こみみかわら版バックナンバー

第174回 七尾市南藤橋


町名の由来

昭和二十五年に藤橋町から分町した町でね。
藤橋町の北に位置するのにどうして南藤橋なのかと言えば、分町する区域の中を更に区分けして
北、南、西と分けたからだよ。だから南藤橋の北に北藤橋町、西側に西藤橋町が誕生したんだね。

ちなみに藤橋は文禄四年、一五九五年に前田利家が小丸山城を作る時そこに住んでいた人を
こちら側に移して、城の外堀に藤の橋を架けたことが由来らしいね。

昔の在所

ここは昭和十年に鉄道公舎が建ってから住宅が増え続けてきたんだ。
それで分町することになったんだろうね。いわゆる新興住宅地で寄せ集まりの在所だったんだね。
若い世代が多いので、とにかく名前と顔を覚えようということでいろんな行事をやってきたんだ。
聖母幼稚園で盆踊り大会をしたり、鵜浦や千里浜へ海水浴に行ったり、町内全域で宝探し大会を
したけど、当時は子供でいっぱいだったからね。

それとこの町は政治家が育つ街かもしれんよ。
かつて市議、県議、国会議員と政治家が出ているからね(笑)

現在の在所

人口がこの十五年間で二百人も減っているんだ。小学生も百人以上いたけど今は三十人ほどだよ。
聖母幼稚園と近くに七尾中学、七尾高校があるので賑やかな感じはするけど六十五歳以上が
百三十八人と高齢化は否めないね。夏祭りにはここで育った二代目、三代目の若い人が帰省して
奉燈を担いでくれるので盛り上がっているよ。

鉄道の電化で奉燈が電線につっかえて三島町の仮宮まで行けなくなったので今は町内を隅々回る
ことにしているんだ。近年は恒例のバス旅行と平成二十九年より百歳体操を週一回行っているよ。
ここは従来からの班が十八、マンション、アパートの班が十五で合計三十三班あるけど、
外国人も多くごみの問題なども含めどう交流するか課題もあるんだ。

それともうひとつ大きな問題が能登唯一の開かずの踏切だね。
回送電車など駅構内での入替などもあり、何分間も踏切が上がらないことが日に数回もあるんだ。
町内の道路は狭いし、踏切を渡れば右折、左折と混み合い、そこに自転車と住民や高校生が並んで
本当に危ないんだ。駅前と駅裏を結ぶ陸橋を架けるか地下道を作ってほしいと町内では願っているんだ。

七尾の中心地をどう描くか今こそ行政と政治が一体となって力を発揮して頂きたいと思いますね。

あきこのひと言

新しい街、生まれて暮せば、
かけがえのない故郷。