第153回 中能登町 能登部上
在所名の由来
鎌倉時代の古文書で能登部村という文字が初めて出てくるようだけど、雨の宮古墳があるから古墳時代から人が住んでいたことは確かだよ。野球部やサッカー部など部とは集団を意味する言葉でね、数軒ずつが点在して暮らしていた時代に、何か目的をもってかなりの人数が集まっていた場所だと思うんだ。
山の頂上にあれだけ大きな古墳があるから、当時能登を支配していた王がいたと想像できるので、かつてここが能登の中心地で多くの民が暮らしていたのではないかと思っているんだよ。
雨の宮古墳
子どもの頃はあれが古墳だとは知らんかったよ。山のてっぺんに土俵があって毎年8月14日に相撲大会をしていた場所なんだ。その山が前方後方墳で能登最大級の古墳だと言うので驚いたよ。
能登部神社の3代前の宮司で、能登部町史を編纂した清水一布さんが何かを感じられて県に調査を促したんだ。県と明治大学が平成4年から本格調査を始めたら、すでに誰かにほじられていたことがわかったんだ。国の重要文化財になっている神獣鏡など、副葬品まであと数十センチで手が届くところまでほじってあったそうだよ。
今は綺麗に整備されて多くの観光客も訪れているし、14年前から雨の宮を護る会を結成して、毎年古墳まつりを行っているんだ。
在所の今昔
まだ誰も織物に携わっていない明治時代に、当時24歳の丹後徳蔵さんが手織12台の機業場を創設したんだ。幾多の苦労を乗り越えて大きな会社に育て上げ、中能登の繊維産業のパイオニアだよ。そのお屋敷が町に寄贈されていて国の登録有形文化財にも登録されたんだ。今、趣ある通りを文化財にしようと文化庁に申請する準備をしているけど、その要の建物なんだよ。
11月19日の夜、この通りを密かに歩く「ばっこ祭り」があるよ。能登部神社の男神が、隣の西馬場の愛宕神社の女神を迎えに行き、能登部神社奥の院へ連れて入り逢瀬を楽しむんだ。行列は無言で、行列を見た人は目が潰れると言われているから犬が鳴いても人は誰も出てこないよ。足跡から女神を連れていったことがばれないように帰り道はわらじを前後逆さまにして履くけどこれが痛いんだよ。あの痛さは履いた者しかわからんよ(笑)。歴史ある在所なので一丸となって末永く栄えていく努力を続けないとね。
あきこの一言
神がいて、王がいて、民が暮らす
悠久の歴史の中に活かされ、今を生きる。