こみみかわら版バックナンバー

第173回 田鶴浜川尻


在所名の由来

明快だね。ここは七尾湾西湾へ流れる二宮川の河口付近に成り立った在所だから、
川の先っぽ、川の尻ってことなんだろうね。それしか考えられないよ(笑)。

昔の在所

古文書からの推測によると関が原の戦いの前後数十年の間に川尻村が出来たらしいよ。
驚いた事に江戸時代から世帯数がほとんど変わっていないんだ。人口は半分になったけどね。

田んぼと漁で暮らしを立てて来た在所で江戸時代には新しく開いた田んぼの灌漑用水を確保するため
八間(十四・五六メートル)の掛樋(かけひ)を川に掛けて用水を渡していたそうだよ。
今は圃場整備をして水は行き届くけど今度は雨水が自然廃水できないんだ。
オランダのように大きなポンプを二台も設置して七尾湾に汲み上げて排水しているんだよ。

明治時代には雑魚やエイ、タコ、立貝の漁業許可を得て漁をしていたんだ。
海は遠浅で子供の頃にはアサリが一杯獲れて海岸で流木を燃やして焼いては食べていたけど懐かしいね。
すだれのように竹を編んだものを設置する「やな」と呼ぶ定置漁法も盛んだったよ。元は端村の川尻で、
明治9年には和倉町の川尻になって、明治十四年から田鶴浜の川尻になっているんだ。

在所の自慢

在所の荒石比古神社は総持寺の山門や東嶺寺を手がけた名工柴田真次が建てたんだ。
莚(むしろ)で囲って完成するまで中を見ることならずで、完成して宮が現れたとき、
あまりに立派だったのに村人は皆ぶったまげたと伝わっているんだ。
この神社は伝承によると神功皇后征韓の帰り嵐で船が難破してここに漂着し、その部将が
垣吉に居住し守護神を奉納したことが始まりでそれを現在地に移しているんだ。
それで神社の扉には菊の御紋が掘ってあるよ。

小学生3人、中学生3人、若い衆3人、残念ながら今年の秋祭りは初めて獅子舞を中止したんだ。
昔は祭だといえば学校も休ませてくれたけどね。今は人足が集るように祭りを土曜日に変更しても
学校の行事や大会と重なって祭りを優先できない時代になったね。
ここの獅子舞は氷見の阿尾の人に泊り込みで来てもらい習った越中獅子なんだ。
獅子が本当に生きているように踊り、かつては鹿島郡の獅子舞大会で優勝したこともあったよ。

職場でもそれぞれが棒を持ち木のコロやカンナを持っては振り付けを練習してみんなが熱かったよ。
そんな時代がだんだん遠のいていくけどしかたがないね。

あきこのひと言

川と田と海に囲まれる在所
人々が由緒ある神社を囲む。