こみみかわら版バックナンバー

第187回 七尾市川原町


在所名の由来

江戸時代からの町名らしくてね、小丸山城下の東端で府中村と隣接し西に神戸川、東に毒見殿川が流れこの辺り一帯が川原だったからじゃないかな。私が子供の頃でも雨が降れば川が氾濫して水浸しになっていたからね。

資料を見ると安政二年に馬喰町と合併して川原博労町になり、明治にまた川原町に改称しているんだ。

昔の在所

加賀藩時代、金沢から七尾へ入る正式な街道が東往来で川原町から鍛冶町を通って街中に入ったんだ。当時七尾のメイン通りだったけど明治三十一年に七尾駅が保健所前のグランドゴルフ場の所に出来てからは本当に賑わったらしいよ。それが大正十四年に七尾駅が現在の場所に移転し、戦後御祓川の中に板を敷いて闇市の屋台が並んでから人の流れが変わったと聞いているよ。

むしろを作る機械メーカーの古田式農機は全国に販売していたし、米、魚、八百屋、雑貨に質屋、荷車、桶屋、医院もあって七尾で一番地価が高い商業地域だったんだ。

川原町交差点の国道は第二次大戦時に七尾駅と矢田新の工場を結ぶ軍事道路として強制撤去で作られたんだ。七尾初の信号機もこの交差点なんだよ。

長福寺と最勝寺の間を「もり屋敷」と呼んでるけど長屋があったんだ。大店と庶民が混在した在所で隣の家へ醤油や味噌を借りに行ったり、電話も店にしか無くて店の人が民家へ「電話~!」と走って呼びに行っていたよ(笑)。

現在の在所

あぐるしい時代になったね。私も電気屋をしているけど、かつては盆暮れ払いの催促無しで人間関係が成り立っていたんだ。今は店と店が潰し合い、みんな損得で動く世の中になって本当にこれでいいのかと思うね。物事をもっと善悪で考えないと人情が無くなるよ。

昔はレクリエーションや旅行、九月に通りを通行止めにして盆踊りをやっていたけど、人口減でどれも出来なくなったんだ。

山王神社の一の鳥居が川原町にあって本来こっちが入り口なんだよ。在所の登口神社も山王さんの境内にあるけど、何があっても青柏祭、祇園祭など宮行事だけはしっかりと伝承して心意気と人情だけは引き継いでいかないとね。

まなかの一言

栄枯衰勢は世の習い
神仏に帰依する心に未来あり