こみみかわら版バックナンバー

第133回 中能登町川田


町名の由来

昔この辺は邑知潟地溝帯の湿地帯でね、隣在所の大槻との間に流れている
二宮川が氾濫しては土砂が堆積していき、そこを田んぼにしていったようだよ。
川の横の田んぼから、川田と呼ばれるようになったと聞いているよ。

昔の在所

古い文書に明治3年の世帯数が25軒、鳥屋町が出来た当時が34軒で
尻から3番目の小さい在所だったんだ。
いつの時代かわからないけど、その昔、戦いに敗れた高岡の守山城の城主が
ここへ落ち延びてきたと氷見のお寺の古文書に書かれていると聞いているんだ。
そんな歴史があるのでここには守山姓が多く、昔は在所の8割が守山だったんだよ。

それと川田は天領で特権的な天下百姓の村だったんだ。
20町歩の田畑の水を全て賄う大池は谷間を堰き止めて作った大きなため池だし、
江戸時代に寺小屋があって明治時代には小学校になっていたというから、
小さいけど何かしら力があった在所だったようだよ。

明治28年に11ヶ村が合併した鳥屋村の初代村長が守山佐一、
二代目が守山栄次郎とこの小さな在所から出ているところを見ると、
守山城主の末裔としてか、天領だったからか、よくわからないけど、
とにかく一目置かれた存在だったのではないかと思うんだよ。

これから

昭和50年に北陸最大の川田古墳群が発見されて川田地区だけでも
大小150基以上の古墳があるらしいね。
おかげで平成13年に大池を中心にとりや古墳公園が
整備され遊具やパターゴルフ場もあり、土日には沢山の家族連れが訪れて楽しんでいるよ。

町営住宅と新興住宅地が2ヶ所造成されたおかげで今では
在所の半分の世帯が移住して来た人たちなんだ。
若い世帯が多く子供も沢山いて、獅子舞の練習には40人以上の子どもが集まり、
若い衆もしっかり指導してくれているよ。
昨年は獅子頭、蚊帳、天狗の面を新調したけど、嬉しそうに祭りをしている子供たちを見ていると、
紛れも無くここ川田がこの子らの故郷なんだと実感するね。

子ども会、青壮年団、実年会、老人会、女性協議会、自衛消防団など活発に活動しているけど、いろんな行事を通じて在所に馴染んでもらって将来的には川田を継承してもらいたいと願っているんだ。

あきこの一言

温故知新、古きと新しき、
交わって歴史が繋がれる。