船の社宅があった場所が払い下げられ出来た町なんだ。

昭和18年、戦況が悪化する中、船舶不足を補うため
大阪商船が矢田新から万行浜にかけて木造大型船では日本一の造船所を作ったんだよ。
県内外から人を集め、万行町に社宅を建て住まわせた場所が
ここで、通称で報国町と呼んだんだね。

造船所は昭和20年に火事で燃えてしまったんだけど
復旧して昭和40年代頃まで会社があったんだ。
私の父親も勤めていて、東京オリンピックの年に見学に行ったことを覚えているよ。

昔の在所

昭和25年の報国の人口は667人、この時の万行の人口は850人と記録にあるけど、
地元住人とよそ者がほぼ同じくらいの勢力なんだ。

終戦直後のことだからどこも食料がないんだよ。
畑の野菜が無くなれば、ひとつかみに報国の人が白い目で疑われ、
悔しい思いをしたと聞いてるよ。それをバネに子ども達には勉強を頑張らせ、
児童会の役員をしたりして積極的に地域活動に参加していったんだ。

社宅は6畳と3畳に台所と土間だったんだ。それも4軒長屋でね
一棟に板一枚で仕切られて4世帯が住んだんだ。
だから年寄が10ヶ月後に隣に赤ん坊が産まれるのが
わかったと言っては笑わすんだよ。
その4世帯長屋が4棟で一つの井戸を共同で使うんだ。
かまどで杉葉を燃やすので部屋はすすだらけだし、
決して良い環境ではなかったけど、大らかに和気藹々と助け合って暮らしていたんだね。

これから

火の用心の見回りを毎日行っているんだ。昔火事があってね、
それで「子どもに~、マッチ持たせるな~♪煙突、かまどの掃除しろ♪
カチカチ、火の~用心♪火の用心♪カチカチ」と唄まで作って子どもに廻らせていたんだ。
今は大人が2軒1組で拍子木を叩いて伝統を守っているよ、歌わないけどね(笑)。

在所の豊受神社は戦前まで矢田新町にあった大日本人造肥料の
会社に祀られていた伏見稲荷を昭和27年に譲り受けたんだ。
万行小学校を解体した際の教室を社殿にしていたけど平成14年に社殿を新築したんだ。
報国町に縁のある人たちから沢山の勧進が集まって鳥居も建てたんだよ。
社宅の町でも生まれ育った場所が故郷だよ。
りっぱな神社を持ちたいという熱い想いが募ったんだね。

一人住まいの高齢者が多くなってきたけど、老人会も活発だし、
これからも長屋の精神で仲良く支え合って生きていかなくてはね。

しほの一言

人の住むところ歴史あり、
聞かなければ知らないことばかり。