こみみかわら版バックナンバー

第185回 七尾市生駒町


在所名の由来

江戸時代には豆腐町だったけど、明治五年に石川県が誕生した時に鹿島郡七尾町の二十四町の一つとして生駒町として改称しているんだね。なんで生駒町となったのか分からないし、豆腐町の由来も定かでないけど、隣の亀山町が味噌屋町だったことから想像すると、城下町時代にそんなお店が並んでいたのかもしれんね。

また町内の区画が焼豆腐を並べたようだからだとか、川沿いに白壁の蔵が並んでいたので遠くから見ると豆腐が並んでいるように見えたからだとかいろいろな説はあるみたいだけどね。

昔の在所

江戸時代には仙対橋に海鼠(なまこ)を商う豪商の塩屋、長生橋には回船問屋の越中屋があり、それぞれの橋が塩屋橋、越中屋橋とも呼ばれたそうだよ。加賀藩時代に七尾は所口と呼ばれていたけど明治八年に七尾と呼ぶようになり、明治二十二年に町村制が公布されたとき最初の七尾町役場が生駒町に置かれたんだ。

明治二十八年の大火では町内が全部焼き尽くされてしまってね。戦時中には北國新聞社前から商工会議所前までの川沿いの道は強制撤去で作られたんだ。それまでは護岸いっぱいまで建物が並んでいて、そんな頃は御祓川も深くて学校橋まで舟が上がっていたし子供は泳いで遊んでいたんだよ。生駒町のちょんこ山の人形は藤原鎌足だけど山車に子供が鈴なりになっていた時代もあったんだけどね。

現在の在所

夜間人口三十五名中、六十五歳以上が十五名と高齢化の町だね。今までは祭りでコミュニケーションが取れていたけど、だんだん参加する人が少なくなってね。それでもせめて祭り気分を味わってもらおうと、ちょんこ山や奉燈祭り当日には町内で料理を作って出来立てを最優先でお年寄りの家に届けているんだよ。祭りの運行で一服する時はスギヨのちくわをみんなに配っているけどこれも生駒町の伝統なんだ。

それと防災総合訓練で市が指定の小丸山城址公園に避難したけど途中で座ってしまってたどり着けない人ばかりなんだ。これではいけないと班ごとに歩いて三分以内の堅ろうで高いビルにお願いして町内で避難所を設けたんだよ。
コロナ禍で世の中が大きく変わっていくだろうけど、来年はすべての祭りが出来るよう頑張っていかないとね。

まなかの一言

この百年で七尾の町は大きく変わり、
人生百年時代、不安と楽しみ入り交じり。