第211回 中能登町坪川
在所名の由来
本当のところはわからないんだ。
地形的には石動山系と尾丈山系に挟まれた邑知潟地溝帯の湿地帯で葦(よし)が生い茂っていた場所でね、そこに二宮川や石塚川と大きい川が流れているけど、川は氾濫するし、田んぼも深いんだ。
淀みというか、溜まりというか石塚川の扇状地の端っこでこの辺りのツボとなる場所で坪川となったんじゃないかと話しているんだよ。
昔の在所
昭和三十年の耕地整理で弥生時代と古墳時代の土器や中世の珠洲焼が出土したけど、水に恵まれ昔から人が住みやすい場所だったと思うね。半面、石塚川は川の土砂が堆積し川底のほうが高い天井川で氾濫を繰り返し洪水との戦いの歴史を持つ在所だよ。
大雨で水量が増すと太鼓が鳴り響き大人が蓑笠姿で川土手へ走ったんだ。長い竹を崩れそうな土手に手当して、藁を積んだりと大変な苦労をしてきたけど、何回も何回も氾濫を繰り返しているんだ。
河川改修で川底や堤から中世の石碑が沢山出てきたけど、被災の度に洪水を鎮める祈願をしていたんだね。先人の苦労が偲ばれるよ。その石碑を在所で大事に保存しようと今年八月に一カ所に移設したところなんだよ。
明治の神仏分離令で宮のご神体だった千手観音を在江の栄林寺に移設安置したら、日清か日露の戦争に出征した人の夢枕にその観音様が白装束で現れ「私を元の居場所に戻してくれ」とお告げがあったので、また神社に戻しているんだ。昭和十五年に神社の境内に観音堂を建立し、今は毎年八月十八日に観音祭としてお参りしているんだ。
神社に幾何学の問題を記した算額が奉納されてるけど、これは県内でも珍しいそうだよ。江戸時代に優秀な数学者が坪川にいたらしんだ。
現在の在所
ランドセルのように仏壇を担いで宿の家に運んだ「回りお講」も月に一回が、集会所で年に一回のお参りになったし、子供獅子も出せなくなって少子高齢化が進んだよ。
そんな中だけど、鹿島バイパスに出る幹線道路の整備が進んで通行が便利になったり、営農組合で田んぼを維持したり、緑の会で耕作放棄地やため池の周りの草刈りなど環境整備には努めているよ。
百楽会もグランドゴルフを楽しみ健康で活き活きしているからいいね。空家の管理など課題もあるけど、風景はのどかで、真面目で勤勉な人が多いので、まだまだ底力はあると思っているんだよ。
あきこの一言
人と神仏と暴れ川
長き歴史を今に繋ぐ在所。