こみみかわら版バックナンバー

第175回 中能登町大槻


町名の由来

二つ伝わっていてね。
この辺は邑知潟へ続いた沼地帯で八幡様の入り口あたりに船着場があって多くの船が着いたことから
「おおつき」と呼ばれたという説と、地勢的に西往来から奥能登へ、眉丈山麓から外浦への交通の要衝で
二宮川左岸の丘陵地に土塁跡が見られるように、この辺りには多くの砦が築かれていて中でも大きな砦、
大きな要塞が大塞(おおつき)砦と呼ばれ、その砦の名前が在所名になったという説があるんだよ。

昔の在所

四六六年前、上杉謙信と武田信玄が川中島で戦っていた頃、ここに両軍合わせて一万人以上で戦った
大槻合戦といわれる大きな戦があったんだよ。
遊佐続光と温井総貞、七尾城の重臣同士が対立したんだね。一五五三年十二月二十七日、
田鶴浜に布陣して進撃してくる遊佐軍を温井軍が飯川から大槻まで広がる末広野で迎え撃んだ。
結果は温井軍の勝利、翌日の羽咋一ノ宮の戦いで遊佐軍は壊滅したということだよ。

この在所は眉丈山系に抱かれた台地に位置してきれいな水が湧くことから
中能登町の水源が二つあるんだ。
それで美味しいお米が採れるので昔はほとんどが農家だったね。
平成二十三年の宮中新嘗祭でお供えするお米は大槻の斉田で作って奉納しているんだよ。

現在の在所

大槻の神社は大日霊女(おおひろめ)神社で女の神様を祀ってあるんだ。
そんなわけかどうか分からんけど女性が多い在所でね。昔は七対三くらいの割で女性が多かったよ。
それで槻和会という婿さんの会が作られていて多い時で二十五人もいたようだよ。
五十年の歴史があったけど人数が減ったので今年解散したんだ。

神輿は菊の御紋でね。明治時代に作られているけど、当時は菊花紋使用が厳禁の時代なのに
どうしてそんなことが出来たのか、どんないわれがあるのか今となってはわからないんだ。
神仏に篤い在所で毎年六月二十日に「田休みまいり」が営まれ西の宮で
阿弥陀如来(光)、大日如来(命)、不動明王(風雨)に
秋の豊作を祈る伝統行事があるけど子どもが少なくなってどう伝えていくかだし、
同じように猪対策で電気柵の予算をもらっても人がいないからどうにもならんのだよ。

祭りや防災訓練の他にボランティアの集いという日を作ってみんなで集るけど、
老人社会の中で在所のあり方をどうしていったもんか思案しないとね。

あきこのひと言

古き里に大きな合戦、神仏に手を合わせる。