こみみかわら版バックナンバー

第204回 七尾市竹町


在所名の由来

室町時代ここは畠山城下でその家臣の館(やかた)があったことから、館(たて)町と呼ばれそれがいつしか転化して竹町になったという説があります。
江戸時代から明治二十二年までは竹町村と呼ばれていたと記されています。

昔の在所

城山の麓で山仕事や畑仕事で生活してきた在所です。昔は用水不足で近隣の在所と紛争が絶えなかったという歴史があります。

そんなことから嘉永年間(江戸時代)に二枚田に竹町、府中、藤橋、所口、天神川原、古府、国分の七か村で共同のため池を作りました。「シチカムラの池」と呼ばれ三百五町歩の田んぼを潤したといいます。この池は遠浅の部分もあり小学生の頃は海水浴のように泳いだり、池にせり出した木の上から飛び込んだりして遊びました。

この池も昭和四十七年ごろから不燃物ゴミ処理場として埋め立てられ、今は市立二枚田運動場(ソフトボール場)となっています。

等伯の達磨図を所蔵する山の寺の龍門寺は最初竹町にありました。上杉謙信が攻めてきたとき一時能登島の閨に移転し、その後山の寺に再建されたそうです。在所には龍門寺という小字が残っていて付近の田んぼから五輪塔の石が見つかっています。大天神山の外れには処刑場があったと伝わっています。

現在の在所

本家筋で十六代、十七代と続いている家が七軒残っている古い在所ですが、かつては山の麓の竹町の場所を教えるのが難しかったです(笑)。今は農免道路と城山線が整備され城山交差点が出来て場所が分かりやすくなりました。

能越道が開通し城山インターへの通り道になってから交通量が格段に多くなり、交差点に信号機が付くまでは本当に事故が多かったです。

小学生の頃は春と秋の祭りは神輿が出ていましたが今は松尾天神社でお参りするだけになりました。新しい人も入ってきて人口も年々増えてきましたが、顔を合わす機会が少なく道路と河川の愛護デーで顔を合わせるくらいです。

古いしきたりやしがらみがないので新しい人も案外生活はしやすいのではないかと思います。田んぼも広がり空気も良く、学校や商業施設も近く便利で住みやすい場所になりました。

いずれにしろ住む人みんなが公平で平和に暮らしていける町であり続けたいと願っています。

あきこの一言

七尾城の麓、歴史が漂う在所
田舎の都会、ゆったり暮らす