こみみかわら版バックナンバー

第162回 七尾市後畠町


在所名の由来

江戸時代の後畠村の人口は5人だったようだよ。明治22年でも戸数2、人口6人なんだ。
小高い山の上に野原が広がっていたので、隣の藤野や古屋敷などからは後ろに広がる丘陵地、後ろの畠、後畠と呼ばれていったのかも知れないね。
もう一つは畠山氏の七尾城が後ろにあるので後畠になったという話もあるよ。
それとなぜだか通称で一本松と呼んでいたこともあったよ。

昔の在所

昭和13年に無住地になったようだけど、その後ここは八崎農場と呼ばれて馬や牛が飼われていたんだ。
戦時中は軍隊の馬が飼育訓練されたりしていたようだよ。
戦後の神野亮二市長がここに市長公舎を建て市役所に通ったんだ。
合わせて八崎農場の跡地に市営住宅も建設したので人が集り新しい町会が発足するんだね。
私は小1でここに来たけど市長公舎は一つ屋根の木造の大きな家だったよ。
市営住宅はセメント瓦の平屋一軒家だけど畑付きでね、そこに鍬(くわ)を入れるとカチッと音がして何かと思ったら古銭なんだ。
この周辺で結構な数が出ているみたいだよ。

昭和30年代に入ると自衛隊が来て野原を整備して陸上競技場、野球場を造って、
その後プールと体育館が出来て七尾のスポーツの中心地になったんだね。

現在の在所

若い世代が集った在所なので、子供達も70人前後いたけど、今は20人弱に減ってしまたよ。
我々世代が育てた子供が町に残らず出て行った中で、どう少子化に歯止めがかけられるのか、
残された高齢者がどう生きるのか、妙案は無いけど、それでも考えないとね。

平成12年の町会スローガンは「坂と花とロマンの町」だったけど今ではその坂が苦痛になってね(笑)。
それで今年度のスローガンは、「花がいっぱい、優しさいっぱい、思いやりの町」が選ばれたんだ。
花壇花作り、夏祭り、避難訓練、町ぐるみ餅つき大会が年間四大行事なんだよ。
神社は無いけど夏祭りは本宮さんが来て奉燈を担ぎ町内を回るんだ。

運動公園に向う道路真ん中の大きな花壇は、訪れる人に親しんでもらおうと町会全員で花を植えたり草を刈ったりしているんだよ。
大きなスポーツ大会が重なると駐車場が狭いので路駐が増え難しい問題もあるけど、世の中はお陰様、お互い様の精神もないと成り立たないからね。
令和になり町会もそろそろ代替わりしていかなければと思っているんだ。

あきこの一言

一人の百姓が住む処、一本松となり、
時を経て市長が住み、後畠と栄える。