第163回 中島町上畠
在所名の由来
虫ヶ峰山麓のなだらかな傾斜地に畑が連なり集落まで続いているんだけど、
集落の上に畑が連なる景観から上畠となったようだね。
昔の在所
釶打地区で一番畑が多い在所でね、稲作するには水不足で昔から畑で暮して来たんだ。戦後は横田や町屋の畑を借りてまで、葉たばこ、大根、白菜、スイカなど作付けしていたし、中島菜を商品化したのもここなんだよ。昭和三十年代、政府の所得倍増計画で世の中みんな勤めに出るようになり、釶打を出たバスが横田で満員、列車も中島駅で超満員、奥吉田の坂を上がらないほどだったんだ。
そんな時代でも上畠では先祖が苦労して拓いた畑を維持するため勤めに出ることが出来ず、それで大工や左官の仕事をしながら畑をしていたんだね。平成四年当時でも二十四軒中、十一軒が大工だったよ。
今となれば結果的に良かったと思うね。昭和五十二年に上畠農業機械利用組合を発足、現在は「農事組合法人なたうち」として田んぼ、畑、採れた野菜の加工品や味噌なども販売もしているんだ。大工が多いので格納庫や出荷場、ライスセンターなど夜なべしながら自前で建てたよ(笑)。
今日まで営農組織を四十二年間も続け、田んぼも二十二町歩あるけど、休耕田が一つも無いことが誇りなんだよ。
現在の在所
昨年神社を建て替えたけど、みんなで十五年以上貯金してきたんだ。農業で結束し、もう一つ祭りで団結力を高めているんだよ。九月二十三日の新宮(しんごう)の祭には金沢大学の学生に来てもらい枠旗を担いでもらっているし、八月十四日の「お涼み」の奉燈の灯りはろうそくを替えながら「やんさこ」を唄い情緒豊かに行なっているんだ。
小さな在所なので明治時代から横田と「ゆい」を結んでいるんだよ。農業の担い手不足が心配される昨今だけど、金沢のボーイスカウトが毎年田植え、草取り、稲刈りに来ているし、 ターンや移住者など若い農業従事者が増えているので嬉しいね。昨年も京都と大阪から移住希望の若い女性が農業体験に来ていったよ。高齢化は否めないけど住み慣れた故郷で、みんなで住み続けられればと願っているんだ。
あきこの一言
時流に乗らず田畑を守り続け、
結束力で新たな時代を拓く上畠。