第169回 七尾市富岡町
町名の由来
なぜ富岡になったかわからないけど、小丸山の城下町に東と西に地子町があって
ここは西地子町の一部だと聞いているよ。
その中でもここは明治の初めごろまでは通称で瀬戸浜と呼ばれていて、
遠浅の砂浜で小船の陸揚場となっていたそうだよ。
ちなみに地子(じし)とは領主が田畑や屋敷地などを賃貸料として課す地代のことだけど、
町名となるのは城下を作るときに商人や職人を多く集めるために地子を免除する町を作る場合もあって、
その代わりに町には人足役や伝馬役、領主御用達の負担が課せられるという話だよ。
七尾の東西の地子町がどの辺りか、どんな制度だったか詳しく知りたいね。
在所の今昔
在所の西宮神社のすぐ裏が海だったよ。
貸ボート屋も何軒もあって海水浴もしていたし、タコもよく釣れたね。
桟橋もあってポンポン船が能登島と行き来していたけど、
ここは能登島の西島にルーツを持つ人が多いよ。
お盆に墓参りに帰る時は手土産に肉を持って船が沈むくらいいっぱい人が乗っていたよ。
そんな時代は府中の波止場に能登島会館があって高校生の寄宿舎になっていたんだ。
西宮神社は石動山のお寺を移築し恵比寿様を祀ってあるんだ。
恵比寿様は商売繁盛の神様なので建立のとき御祓地区のお店が商売繁盛を願ってこぞって勧進したんだ。
昔の秋祭りはすごかったよ。
本宮神社に向うとき亀山町から馬出の橋までの直線を白木の神輿を松本町の人と三、四十人で
担いで勢いよく走るんだ。橋を渡るなと止め戻されるので、亀山町まで戻ってはまた突っこむんだ。
三回目で御祓川に腰までつかり体を清めて川を渡ることが出来たんだ。
前日には川底の石をあげて準備していたね。
先輩から聞いた話では戦時中に国から配給のサツマイモを町内の砂利道に並べて家族の人数を聞いては
配っていたらしいよ。終戦直後には小学生たちが線路沿いを歩き徳田にある軍の弾薬庫に行って、
三十センチの砲弾を持ってきては信管をはずし火薬を取り出して道に並べて遊んでいたんだ。
そんなある日砲弾が炸裂して子どもが一人亡くなる事故が起きているんだ。
そんな時の砲弾が西宮神社の社殿に箱に入れて飾ってあったけど、昨年自衛隊が回収していったよ。
近年は少子化で年寄りの多い町になってしまったけど、それだけに防犯防災の意識は高くて
お膝元の恵寿病院の災害時の訓練に参加してトリアージの患者役をやったり、
AEDの訓練をしてもらったりしているんだ。今は神社の改修工事をしているけど
人が暮らす限り歴史は刻まれていくから過去も未来も大事にしたいね。
あきこのひと言
城下の一角にて存在感を示してきた在所。