こみみかわら版バックナンバー

第160回 中島町豊田町


在所名の由来

隣在所の豊田から分村したんだよ。鹿島郡史によると鎌倉時代に加賀国豊田村から豊田弥二郎光忠という人が移住して開発領主となったことから、この辺りを豊田というようになったらしいね。
その豊田の端にある日吉神社の前に、毎月16日に市が立ち人が集まりだしたんだ。それでここを豊田の中の賑やかな所、豊田の町と呼ぶようになり、分村して豊田町となったのだよ。
ちなみに9月の六保祭は市が立った16日に行なわれていたんだけど、今は人足不足で9月の最終土曜日に変わったんだ。

昔の在所

日吉神社を中心に役場、小学校、中学校、農協、郵便局など主な施設が集まり、近隣の在所から二男坊や三男坊が来て住むようになったんだ。津波の避難場所となっている殿の芝(とんのしば)には在所の4本の道が集結しているけど、子どもの頃はここで竹スキーをして遊んだよ。

県道が通ってない時代は殿の芝から若狭堤の横の山道を通って土川、外原、富来の日用の在所に通じていたんだ。
在所の半分は富来の日用の松尾寺の門徒で日用とは縁が深かく、山から木を運搬する人夫を日用と呼んでいたくらいだよ。目の前に的場孫三が拓いてくれた140町歩の豊川平野が広がるけど、ここは分村したので農地が少なく山田を拓いても五反百姓が多く、農業で食べていけないので和倉のイソライト、富士断熱工業、日の丸窯業に多くの人が勤めに出ていたんだ。それと学校の先生になった人が多い在所やね。

現在の在所

豊川地区は公民館活動が盛んなので、高齢化が進む中で地域の住民とほど良い人間関係を維持して、住みよい豊田町が続くよう努力したいと思っているんだ。4月の桜まつりは、日用川の両岸800mに実年会が植えた桜を眺めながら子供からお年寄りまで集って川下りを楽しむのが恒例なんだ。

6月最終日曜日には六保の納涼祭のしらいの前に故郷の恩人、的場孫三の顕彰碑の前で玉串奉奠して祝詞を上げてお参りし、地区の敬老会では婦人や壮年団長など集まって演芸をしたりして、みんなで心からお年寄りをもてなしているんだよ。在所の中では散歩に出て触れ合える場として殿の芝に桜を植えベンチも備えたんだ。人情を大切にして末永く暮していかんとね。

あきこの一言

往時を偲ぶ宮の前、殿の芝に通ず小路を上る。
穏やかに流れる空気と人情、豊田町の在所。