こみみかわら版バックナンバー

第177回 七尾市青山町


在所名の由来

昭和二十二年、満蒙開拓団・青少年義勇団の引揚者が立ち上げた自行農事実行組合と地元農家の
二男、三男と疎開者、引揚者の青山農事実行組合が合併して直津と池崎の山を開拓したんだ。
その時の組合名の青山が町名になったと思われるけど、組合名の由来までは聞いてないんだ。

満蒙開拓団

私で三代目だけど、祖父は鹿島町井田の出身で満蒙開拓団の一員として満州に渡っているんだ。
汽車で下関へ向かいそこから船で満州に渡ったそうで母親が泣いて見送ったと聞かされているよ。
満州に到着すると寝泊りする施設も無くマムシが一杯いる橋の下で何日も寝泊りしなければならず
話が違うとみんな泣いたそうだよ。
引き揚げて来る時、馬から落ちて下半身不随になった男を連れて帰ってきたそうだけど、
当時は足手まといになる人間は見捨てることも多い中、その男は感謝して泣いていたと言っていたよ。

祖父の話の端々から満州では想像を絶する苦労があったと思うんだよね。そんな絆で結ばれた
人たちが開拓してくれた在所だけど、今では開拓当時を知る人が少なくなってしまったよ。

当波元造さんに聞く

父の当波与吉は池崎の出身で東京江戸川に住んでいたんだ。
昭和二十年三月十日の東京大空襲に遭い三月十八日に故郷へ疎開し徳田駅から
歩いて帰って来たと聞いとるよ。そしてこの開拓団に加わったんだね。
開拓団が自前で電柱二十本を立て電気を引いたし立山神社も建てたんだ。
当時は食料が無いからまず自給のために働いたんだね。
白菜や大根、ジャガイモ、サツマイモ、麦と何でも植えたんだよ。

時代が良くなると兼業するようになってね、そうなるとここは不便な所で七尾へ八時に着くには
六時半のバスに乗らなければならないんだ。
それで二代目が嫁さんを貰う時にみんな池崎、松百、石崎へと出て行ったんだね。

現在の在所

五十年前に水害防止のためにと開墾した畑に一万二千本の植林をしたんだ。
それを今年の春先に二十日間かけて伐採したんだ。二十戸以上あった家も今では四世帯になったし、
祭りも私が子供の頃にはもうお参りだけだったよ。

栄枯衰勢は世の習いだけど、ここは苦労人が多く、人情味があってみんな優しい人ばかりだったので、
今も住んでいる人は、みんな仲が良いんだよ。

あんなのひと言

生きるために働き、
苦労したから得られるものがある。