こみみかわら版バックナンバー

第138回 能登島町八ヶ崎


町名の由来

能登島に臥(ふせの)行者がいたんだ。泰澄(たいちょう)大師の弟子でね。
昼夜臥しての心行で悟りを求めていたので、臥(ふせの)行者と呼ばれ、
奈良時代に泰澄と共に霊峰白山を開いたほどの行者だよ。
この行者が飛鉢の法で、沖を航行する船に仏具の鉄鉢を飛ばして供物を布施させていたんだ。
その鉄鉢が流れ着いたので鉢崎となったという話だよ。
それが室町時代の古文書では蜂崎となり、江戸時代では八ヶ崎になっているようだね。

昔の在所

八ヶ崎には4名の流刑者が配流されたけど有名なのは寺島蔵人(くらんど)だね。
藩政批判で流刑されたけど待遇がよかったようで
何かと在所の人々にも気を使ってくれたようだよ。
約4ヶ月後に62歳で亡くなるのだけど、
その間書いた手記や描いた絵から当時の暮らしが伺えるんだ。

配所跡に石碑を設置してあるけど、これは加賀藩ご用達の
和菓子の森八から昭和11年に在所へ届けられたそうだよ。
蔵人邸も森八も金沢の大手町にあるから何かしらの縁があるんだろうね。
ここは「やりもらい」が多い在所やね。
同じ家同士で嫁を貰い合うんだよ。
半農半漁の小さな在所ゆえの互助の手立て、知恵やったんやろね。

終戦直後に在所の事業として田んぼの耕地整理を始めているんだ。
軍の諜報機関にいたという穴水出身の幽経さんという人が移り住み、
その人が陣頭指揮をして進めたと聞いているんだ。それが今の田んぼなんだよ.

これから

40年以上運営してきた八ヶ崎海水浴場も主体の女性会が
面倒見れないと言うのでどうするか在所で話し合ったんだ。
出番は月に3日から5日あるけど、若い人は会社休めないし、
今までやってきた人は齢をとるし、お客も3分の1程に減っているので
閉鎖の方向で考えていたけど、勿体ないので在所で運営することにしたんだ。

昨年地域づくり協議会から猪のミンチやカレーをやりたいので
施設を貸してほしいという話があり、一緒に力を合わせてやっていくことにしたんだ。
週末には若い人が集まり改装しているよ。戦後の田んぼの基盤整備もしたいと思うけどね。
高齢化と猪の影響で荒地になる一方だし、集落営農するにしても整備しないとね。
価値ある農地にしておかないといずれ担い手がいなくなる事が心配なんだよ。

あきこの一言

それぞれの時代を生きる人、
陽だまりで聞く八ヶ崎の歴史。