こみみかわら版バックナンバー

第152回 能登島町 閨


在所名の由来

昔は閨と無関が一つの村で、室町時代の古文書には禰屋牟関と書かれているようだよ。閨の入り江の中にある鴫島で行者が寝ながら行う心行をしていたんだ。それで臥(ふせ)行者と呼ばれ、その場所には今でも行者が寝ていたと思われる石畳が残っているよ。

鴫島は今陸続きになっているけどそこを行者鼻と呼んでいるんだ。行者が寝て修業していたので寝屋とも呼ばれ在所名の由来になったようだね。

昔の在所

島八太郎の一人で水蔵右衛門という人が閨にいたようだよ。子孫は残っていないけどね。元の在所はフィッシングパーク辺りにあったと聞いているけど江戸中期以降に今の漁港のある場所に移ったと思われるんだ。それは閨には古屋八郎兵衛と和田磯五郎の二名が流刑されているけど、今の場所に一番先に入った家が古屋さんだと伝わっているからだよ。

石屋、大工、鍛冶屋、木挽き、桶屋などの職人と半農半漁で暮らしを立ててきた在所でね、昔は鱈漁が盛んで丸木舟を漕いで穴水の近くまで行って漁をして船一杯にして帰ってくるんだ。浜に集まった人がそれを貰って軒下に吊るして干してあった風景が懐かしいよ。

松茸もよく採れてね、在所の松茸山は青年団が管理して山ごと入札するんだ。それが若い衆の収入源で北海道や九州に一週間旅行に行っていた時代もあったよ(笑)。雑苔でも採るように竹かごに一杯採れた松茸は味噌漬けにして、干した鱈とが弁当のおかずだったけど最高だったなぁ…。

各家には田んぼを耕す牛を飼っていてね、子どもは朝と学校から帰ってから餌の草刈りが日課だったよ。これをやらないと青柏祭や明治節に七尾へ出かける小遣いが貰えないんだ。七尾で山藤のうどんを食べるのが楽しみだったよ。

現在の在所

ゴルフ場が出来たり、別荘地が出来たり、道も良くなって働きに出て現金収入を得ることも出来るけど、あくせく働かなくてはならない時代にもなったね。

あぜ道を歩いて学校に通っていた子どもの頃のあのチベットのような情景が懐かしいね。にぐ縄を編んでわずかな現金収入を得て支払いは盆暮れのあんな時代に戻れば良いと思うこともあるんだ。そうは言っても前向きに進まないことにはね(笑)。

今在所では耕作放棄地をこれ以上増やさないためにも圃場整備を進めようと話が進んでいる所だよ。

あきこの一言

鴫島に残る史跡と豊かな自然。
人良し、空気良し、水も良し。