こみみかわら版バックナンバー

第208回 中能登町最勝講


在所名の由来

法華経、仁王経とともに国家鎮護の三部経とされる最勝王経(さいしょうおうきょう)のお講が営まれていたことに由来すると聞いているよ。

本当かどうかもわからないけど国分尼寺があったんではないかとか、毎月八日に寄り合った日があったとか聞いたこともあるけどね。

確かに在所の中には大塔河原、社の神、総堂、中門跡、権現田など神社仏閣にちなんだ呼び名が多いね。

昔の在所

度々合戦の地になっているようだよ。大きなところでは畠山軍と越中温井・三宅軍の合戦があってね、合戦が始まるという話が伝わると井田、徳前、芹川、馬場などに逃げ、終われば戻ってくるという事が何度もあって離散集合が繰り返されたらしいよ。石動山も近いし色んな合戦があったんだろうね。

石動山とは縁が深くてね、明治七年に石動山の行者堂を十九円で買って在所の天神社拝殿としていたけど昭和六十三年に拝殿を新しくした時に石動山に移築して行者堂に復元しているんだ。神輿も明治八年に石動山から二十六円五十三銭で買い取ったけど、江戸時代のものらしく貴重なものなんだよ。それで石動山資料館に展示させてほしいというので今は預けてあるんだ。

春秋の祭りには持ってくるという約束だけどもう六十年も祭りに神輿を出していないので預けっぱなしなんだよ(笑)。

現在の在所

「最勝講どんどん・おこどんどん・閑所(かんしょ)とかけて十三軒」という囃子言葉があるんだ。これは近隣の子供たちが最勝講が小さい在所だからとからかって言うので私の先輩たちはよくケンカしていたよ。閑所とは便所のことで便所まで数えて十三軒しかないというふうに思われているけど明治十六年で三十六軒の在所だったんだよ(笑)。

在所では、おこどんどんとは、右近殿がなまって、おこどんなんだ。百石持ちもいた在所で、おやっさまが十三軒もあったとか、間口十三間の家が並んでいたと伝わっているんだよ。

一昔前は良川駅へ向かう通学路で高校生がたくさん歩いていたけど今は静かな在所になったね。良川駅とアルプラと中能登中学に近く新しい人が十世帯入ってきているけど、少子高齢化が進んで人も田んぼも現状維持が精一杯ってとこだよ。

あきこの一言

古い通りを散策すれば
穏やかな空気、のどかな在所。