こみみかわら版バックナンバー

第202回 七尾市湊町一丁目


在所名の由来

七尾港に面して幕末から回船業者も多く港町として栄えていたから湊町じゃないかな。

元は東地子(ひがしじし)町だったのが、明治五年に湊町一丁目と二丁目、それと今町に別れたんだ。地子町とは殿様の所有地で職人を集めて住まわせた場所でね富岡町と魚町あたりが西地子町だったようだよ。

昔の在所

天然の良港で海運業が発達したから回船業やそれに伴う業種が混在して、通りにもいろんなお店が軒を連ねていたんだ。

昭和二十年には八百人くらいが住んで賑わっていたそうだね。昭和三十年代頃までは荷上場に砂利や薪、杉皮や炭などが積んであったよ。能登島から移住した人も多く、七尾の祭りには縁者が遊びに来て、墓参りには能登島へ行ってと交流が深かったんだ。

加賀藩主、前田斉泰(なりやす)が嘉永六年(一八五三年)四月四日に七百人の家来を連れて能登巡見の旅に出て、四月二十日に七尾で宿泊した、ちょうどその日に東地子町から出火して三百七十二軒が焼失したんだ。藩主の目をはばかり簀(すのこ)を張って一行を通したと記録があるよ。

大火の恐怖から中心地に防火池を作り夜回りの詰所を建てて番床(ばんどこ)と呼んでいたようだよ。私が子供の頃に番床は駄菓子屋の松野商店になっていたけど、大人も子供も駄菓子屋を「ばんどこ」と呼んでいたね。当時は子供も多く、「ばんどこ」は子供たちの楽しみな居場所で、よく五円のくじを引いていたなぁ。

現在の在所

袖ケ江も人口減少が進んでいるけど、ここはまだ人が残っている方だと思うよ。お涼みの祇園祭には湊町一丁目と二丁目の境の通称西浜に仮宮が建つので町内も活気が出るんだ。

山王神社の境内には湊町一丁目の金刀比羅神社があるんだけど、元はこの西浜あたりに建っていたんじゃないかとも思われているんだ。金毘羅は海の仕事に携わる人々がよく信仰する神様だから海運業で栄えた湊町の祭神にしたのかもしれんね。いろんな所から人が集まって出来た町で、それぞれが命を懸けて暮らしを立てていくとき、在所の宮が心の支えとなっていたと思うよ。

一昨年、金刀比羅神社の修繕をして気持ちもスッキリしたけど、将来的に金刀比羅神社を町内に戻せないかという声もあるんだ。ともあれ何事も結束して支え合って暮らしていくことが大事な時代になったようだね。

あきこの一言

港町七尾、その源流ここにあり
心意気が残る在所