第141回 七尾市柑子町
町名の由来
もとは柑子山だったんだ。昭和29年に七尾市と合併する時に山の字を取って柑子町になったんだ。山の中というイメージ払拭したかったという話だよ。柑子とはミカンの一種で、沢山栽培されていたことが町名の由来らしいよ。
昔の在所
江戸時代に庵村から独立分村した在所でね。柑子は山方(やまかた)四ヶ村と言って、外林、小栗、清水平と山の中の在所で、庵や佐々波の在所は浜方と呼んでいるんだ。何百年前か分からないけど元の集落は、山の峠に50軒ほどあったそうだよ。私の先祖と吉田家の先祖が室町時代の蓮如上人の弟子の寺男として能登に布教に来てここに住んだと伝わっているんだ。その吉田家の場所に建てた寺が後に庵へ移った西方寺なんだよ。
昔はシーサイド公園辺りが柑子の網場で漁もしていたそうだけど、大方は山、畑、田んぼで暮らしていたんだと思うよ。この辺りでは一斗ブリという言葉が残っているけど、大きなブリ一匹と米一斗を浜方と物々交換していたんだ。
明治22年には戸数12、人口77人と記録にあるけど、明治30年頃に大火があって村が全焼しているんだ。その頃から村を出て行く人が出始めて数世帯が北海道開拓団として出ているよ。炭を入れる俵を1枚10円の手間賃で作っていたり、庵の大敷に薪を売ったり、浜方の女の人がタラやブリを売りに来たりしていたね。私が子どもの頃で16軒の在所だったんだ。
これから
なんも無いよ。年金暮らしの2世帯がそれぞれに暮らしているだけだよ。猪、狐、狸、兎、イタチ、最近カモシカも見かけたよ。獣の出る山の中での暮らしていると、寂しくないかとか、怖くないかとかよく聞かれるけど、人間の方がよっぽど恐ろしいよと答えているんだ(笑)。
なんにも出来なくなったけど、祭りの日だけは2世帯で宮でお参りはしているんだ。昔は祭の日も仕事を終えてから宮へ集まってお神酒を頂いて夜に神輿を担いたんだ。神主さんには泊まってもらって、翌朝に地蔵石にお参りをするんだ。この地蔵石は明治時代に浜方の虫崎の人が担いでここを通った時に動けなくなり、神様が宿っているので柑子山の人で守ってくれと言われてそれから在所で守っているんだよ。田んぼも草ぼうぼう、鳥居も朽ちて、消滅していく在所だけど、3人でそれなりに日暮らしをしているよ。
あきこの一言
人が住む所、歴史あり。こみみで歴史を伝える使命を感じる。