こみみかわら版バックナンバー

第178回 七尾市国下町


在所名の由来

能登国の国衙(こくが)が置かれたことが由来だとする説があるけど、
そのことが書かれた文献がないので事実かどうか分からないんだよ。

国衙とは日本の律令制において地方を治めるために置いた役所のことなんだ。
近くには国分寺や古府など能登国の中心地があったから、なんらかその一角の役割が
あったかも知れないし、役人が住んでいる場所を国衙と言うこともあったらしいいから、
そこに勤める役人が住んでいたのかもしれんね。
そういえば加賀藩の古い地図には国ケと記されていたよ。

昔の在所

六七三年、延宝三年の江戸時代、この辺りに松が植えられたと記録があるんだ。
これは天領となった下と八幡に接する加賀藩領徳田の各在所との境に双方の在所が
立ち会って百姓が納得の上、境に松の木を植えたんだ。その数二三五本だと書いてあるけど、
徳田地区ではその内の一本を名残の松として八幡交差点の近くにて植えて伝えているんだ。
それで八幡の交差点の地下道が一本松と名付けられたんだね。

多くは百姓をして暮らしていたけど大工も二人いたから在所の古い家は二パターンあって、
二人の大工が建てた家はそれぞれに部屋の間取りが全部同じなんだよ。

現在の在所

平成四年に国下の集会所、さんご会館を建てたんだ。
さんごの由来は当時在所の世帯が三十五軒だったことと、徳田小学校のシンボルで校歌に歌われる
珊瑚樹から名付けたんだよ。

さんご会館では総会をやって、若御講には八田の乗龍寺さんと千野の正福寺さんに
交替で来てもらい、百歳体操は毎週行なっているんだ。それと平成2年に結成したH2の会の
お母さんたちが集まってかぶら寿司や蓬莱を作ったりしているし、お盆の納涼祭には里帰りした
人たちも子供を連れて集るからこの時ばかりは活気があり嬉しいよ。

どちらかというとおとなしい町だけど、その分意見がまとまりやすくみんなで
協力し合っているんだ。平均年齢も六十八歳ともう限界集落やね。
獅子舞も私が中学の時に踊ったのが最後だったなぁ。一度復活を試みたけど結局は続かなかったんだ。
それでも田んぼはちゃんと維持して耕作放棄地を出さないでいるんだよ。
この先のことは分からないけど、隣の千野町さんにそのうち交じてくれと言っているんだ(笑)。

まなかのひと言

小学生の時、一本松地下道を歩き通学
今、その意味を知る。