こみみかわら版バックナンバー

第176回 七尾市小池川原


在所名の由来

「こいけかわら」という人もいるけど、在所では昔から「おいけがわら」と呼んどるよ。
ここは大谷川と庄津川に挟まれた川原だったんだ。埋蔵文化財の調査で3m掘ったら大きな松や
杉の根が出てきたんだ。大谷川の氾濫で堆積していったんだね。

そして能越道の下になったけどキレイな湧き水の小池があったんだ。畠山城主の茶会にこの水を
使ったと伝わっているよ。そんなことから小池のある川原の在所が由来だと察するよ。

昔の在所

埋蔵文化財の発掘調査でベルトの金属製バックルが二個発掘されたことから、千二百年くらい前の
国分寺の長官、今で言えば県知事みたい人の屋敷跡ではないかと言われているんだ。
神社の裏山に畠山時代の大きな砦跡があるんだ。加賀方面からの敵を意識して築いた丸山砦で、
一ノ曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪と並び、櫓が建てられ、土塁が築かれていて、相当の武将が
配置されていたと思うね。当時のものと思われる立派な鎧兜が残されているんだよ。

元和(げんな)年間というから約四百年前には源左衛門という人が畑を田んぼに開墾したと
伝えられているんだ。土地が狭いので徐々に近隣の村にも田んぼを持つようになって、
昭和三十年代の米の出荷量は七百三十俵と矢田郷で一番だったよ。とにかく働き者の在所でね、
苦労するから小池川原に娘をやるなと言われていたそうだよ(笑)。
そんな在所なので今でも耕作放棄地が無いことが自慢なんだよ。
勤勉な遺伝子が引き継がれているんだろうね。奥能登で行なっている「田の神様」の神事も
ここでは親の代まで行なわれていたんだ。

現在の在所

昔は古府の山奥で在所が一家族みたいもんで、それぞれが「よぼし子」の縁を結んでいたんだ。
普段は付かず離れずの距離感で暮していても、何かあったらお互いに助け合う関係だったんだね。
冠婚葬祭は在所全員で行なっていたよ。

若い人も遠くに出て行かず近隣に住んでいる人が案外多くて、やる気のある人がいっぱいいるから
新しい形で在所を盛り立てていってもらいたいと思っているんだ。十一月に臼と杵で餅つき大会を
やって世代間の親睦を深めたけど、何かしないと町内が分散していくからね。

まなかのひと言

小さな在所に、いっぱいの歴史。
地元のこと、知らないことばかり。