第154回 七尾市神明町
在所名の由来
安土桃山時代に建てられた神明神社が現在の興能信用金庫付近にあったんだ。この辺りは府中のはずれ、矢田郷村、所口村の境で一帯は田畑か未開の土地だった所だよ。畠山義綱の書状にも神明之地を占拠したが反撃にあったと書いてあるのは、この辺りのことだと思うよ。
明治42年発行の七尾町図には、ここは矢田郷村の田んぼでまだ町は無いけど、大手町通りの一番端に神明神社と記載されていて、当時から「神明さん、神明さん」と呼ばれ親しまれていたようだよ。昭和25年の新市制の町名変更で神明さんのある町として神明町が誕生したんだね。神明神社は明治6年に松尾神社と改称し、昭和46年に所口町に移転しているんだ。
昔の在所
大正14年に七尾駅が今の場所に来たけど昭和の始めはまだ寂しい場所でね、ここに嫁いできた娘は、こんな恐ろしい所に嫁に来たと言っていたくらいなんだ。流れていた川はきれいでね、フナ、どじょう、うなぎも獲れたしイサザまで上がってきたんだ。
昭和20年代にバスターミナルやグンゼの織物工場も建ち、ローラースケート場まであったんだよ。グンゼの工場は2階が養蚕で絹糸を紡いでいたけど、そこの高い煙突に登って怒られた思い出があるよ(笑)。昭和30年代からの高度成長期が始まり、映画館のオリオン劇場がオープンし、割烹秀よし、純喫茶エンゼルなど飲食店や医院も並んで、七尾の玄関口、政治経済の中心地になっていったんだ。私の家も焼きまんじゅうにお菓子や果物など売っていたけど、小売店はどこも午後10時まで店を開けていたよ。一杯飲んだ人たちが、列車やバスの終電まで馴染みの店に顔をだして時間待ちしていくんだよ。
現在の在所
ミナクルが建って垢抜けた感じもするけど、町会としては65歳以上が半分以上、冠婚葬祭を互助できない限界集落だよ。未開の寂しい場所が、七尾一の繁華街になったと思ったら限界集落の要件を満たし、短い歴史の中で栄枯衰勢を体験してきた町だね。
ここで暮らしてきたから感じるんだけど、七尾は駅前を核に中心市街地と連動する超コンパクトシティーを早く形成させなければならんと思うよ。ますます高齢化が進む時代にどう暮らすのか、市全体でビジョンを掲げて町を再生させないと、どうにもならんよね。
あきこの一言
栄枯衰勢は世の習い。
時代の中で知恵を出し生き抜く