こみみかわら版バックナンバー

第144回 中島町瀬嵐


在所名の由来

「せあらし」でなく「せらし」と発音するんだ。室町時代には瀬良志で、江戸時代には瀬嵐になっているようだけど由来はよくわからんよ。中島には熊甲祭の藤津比古神が瀬嵐に光臨して、鎮座地を決めるためにここから弓を放ち谷内の加茂原に落ちたという伝説があるんだ。熊甲神社の御神体は朝鮮渡来というから瀬良志というのも朝鮮からの由来のような感じもするけどね。

昔の在所

古墳が30基以上も発見されているから古くから人が住んでいたんだね。万葉集の「香島より熊来を指して漕ぐ船の楫(かじ)取る間なく都し思ほゆ」の歌は大伴家持が越中国の国司として能登を巡行したときに、七尾の港から中島の熊木まで船で渡った時詠んだ歌なんだ。当時能登は越中国に属していたんだね。もう一首、「香島嶺(かしまね)の机の島の小螺(しただみ)をい拾ひ持ち来て・・・」この歌の机の島が瀬嵐の机島で、確かにしただみがいっぱい採れたよ。この辺りが万葉の里と呼ばれるのはそんな由来で、それで万葉の里マラソンはここ七尾西湾を一周しているんだ。

ここは丸木舟の里でね、昭和20年代には七尾湾一帯で1000隻以上の丸木舟が利用されていたけど全部瀬嵐で作られていたんだ。舟大工も私が子どもの頃でも6軒あって各地から弟子も集まっていたけど要の技術は地元の人間にしか教えなかったと聞いたことあるよ。技を継承するために作られた最後の一隻がお熊甲の祭り会館に展示してあるんだ。

小学生の頃、日曜日に天気が良ければ弁当持って家中で丸木舟に肥しを積んで向かいの種子島(たがしま)に渡って畑仕事を手伝わされたけど、朝行けば夕方まで帰れないので本当に嫌だったよ(笑)

現在の在所

祭りで結ばれている在所やね。都会に出た人は正月も盆も帰らんと熊甲祭りに帰ってくるんだ。祭前夜は在所の両端にある奉幣宿と神社を鐘太鼓を鳴らし朝まで数時間おきに往復し、早朝5時から舟に神輿や大旗を積んで海を渡り熊木川を上って祭りに出るんだ。祭りが終わり夕暮れの海に鐘太鼓の音と共に提灯を灯した舟が遠くに見えると、港では無事を祈り帰りを待つ人々の間に、得も言われぬ連帯感が生まれるんだ。

そしてすべての祭り道具が故郷を想い都会で暮らす関東瀬嵐会の寄付なんだよ。本当に団結心の強い在所でその証が祭りなんだ。

あきこの一言

櫓を漕ぎ渡る種子島、二艘仕立ての祭り舟。
万葉のロマン漂う瀬嵐の在所。