こみみかわら版バックナンバー

第161回 中能登町末坂


在所名の由来

鳥屋地区には須恵器(すえき)の古い窯が百以上見つかっていてね。須恵器とは朝鮮半島から伝わる土器で、この辺りでは北陸でも早い時期の六世紀初頭頃から生産され、以後四百年以上須恵器の生産が続いていたそうだよ。
全国の須恵器の生産地に「陶(すえ)」の字を使った地名がよくあるそうで、ここもそうなんだね。
そしてここは台地に集落が形成されて来たことから陶坂(すえざか)と呼ばれるようになって、いつの時代かに末坂に転化したのだろうと言われているよ。

昔の在所

昔は農業と山仕事をしていたと思うけど、明治二十二年に鳥屋村役場ができてから鳥屋の政治的中心地になって、旧道沿いには銭湯に食料品、雑貨や洋品店、食堂、飲み屋、駄菓子屋などが並んでいたんだ。織物工場も沢山あって青森、秋田、岩手から集団就職で若い女工さんもいっぱい来ていたので賑やかな在所だったよ。

集団就職は昭和三十年代まで続いて、良川駅に列車が到着すると旗を振って出迎えたんだ。当時の粋の良い若い衆は女子寮を覗きに行っていたらしいよ(笑)。町と商工会が尽力して女工さんのために七尾城北高校に鹿西分校を開設してもらったんだ。

在所の六地蔵には云われがあってね、これは明治時代には避病院(ひびょういん)が建てられたそうで、今で言う隔離病棟やね。当時コレラや赤痢などの伝染病は死に至る病気で、亡くなる人も多かったので火葬場の近くに建てられたそうだよ。そんなことで在所では避病院の近くに六地蔵を祀り亡くなった人をとむらったそうだよ。

現在の在所

昭和61年に役場が新庁舎に移転したら在所の中が寂しくなったよ。旧役場跡地のミニパーク広場で夏に盆踊りをやるんだ。前は青壮年団が主催だったけど負担が大きく中断したので、2年前から在所が主体になって復活させたんだ。

旧鳥屋町の時は地区対抗の運動会があって在所が結束したけど、三町が合併してから地区対抗の行事が無くなり、少子高齢化も重なって結束力が弱くなったね。だから出来るだけ住民が集う機会が必要なんだ。秋祭りは小中高生と青壮年団が総出でやってくれるので心強いよ。今年から圃場整備の工事に入るのでその取組をしながら、調和を保って結束していきたいね。

あきこの一言

眉丈山系の山麓の台地、須恵器を焼き、
織物で栄え、結束を誇ってきた在所。